ショー

「ゴーン、耳を劈く轟音と共にそのショーは始まった!」スポットライトがフォーカスし、流行の衣装を身にまとったモデル達が次々に現れる。三十年もまえ女性達がまだ着飾ることに今よりもずっと関心が高かった頃、コシノヒロコさんのパリでのファッションショー開催に、同行させてもらったことがあった。ちょうどこの時期に私が仕事を請け負っていた神戸の婦人靴メーカーが、コシノさんのショー用の靴の製作依頼をうける。何度か大阪のコシノさんの事務所を打ち合わせに訪れた後に、私もパリでのショーに同行することになった。ショーを開くのは凄く大変。ショー用の衣装担当やヘアメイク、音響ミキサー、モデルなどたくさんのスタッフや荷物が日本から遠路パリまで移動する。準備が大変な割には公園の仮説テントで行われたショーは僅か3,40分余りで終了した。

ファッション業界の企画スタッフはとてもユニークである。男性はオネエ言葉でナヨナヨと「それ、お似合いよ。とっても素敵だわ!」などと女性言葉を使う。一方女性は「何言ってんだ。そんなこと知るわけねえだろう」などと言葉がぞんざいで男のようだ。なれないと感が狂うが私は「あら、それお綺麗ね!」などとオネエ言葉は冗談にも使うことは無かった。大体婦人服をデザインする男性デザイナーは、実際に婦人服を身にまとい女の気持ちになって、あれこれ修正を加えたりしないと完成できない。細部にも神経が行き届き、繊細でデリケートな感覚を持ち合わせてないと大成しない。それで必然的に女性的になるのであろうか?それとも生まれつき女性的な人が係わる職業であるのかは分からない。

婦人靴ではどちらかというと、女性的な高寸のパンプスをデザインするのが私は好きであった。パンプスの湾曲した靴のフォルムやヒールのラインを眺めるとセクシーだ。そこで男性でもパンプスを愛し密かに収集して楽しむ倒錯者もいるらしい。より美しい靴のラインなどを追求していると、その靴を履く女性のフォルムを連想することになる。「コマタの切れあっがったいい女」と親父がむかし言っていた。コマタが切れ上がったとは足が長く足首の締まった女であるという。まだ和服で身を包んでた時代、唯一むきだしの足首だけで良い女のフォルムを判断するのは難しかったかも?見合いで結婚し「あけてビックリ、上げ底だった」なんて、まるでギャンブルである。今の女性はピッタピタのジーンズにニットシャツなので、とりあえず箱の絵と中身が違うクレームはなさそうだ。

最近ではマツコデラックスを始めオネエ言葉を使うタレントがテレビに多く登場すると、オネエ言葉も性同一性と同様に市民権を得るようになってきた。

写真は10年前に製作の人形です。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

トマトジュース

「伸ちゃん、ジョニ黒の水割り3つねー」とオネエさんの声。するとバーテンダーが手早く作った水割りを盆に載せテーブルまで届ける。大学を卒業しヨーロッパ放浪の旅から戻った私は、新聞広告を頼りにとりあえず銀座のクラブでボーイのアルバイトをすることにした。そこはとうじ銀座のタイメイ小学校の前の路地を入ったところにあった「楡」という名の小さなクラブである。カウンターの中にはマスターとバーテンダー、ボックス席が四つあり2、30代の女性が5,6人ほどいたと思う。女性に手渡すグラスの持ち方を見て、カウンターに戻った私に「グラスの口元は絶対に手で持つな、それはボーイの基本だよ」とマスターから注意を受けた。それからは人に手渡すコップ類の飲み口には、手で触れないようにしている。

「伸ちゃん、V8(ブイハチ)お願いね」とまたオネエさんの声。今度はブイハチか、でもブイハチっていったい何だ?ブイハチとはアメリカの缶入りトマトジュースことで当時まだ珍しかった。これならカゴメのトマトジュースと違い客は単価を知らないので高額請求できる。女性達はあまり酔うと仕事にならないので、途中でお酒の代わりにこれを飲んで酔いを調整していた。当時ブイハチは輸入品なので高かったが、今ではコストコに行けば、カゴメのトマトジュースよりも安く買えるのではないか・・・?なれないとトマトジュースほど口に合わないジュースもない。子供の頃は苦手だったが、歳を重ねるとトマトジュースの味にも慣れた。

