タンポポオムレツ
アメリカ大リーグ、ロスアンゼルス・エンジェルスの大谷翔平選手が怪我から復帰して、また活躍し始めた。彼は日本人離れしたそのスタイルとルックスで、アメリカの女性からも非常に人気がある。そのため彼の嫁さん候補が気になり始める昨今であるが、海外で活躍するスポーツ選手のほとんどが、嫁さんは日本女性を選んでいる。でも私にはこの理由が分からない。一般の日本人男性ならともかく一流スポーツ選手は、高収入で体も大きく魅力もあり欧米人にもてるはずだ。しかし欧米人女性と結婚したという有名選手の話は、ほとんど聞いた事がない。先駆者であるサッカーの中田英寿さんがイタリアのサッカーチームで活躍していた時には、イタリア女性にも人気があったが恋人の噂すらでなかった。
「大谷翔平、アメリカ女性との交際の噂!」このような週刊誌ネタ話が来年あたりでると面白いのだが、彼も結婚相手には日本女性を選びそうな気がする。我々団塊世代は子供の頃に植えつけられた、アメリカ人に対するコンプレックスの裏返しで、白人女性に憧れを抱いた若者も多かったが、当時は生活レベルの差も大きく難しかった。今の若い一流選手は皆ハンサムで賢くて冷静、将来の展望などをしっかりと見据えていて、無理にリスクは取らないのか?そして特に超一流選手は皆さん凄くストイック(禁欲的)で努力家、ドロドロしたところをまるで見せない。
また若い政治家なども最近はストイックで精錬潔白でないと勤まらない。昔は地方議員などは、奥さんは地元で選挙民の対応に追われ東京で一緒に住まない。そこで必然的に東京妻ができる。それをとやかく言う人や記事にするマスコミもほとんどいなかった。でもこんなこと今時やったら大変だ。「公金を女に使った、私的流用だ!」などとマスコミや奥さんを初め皆に袋叩きに会う。知らないうちに凄い監視社会になっている。(お互いにお互いを監視して縛りあう)防犯カメラ、車載カメラ、スマホによる位置情報の管理など行動の多くが、自分の知らないうちに徹底的に監視されている。良い時代になったとは思うのだが?
ところで大谷君はタンポポオムレツが好きだそうで、それも自分で自炊するという。「うん、どこまでも器用で出来る男だ!」
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
ビィラ
ビィラ
イタリアペルージアの語学学校に通っていた頃、長期滞在になるのでペンションからワンルームのアパートに引っ越したことがある。ペルージアの町は歴史が古く、この石造りのアパートもかなりの年代もの300年以上経つと聞いた。私の借りた十畳位のワンルームには中央に大きめのベットがあり、簡単な箪笥とテーブルが置かれていた。4万円程の家賃ではこんなもんだろう?納得し住み始めたがトイレと一緒に付いているシャワーのお湯が出ない!それもタラタラと水が滴るだけだ。友達に聞くと、どこのアパートもだいたい同じだと言う。(山の上に街があるので水圧が低い)イタリアの夏は乾燥しているので汗は殆どかかないが、のどが異常に渇く。
何年もここに住んでいる日本人に聞くと、ドッチェリア(シャワー屋)があるからそこに行けという。街外れにあるその場所を教えてもらい尋ねてみた。入り口を開けるとおばさんがいて、銭湯のように三百円位の金を払い中へ入る。するとそこには幾つかの小さなシャワールームの扉が並んでいた。指定された番号の扉を開けると、二坪程の空間に脱衣場とシャワーが設置されている。そして見上げるとシャワーの上にはタンクがあり、ここにお湯が溜まっているらしい。このお湯を全部使い切ると終わりだと言う。でも体を洗うには十分で気持ちが良い!
