ホットドック!
私は長いあいだ婦人靴のデザインを仕事にして来た関係上、ファッションにはいつも興味を抱いてきた。でもいろいろ考えて見ると、戦後日本人のカジュアルウェアーの原点といえば、それはブルージーンズではないだろうか。いつの時代もブルージーンズはカジュアルウェアーとして人気があったが、最近ふと気がつくとブルージーンズを履いている人をあまり見かけない。これだけ長いこと履かれるとさすがに飽きられたのか?でもブルージーンズはある時代飽きられても、また何時の日か必ず復活してくる・・・。私の記憶をたどると、ジーンズを街中で見かけるようになったのは確か私が中学生の頃で、上野のアメ横などで売られていた米軍の中古ジーンズを、一部の人がファッションとして履き始めたのが最初だと思う。
「ロバート・フラーが店に来てるって!」昭和30年代の中頃、突然の噂を聞きつけて私は家業の手伝いで通っていた、日本橋三越の階段を駆け下りた。1階のホールにはその姿を一目見ようとすでに沢山の人だかり、人を掻き分けどうにかロバートの見える位置まで近づいた。「彼がロバートか、なーんだ・・・。」あまりいい男ではない。背の高い赤ら顔のその印象は白黒テレビでの姿とは異なっていたのだ。そのころテレビではローハイドやララミー牧場といったアメリカの西部劇が放映されており、お茶の間では大人気で皆が食い入るように見入っていた・・・。特にララミー牧場に出演していたロバート・フラーは日本では人気があった。テンガロンハット、赤シャツにスカーフ、ジーンズにブーツ、そして腰の拳銃と西部男のこの着こなしは男の子の憧れの的であった。
こうしてブルージーンズの第一回目の流行は始まったが、今のように大人や女性に履かれることはなく、じきにバンなどのアイビー・ルックに人気が移っていった。この頃中高生などがファッションに飛びついてお洒落をすれば、とりあえずみなに不良と呼ばれた。(不良でもなんでいい、高校生の頃はアイビールックに夢中だった。)そして大学生になるとアイビールックも下火になり、日本も高度成長期をむかえる。外貨が増え本格的にリーバイスやリーなどのアメリカのブランドジーンズが日本に輸入されてくると、今度は若い女性もミニスカートとともにジーンズを履くことも流行し始めた。そのご何度か大流行の波が来て、ジーンズは日本人のカジュアルウェアーのベースとなっていく。
でもこのころ流行った言葉に皆さんもよくご存知のTPOがある。そのため当時まだホテル、飛行機など公の場所ではジーンズはご法度であった!ジーンズに相性のよい食べ物ならやはりホットドック?(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
水飴
水飴
先日私の子供のころ砂糖が貴重だったという話は書いたが、そのかわり当時砂糖の代用品として重宝されていたのが水飴である。水飴はモチ米から作るという。作り方などは詳しく知らないので、興味のある方はネットなどで検索して欲しい。その水飴だがまだテレビのない頃、子供達の楽しみは毎日のように街にやって来る紙芝居である。小学校から帰り3時ごろになると、紙芝居のおじさんが自転車の荷台に大きな箱をくくりつけ、いつもの場所にやってくる。すると子供達に知らせるために「カチ、カチ」と拍子木を打ち町内をまわっていく。「おかあちゃん10円!」と宿題なども即中止し小銭を握り外に飛び出だした。
そしてこの時代、紙芝居屋での駄菓子の一番人気は水飴である。持ってきた10円をおじさんに手渡すと、半分に折った割り箸しにドロドロした水飴を絡め取り手渡された・・・。受け取ったその水飴を二本の割り箸で器用にかき回すと、空気を含んだ水飴は徐々に白く濁ってくる。この色の変化が面白いので誰もがこの作業をしてから水飴を口に放り込んでいた。(また女の子には丸い薄焼きフワフワセンベイに両側から水飴を挟み、半分に割ったセンベイを耳のように付けるウサギが手渡された)そのほか紙芝居屋のメニューには酢昆布、イカの加工品、ハマグリの貝に入った食紅で真っ赤なニッキ飴などで種類は多くない。するとどうしても通常は水飴を頼むことになる。
戦前紙芝居の定番といえば髑髏仮面の黄金バットであるが、我々の子供の頃はすでに黄金バットは峠を越えていたと思う。私の記憶にあるのは時代劇で悪代官が庶民を苦しめたあげく、殿様に処罰される水戸黄門スタイルの物語だった。紙芝居は基本筋書きが曖昧なのでおじさんの口上が全てだ。いかに臨場感あふれる場面に見せるかはおじさんの語り口次第!そのため当然同じ紙芝居屋でも人気度に優劣が付く。ある時この街に突然見慣れない紙芝居屋が新規参入して来た。若くイケメンのこの紙芝居屋が気に入ったので、いつもの紙芝居屋を子供たちでボイコットした。「さあ大変!」事情を察した古株は次の日、新規のイケメン紙芝居の仕事中に乗り込んできた。そして「お前、鑑札見せろとつめよった!」どうもイケメンは無許可だったようで、それから二度と現れる事はなっかった。戦後暫くは仕事も簡単には見つからず紙芝居屋も憧れの職業だったのか?