坊ちゃん育ちでプライドの高かった私は、それまで人にコキ使われたことがほとんどなかった。ハイハイと二つ返事で素早く動く、初めての経験をけっこう楽しんでいた。父親は別に反対もせず「若い頃は色々経験したほうがよい」と笑っている。しかしそれを聞いた長女が心配だったのか、旦那に相談したらしい「へー、あの伸ちゃんが銀座でボーイねえ!」と興味を持ったらしくある晩突然「いたぞー、ここだ、ここだ」という声と共にドヤドヤと義兄と5、6男が店の戸を開けなだれ込んできた。席にすわり水割りを一杯ずつ飲むと「頑張れよ」と声を残し馴染の店へ向かうのか、早々に夜の銀座に消えていった。でもいくらなんでもここまで自分を落とすこともないか?ボーイは馬鹿らしくなり三ヶ月でやめた。

トマトは好きだったがトマトジュースは余り好みでなかった。しかしトマトジュースも飲み続けるとけっこう癖になる。むかしは塩をふりかけ飲んでいたが、ジュースの味が変わったのか?今ではこの習慣もなくなった。

写真のバックは陶器で作った自作のバックです(勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

アスパラジー

子どものころ洋食好きだった父親がある時、明治屋のホワイトアスパラガスの缶詰を買って帰った。当時まだ缶詰のラベルは缶に直接印刷されずに、無地の缶の上に紙のラベルが巻かれていてた。記憶をたどると確か紺の地色に白いアスパラ数本が、ピンクリボンで束ねた図柄だったと思う。「アスパラガスって何だろう」初めての経験に興味深々で見ていると、父親が缶切りを持ち出し缶詰を開ける準備をする。「アスパラの缶詰はなあ、缶をひっくり返し下から開けるんだ。そうしないとせっかくの綺麗なアスパラガスの穂先が、缶きりで傷つく」と言いながら缶詰を開いた。すると中から真っ白いアスパラがヌルットすべり出てきた。「わー、すごーい!」美しいその姿にうっとり。

しかし当時、缶詰を開けるのはなかなか苦労した。まず缶の仕様が同じでない。缶詰の蓋の部分に缶きりのガードがないものも多く、今の様な缶切りでは開けることが出来ない。だから缶きりの種類もいろいろで、最近では見ないユニークなものがあった。最初に缶詰の中央に先端の尖ったキリで穴を開け、そこを支点に缶を回しながら上下に切り進むタイプ。これは結構大変なので、半分も開けると後は強引に手でこじ開け流しだす。しかしアスパラガスは柔らかくてデリケート。父親は頑張って最後まで綺麗に缶の蓋を切り取った。でも出てきたアスパラの数は10本弱で家族6人で分けると1,2本である。

アスパラは当時まだ珍しかったマヨネーズをつけて食べた。マヨネーズも今のようにチューブでなく、ビン詰めだったので蓋を開けスプーンでとりだし、皿に置かれた一本のアスパラの横に添える。長いアスパラは箸では切れないのでマヨネーズをつけながらチビチビと噛む・・・。初めて食べた真っ白いアスパラとマヨネーズは生涯記憶に留まることになる。それから暫くのあいだ日本では缶詰の白アスパラだけしか市場に出回ってなかったと思う。ところが20年が経過したある日、春になったイタリアの八百屋の店頭に沢山のグリーンアスパラが並ぶ「アスパラって本当はグリーンなのか?」その時初めてグリーンアスパラの存在を知る。ドレッシングで食べるレストランのグリーンアスパラは実に美味かった。でも帰国して数年経つと北海道で大量に作られるようになり急速に一般化した。

イタリア語でアスパラはアスパラジーと言い春季限定の人気サラダであった。今日本ではアスパラは一年中多く出回っており、別に感動や季節感も無い。

(勝田陶人舎・冨岡伸一)

ダンヒル

病院の職員さんでも今だにタバコを吸う人がいる。自ら率先して禁煙を指導する立場の人が禁煙できないとは情けない。私の工房横には勝田台病院という名の病院があるが、数年前に院内が禁煙になると院外の私の工房脇で、一部職員が隠れるようにタバコを吸っていた。しかしこの場所も喫煙禁止になったようで、ひっそりと灰皿として吊るされていた缶もはずされた。でも休憩時間などに病院から離れた場所で、まだタバコをくわえる人を見かける。酒は飲むがタバコを吸わない私はどうしても喫煙者に注ぐ視線はきびしい。数年後には小さな飲食店でも全面禁煙にする法改正などもあり、喫煙者にとっては肩身が狭くなる一方である。「私は意志が強い!強いので喫煙は絶対に止めない」といった友人がいたが、確かに今だに止めないのは意思が強いのかも?