イタリア人も余り体を洗わない、二週間位体を洗わなくても平気だ!しかしだんだんカビくさい臭いがしてくる。日本人は皆さん風呂好き!語学学校で知り合った大阪出身の友人ヒロシ君と、「風呂行くか?」授業が終わると誘い合い、三日に一度はここに通うようになった。(彼はその後ここで知り合ったベルギー人の彼女と結婚したが、その後の消息はわからない)そして風呂上りにはビールが美味い。帰りには必ずバールに立ち寄り、通りに置かれた藤の椅子に腰掛け、ビールを飲みながら行きかう人々を眺め雑談する。30歳で同じ年齢の人々が日本で忙しく働いていると思うと、極楽トンボいいとこだった。
イタリア人はワインが主でビールはあまり飲まない。ワインを好むラテン系の国々では相対的にビールは余り美味くない。
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
ブラックサンダー
ブラックサンダー
今年の5月にマレーシアのマハティールさんが、再び首相に返りざいた。以前にも彼はマレーシアの首相を務めいて、長く政権の座にありマレーシア発展の礎を築いた人である。シンガポールのリー・クアンユーさんと並び東南アジアでは立派な指導者であったが、70歳を超えたところで自ら政権を降り後継者に道を譲る。しかし後を受け継いだ何人かの与党の首相は汚職まみれで、多くの国民から批判を浴びることになる・・・。そのため退職後クルーズ船に乗ったり、悠々自適の生活を送っていたマハティールさんに、再度出馬要請の声が国民からあがった。そして彼が作った現政権与党は信頼できないと、あえて野党を新規に立ち上げ政権を奪い返した。
「あと2年して政権が安定したら、辞任します!」と彼はインタビューに答えていたが聞けば御歳92さいで、民主的に選ばれた世界の指導者の中では最高齢だという。背筋を伸ばし、全く歳を感じさせないその言動には感銘を受ける。人生100歳時代になると、このようなことも起こりえるのか?政界ではかつて日本でも「50,60はハナタレ小僧!」と呼ばれていたこともあったが、マハティールさんから見れば全くそのようだ。でも彼のような偉人とよばれる人はめったに現れない。政権の座に長く着いても、初志貫徹できる人など殆どいないと考えるべきだ。そのために定年や任期を設ける。でも最近この制度を改悪する動きも目立つ。
いま日本では、レスリング、アメフト、ボクシングとフェアープレイを標榜すべきスポーツ界で、パワハラ問題や不正などトップに居座る人々による、強引な権力行使が非常に多い。最近わが母校日大のアメフト部では試合中の関学の選手に、ルール違反の強烈なタックルで社会問題になった。監督、コーチの指示での行為だが、権力の座に長くいると組織や人は汚職や腐敗を招き、健全なガバナンスの維持管理が難しくなる事例の一つだ。人々の権力批判などが自由に発言できるはずのネット社会でも、ロシアや中国を初め一人の人間が、権力の座に執着する傾向が強くなってきている・・・。自民党も多数与党を背景に安部さんがいろいろ問題を抱えながらも、3選する可能が非常に高い!