わが家でも今は大型スクリーンの鮮明な画面で臨場感あふれるテレビの画像を見ている。でも4k、8kテレビの登場でまだまだ映像は変化し続ける。水飴を口に含み紙芝居を見入ってた頃との時代の差異に驚く。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
ロックアイス
ロックアイス
もう三十年も前、日本がまだバブル前の全盛期の頃、活況に沸いていた日本はアメリカと貿易戦争を繰り広げていた。「日本アズナンバーワン」などという本も出版され、東証の株式時価総額がニューヨークのそれより遥かに上回っていたこともあった。株や土地、ゴルフ場などの価格が高騰し、含み益を抱えた個人は海外ブランド品などの高価な買い物に走った。そしてこの頃に読んだ本で、著者名は忘れたが、世界の覇権はじきに繁栄の日本から西へ移動し中国へと向かう。歴史的に見ると繁栄国は反時計回りに回っている。中国、インドから始まったその流れはローマ帝国、スペイン、イギリス、アメリカ、日本と巡り再び中国へと回帰して行のが自然!との記述があった。
今日その予言どおりネットやハイテク技術の開発競争に中国が参戦。猛烈なスピードでアメリカを超えようとしている。足元をすくわれ始めたアメリカトランプ政権が関税障壁で貿易戦争を仕掛けるも、人口に勝る中国に軍配が上がるのが歴史の必然なのかも?という思いが強い。そしてまた4半世紀も経てば、人口が爆発的に増えているインドが、やがて中国を追い越す日が来るのかもしれない。いずれにしてもいよいよアジアの世紀が始まる。しかし習近平の共産党独裁体制の中国が世界の覇権を握ると、国防や貿易で無理難題を突きつけられないか?非常に心配だ。日本独自では何も決められない、なんてことになった情けない・・・。それにしても少子化で国力の落ちてきた日本は最近、いよいよ移民を受け入れる体制を整え始めた。
昨今介護士のなり手も少なく人手が足りないという。これから高齢化社会を迎え気になる。でも我々が死ぬ頃には介護はロボットが登場するだろう?確かに人は死ぬ時は通常は誰かの手が必要だ・・・。「アイちゃん、オシメかえて!」「はーい」と二つ返事でオシメをかえてくれるロボットのアイちゃん。もう私はこの子に3年も世話になっている!「少ない遺産だけどお前に残すから、それで新しい部品を買いなさい。」「ありがとう」とアイちゃんはニコヤカにうなずいた。税収が少なくなる将来、ロボットからも所得税を徴収することになるだろう。すると当然ロボットも遺産相続などできないと取るばかりでは不公平だ。
「近未来は明るいのか?」ふと立ち止まり考える・・・。「まあどうでもいいか?」先日ウイスキーのロック用に丸い氷が作れる容器を頂いた。確かに写真のコップでのむロックは旨い気がする(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・富岡伸一)
砂糖
砂糖
私はコーヒーや紅茶には通常、砂糖は入れない。別にダイエットを気にしているわけでもないが、年齢と共に嗜好が変わってきた。日本人全体の好みも同様で、チョコレートやケーキなども以前ほど甘くない。たまに外国産のクッキーなどをお土産で貰うとすごく甘く感じる。それと近ごろ軒数が減ったが個人経営の喫茶店にはいり、時間つぶしにコーヒーなどを頼むと、知らぬ間にコーヒーに入れるスティック砂糖もずいぶんスリムになっている。以前はもっと太っていて、いつも半分しか使わないで切り口を折り残しておいた。自販機で買う飲料も、砂糖の入った甘いものより無糖のお茶の方が人気があるようだ。
戦後暫く私が幼児の頃、日本には外貨が無く台湾も日本から独立したので、砂糖は貴重品であった。そのため代用として合成甘味料のサッカリンが使われた事もあり、これで作られた食品はどれも甘みはあるが不味かった。甘さが何か不自然で、苦味も少し舌に残る。当時サッカリンは小さな試験管のような透明なガラス管に入っていた。白いその結晶は同じグラム数で砂糖の500倍の甘さを持つという。我が家でも母親が試しに使ってみたが、あまりに不味いのですぐにやめた。(最近合成甘味料はダイエットコーラなど飲料水にも使われているようだが、ステビヤやサッカリンはカロリーが全くないらしい)それに当時家庭で使う砂糖はだいたい茶色の三温糖で、白砂糖は高級品なのでわが家ではあまり使わなかった。