「冨岡さん、店のマッチのデザインしてよ!」大学生の頃、新しく開店したばかりの「レモン」という名のスナックに通い始めると、この店のマスターから絵を描くのが好きだと知った私に、マッチ箱のデザイン依頼があった。早速レモンの輪切りや外形を並べた下書きを、翌日マスターに見せると「これ良いねえ!ありがとう」と即採用になったが、ギャラは店でのビール2本だけ!でもこれがその後デザイナーになった私の生涯初仕事になった。当時はどこの店でも籠に入ったサービスマッチ箱がカウンターに置いてあり、自由に貰えたのでマッチ収集を趣味にする人もいた。私のこのパッケージ意匠の評判はよく「タバコを吸わない人でも持ち帰る人が多い」とマスターから聞いた。

ところであんなに何処にでも転がっていたマッチが、最近では全く見かけない。喫煙者も少なくなったので需要がなくなったのだと思うが、代わりに登場した百円ライターですら最近では見る機会が少ない。「どうだー、このライター良いだろう!」むかしよくダンヒルなどの高額のライターをこれ見よがしに取り出し、自慢げにタバコに火をつける奴が結構いたもんだ。飲み屋の女性も持っているライターと腕時計のブランドで、客の品定めをすると聞いたこともある。当時浅草の仕事場近くのラーメン屋のマスターと時々飲みに行ったが、厨房で中華鍋を振る彼のゴツイ手に巻かれたロレックスの高額時計と、タバコを吸う時に取り出した細いダンヒルのライターが、太い指とアンバランスでユーモアを感じた。

腕時計は高校入学時に父親から銀座和光で買ってもらったセイコーの一本だけで、その後腕時計はしない。ライターは百円ライターとマッチがお気に入り。とうぜん財布は持たず何時もポケットに現金を忍ばせて通した。でも携帯電話を使うとバックを下げ、パスモを使い始めると財布が必要になった。

(勝田陶人舎・冨岡伸一)

ティーシャツ

「レナウーン、レナウン、レナウン、レナウン娘が、お洒落でシックなレナウン娘が、わんさか、わんさか、イェーイ、イェーイ、イェイ、イェーイ・・・」と日頃のウップンを晴らし、むかし爆発的に流行ったこのレナウンのコマーシャルソングに乗って、今日は軽快に行ってみよう!ワンサカ娘というこの歌、登場したのは日本が高度成長を始めた1967年である。作詞は小林亜星さんで当時歌手として人気のあった弘田三枝子が歌を歌った。なにしろ当時この衝撃的な曲と共に発売された、レナウンのイェイ・イェ、ブランドの服は斬新であった。それまで無かった、カラフルで大胆なボーダー柄の色使いのセーターと、流行り始めたスリムなミニスカートやパンタロンの組み合わせは、若い女性の心を捉え爆発的に売り上げを伸ばした。

ファッション産業は未来産業である!このころアパレルなどのファッション産業は自動車、家電業界と共に、これから伸びる産業として非常に注目されていた。私もその言葉に刺激されファッション産業に係わることになる。私が大手婦人靴問屋に入社したのが1971年であったので、確かにそれからバブル崩壊までの20年間は右肩上がりで業界は伸びていった。日本の経済成長と共に裕福になった女性達は競ってオシャレを楽しむようになり、洋服代に金をたくさん使った。オシャレ好きな女性達の中にからは購入者では飽き足らず「ブティク」とよばれた洋品店を自分で開店し、品揃えやコーディネートを競い合う人もいた。あまり繁華でない街中にも個人経営のブティクは進出したが、今では殆んど見かけない。

先月レナウンが倒産というニュースが飛び込んできた。前から経営が厳しいという噂は聞いていたので、別に驚きはしない。ただアパレルの優良会社であったオンワードや三陽商会なども売り上げが年々減少し、何年か先には破綻する可能性もあると聞くと時代の盛衰を感じざるえない。「これからはスマホの時代です」数年前に亡くなった、あのアップルの創業者スティーブ・ジョブスは株式総会でスマホを掲げて誇らしく叫んだ。そのような大舞台でも彼の衣服はティー・シャツにジーンズの上下で一万円前後!「むだな衣類などに金を使わず、これからはもっと通信に金を使うべきですよ」というメッセージに見えた。その他アマゾンのベゾス、フェースブックのザッカーバーグ氏などネット系の大金持ちは皆ラフな、ティー・シャツにジーンズ姿である。

最近口紅などの化粧品の売り上げも減っているという。確かにマスクをしていれば口紅なども付ける必要も無い。着飾ることもなければ、化粧もしない。するとこれからの女性はボディーシェイプとインテリジェンス、中身が勝負になりますか?(勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

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