ところで安部首相の好きな食べ物は、有楽製菓から販売されている一個30円のチョコレート菓子、ブラックサンダーだと言う。
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
氷スイ
氷スイ
「うーん、こいつは確かに簡単で良い」まだ長女の娘が子供の頃、ペンギンの形をした「ペンギンちゃんのカキ氷」ハンドルを手で回転させると、簡単にカキ氷が出来るおもちゃの道具が爆発的に売れたことがある。家庭の冷蔵庫の氷でカキ氷が作れたので、お汁粉の缶詰を三越で買ってきては氷アズキなどを作って楽しんでいた。カキ氷はアイスクリームより作り方が簡単なので昔から人気がある。ただ氷は硬いので特別な機械がないとつくれない。子供でも作れるカキ氷、このアイデアはよかった。昔は街角の甘味処や普通の食堂などいたる所で、カキ氷の機械を店頭に置き夏場だけカキ氷屋を始めるところもあった。家の近くにも大衆食堂がありここのカキ氷はよく食べた。
「おおーい、愛子出るぞー!」と女湯に声をかける。「はーい。」と隣から奥さんの声が「もう、お父さんたら恥ずかしいから止めてよ」私が子供の頃、夏場夕方になると家族で連れ立って銭湯に向かう。そうすると当然入り口で女と男に別れるが、一緒に帰るにはある程度時間を合わせる必要が出てくる。当時の銭湯は風呂場の男湯と女湯の仕切りが天井近くで大きく空いていて、隣の声がよく聞こえた。そこで風呂場を出る時にお互いに声がけをするのだが、これが奥さん方には非常に評判が悪いのだ。「みっともないから私は絶対に声は返さない」という奥さんの反発で、いつしかこの声がけはなくなった。たまに面白いことを言う人もいて、どっと笑いが起きる。
でもこの声がけを私の父親はしなかった。そこでこれは私の役目。「おかあちゃん、おとうちゃんがもう出るって」すると父親が笑って「お前、おとうちゃんは言わなくていよ」とかえされた。しかしこの声がけでその夫婦や家族のことがなんとなく想像できて面白かった。そして銭湯の帰り道、たまには食堂に入り皆でカキ氷を食べる。「俺、氷スイがいい」姉達はイチゴ、レモン、メロンなど可愛い色つきを頼んだが、私はいつも無色の蜜の氷スイにした。まだ冷房の無い時代、暑い夏場は食堂の窓は開けっ放し、やっと普及し始めたテレビの野球放送に釘付けになった。いつのまにかカキ氷は解け、ただの冷たい甘い水に。
カキ氷は本来ガラスの器がいい。でもあえて陶器ならこんな器ならあうかも。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
チョコレート
チョコレート
敗戦後、日本に進駐してきたアメリカ人兵士はジープに乗り観光気分で街中に繰り出す。すると腹をすかせた子供達が手を出し寄ってくるので、面白がってチョコレートをばら撒いていたことがある。善意のためと肯定する気持ちもあるが、飢えた餓鬼に食料を恵んでやる程度の事だったと思う。「ギブミー、チョコレート」我々の世代以上の子供が、最初に憶えた英語がこれであると言う人も多いと思う。しかし戦後の混乱も収束し始めると、カカオ豆の輸入が始まったのか日本でも明治や森永製菓が板チョコを販売し始める。板チョコは大小あり、大きいほうが100円で当時としては高かった。でもこの板チョコの値段60年ほど経った今でも、ほとんど変わらないのは脅威である。
「わー、凄いスクーターだね!」始めて見る買ったばかりのスクーターはピカピカに輝いていた。近所の勝ちゃんの家では、このスクーターを入れるために先日わざわざ玄関を直し、車庫のように大きく改造したばかりだ。そのころスクーターは今のレクサスのような高級車で、庶民が簡単に買える金額ではなっかったと思う。そこへ夕方になると叔父さんが、スクーターに乗って颯爽と帰ってくる。いつか俺もこんなスクーターに乗ってみたいと憧れの眼差しで眺めていた。ところがそれから暫くすると突然の訃報が舞い込む!勝ちゃんのお父さんがスクーターで千葉街道を走行中、進駐軍のジープにはねられて死んだというだ。
数日後に家族の悲しみの中、自宅でひっそりと葬儀が開かれた。するとそこへ突然ジープに乗り軍服を着た米兵が、大きな花束を抱えてお見舞いにやってきた。私はこの時に初めてアメリカ人を間近で見たが、印象は同じ人間とは思えず、大きくて鼻が高い赤ら顔の異星人という印象をもった。彼らは通訳を通じてなにか話をしていたが意味も分からず、ただ遠巻きに眺めていた。(当時の事で一般庶民が進駐軍に何か言えるはずもない)原因究明も行われずに、わずかなお見舞金で泣き寝入りだったと思う。その後お父さんを失った勝ちゃんの家で何があったか分からないが、三ヶ月もたつと美容師で美人のおばさんは、4人の子供達を連れてどこかに引っ越して行った。
今はチョコレートなど星の数ほどあり、孫達は見向きもしない。
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)