「伸ちゃん、ちょっと待ってな」と戻ろうとする私をおばさんが笑顔で呼び止める。そのころ母親に頼まれ自宅前の家に回覧板などを届けることが度々あった。おばさんは奥の台所に消え、ゴソゴソと何かを取り出しちり紙で丸めて「これでも舐めて帰りな」と手渡してくれた。開くとなんとそれは白砂糖だった!前の家も子供が多く飴等も常備してない。飴の代わりにお駄賃が砂糖のこともあった。とりあえず甘いものに飢えていた時代、それが砂糖でも嬉しかった。喜んでおばさんに礼を言い、家に戻り母親に告げると、母親もニコニコ「そうか、この手があったのか!」と言いたげだった。そのくらい砂糖は貴重で子供達は飴玉一つで泣きやんだ。
私はチョコレートが好きだ。子供の頃はめったにお目にかからなかったので、今もチョコレートを見るとつい手が出る!たまに孫が来宅するがテーブルの籠に入るチョコレートなどには見向きもしない。
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
タマゴサンド
タマゴサンド
最近ではスーパーマーケットもコンビニに押され余り精彩が無い。そこで一度スーパーマーケットが日本にアメリカから導入された当時を振り返ってみよう。スパーマーケットという小売店の業態が新しく登場したのが、1956年というので私が小学生の頃である。それまで食材は酒屋、米屋、肉屋、魚屋、乾物屋などの専門店として細分化されていて、夕食の買い物には数軒の店に立ち寄る必要があったのだ。そのため主婦は離れた場所にある専門店を巡り時間がかかる。自転車は今ほど普及しておらず、それに自転車に乗る女性は稀だった。もちろん私の母親も自転車には乗れなかった。でもスーパーではそれらの買い物が一箇所で済んだために、瞬く間に全国に広まっていった。
「商品を自由に籠に入れて買い物できると、万引きされないか心配だよね!」最初スーパーができたころ、こんな話も家族の間で話題になっていたが、たいしたトラブルも無くこの制度は日本に根付いていった。すると時の経過と共にドラえもんでお馴染みのジャイアンの八百屋、サザエさんの酒屋三河屋、などの個人商店が徐々に店仕舞いするところが増えていった。ところが拡大を続けたそのスーパーも、ダイエーが福岡ドーム球場を作った1993年頃にはすでに下り坂で、代わりに登場したコンビニにシェアーを奪われる。ところがいま絶頂期にあるコンビニも出店競争により飽和状態で、新しく急拡大しているアマゾンなどの宅配サービスに押され、安穏とはしていられない。
今世界では、アマゾンやアリババなど巨大化したプラットホームによる既存の商品流通チャネルの侵食が問題となっている。「こんなことでは後十年もしたら、うちの商売立ち行かなくなる」と心配する人も多い。確かに直接自宅に食材などの商品を届けてくれるシステムは高齢者にとってもありがたい。でも買い物にも行かなくなると運動不足や近隣とのコミュニケーションもなくなる。昔は主婦が一旦買い物に出ると中々帰宅しない。途中で出会った顔見知りと長なが立場話を始める、買い物籠を手にした主婦の塊をあちこちで見かけた。「早く帰ろうよ!」連れの子供が袖を引くと「あなた先に帰っていなさい」と無視する。「腹減った、早くかえって飯作れ」との思い。でも私の母親は「江戸っ子」長話はしませんでした。
最近コンビニのタマゴサンドはよく食べる。でも昔のサンドイッチは食パンのミミは切らずに付いていたと記憶する。何時頃から耳を切って販売するようになったのかは定かではない。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)