海亀の卵

小学生の頃は自由奔放に行動し学校嫌いだった私はとりあえず授業のない、年に一度開催される学芸会は楽しみの一つであった。当時学芸会は各学年ごとに発表する劇の演目を先生が決め、選ばれたクラスの代表がそれぞれの役柄を演じていた。当然私は選ばれるはずも無いので、その他大勢で小学生唱歌を壇上で歌って終わった。学芸会での「浦島太郎」の演目はたぶん小学3年生の時であったと思う。真っ黒いカーテンで覆われた講堂の中は暗く、舞台だけが妙に明るく照らされていた。このとき主役の浦島太郎は通学路に面していた下駄屋の息子、秋山君が抜擢された。ストーリーは単純なので説明にも及ばない。ただ浦島太郎が竜宮城から持ち帰った「玉手箱」を開けるシーンに私はとても衝撃を憶えた。

「あれ、なんだ今のは?」正直ビックリ仰天した。玉手箱を開けた秋山君の顔が瞬時にお爺さんのお面顔へと変身!一瞬の出来事に講堂の床に座り見ていた子供達からもどよめきが起こった。「どうなってるんだよ」と気になったので、後で秋山君にそのお面を見せてもらうと、お面の裏には突起がついていて歯で噛むだけでお面を被った状態になる。「先生が考えたのか、頭いいなあ!」その仕掛けにとても感心したが、後になってこれは歌舞伎などでも昔から用いられた方法で、特別なアイデアではないと知って、「なあんだ」ということになった。当時はテレビが各家庭にやっと入り始めたころで、娯楽の中心はまだ映画や演劇で歌舞伎、新劇なども人気があった。

浦島太郎の海亀といえば、去年おとなり中国では海亀と呼ばれる若者集団が話題になっていた。中国の優秀な学生達がアメリカなどの先進国に留学し、大学や企業でハイテク技術を学びエンジニアに育って帰国する。これを中国では「海亀」と呼んで優遇した。彼らがアメリカに追いつけ、追い越せと新しいビジネスを多く創業すると、これがアメリカのハイテク産業にとって脅威となる。「このままでは中国に抜かれえるかも?」するとあせり始めたアメリカはこれら海亀達の締め出しを実行する。「中国人もやる事がエゲツナイ!」技術の習得だけならまだしも平気で機密情報まで盗んで持ち帰る。トランプ政権からバイデンに大統領が代わったが、エスカレートしていく米中覇権争いは勝敗の決着がつくまで続いていくと思う・・・。

三十年以上も前、友達とよく通った北千住の割烹「浦里」では海亀の卵を食べたことがある。「海亀の卵など捕獲禁止じゃないの?」と思ったが、ピンポン玉のような丸い殻のブヨブヨな卵は生で飲むと、鶏の卵より濃厚な味がした。

(勝田陶人舎・冨岡伸一)

メロンパン

近年、商店街のあちらこちらに手作りパン屋が新規オープンしている。どこもわりあい繁盛していて手作りパンの人気がうかがえるが、子供の頃はパン屋と言えば山崎パンであった。山崎パンは戦後JR市川駅前に開業したのが始まりであるが創業時はまだ規模が小さく、今の手作りパン屋のような状態であった。近くの江戸川沿いに工場があり、そこで焼いたパンを販売していたが、店はいつも多くの人で混んでいた。そのごパン食の普及と共に店舗が増えていき、現在パン屋では世界でも二番目の規模だという。創業期の本店は何度か立て替えられてビルとなり、今はスーパーや飲食店が入居している。また赤レンガ作りであった工場跡地も、パンの研究所に新築され当時の面影は全く無い。

私はその山崎本店には菓子パンを買いに、わざわざ自転車で出かけた。とくにメロンパンは好きでよく食べていたが、最近気がつくと日本が発祥であるという、この菓子パンの専門店をあちこちで見かける。でも新種のこれらメロンパンは、なぜか黄色でなく茶色が多い。「メロンパンは黄色でないとだめでしょう!」と思うのだが、「伝統的なメロンパンも、なぜメロン本来の色の緑でなく黄色なのか?」これにはずっと疑問を持っていた。それは昔黄色いマクワウリのことを庶民は、メロンと呼んでいた事に由来するという。確かに私自身も子供の頃は黄色いマクワウリをメロンと呼んでいた。網目模様のマスクメロンなど近所の八百屋では見たこともなかったので、本物のメロンなど知らずにいた。

しかし最近出来た新たなメロンパン屋には茶色のほか、ピンクや各色のメロンパンがある。確かにカラフルなその色合いは見た目には可愛いらしい。でも無意味な食紅の色付けは添加物なども気になる。しかし以前から「メロンパンの香りや味って、何か独特?」と感じることがあった。他のパンと何か相違があるがある。原因はメロンパンを大きく膨らませるために、ベーキングパウダーを使っているからとのこと。このベーキングパウダーにはカリウムミョウバンが入っていて、多くとると健康にも害があるという。先日通勤途中コンビニで買ったメロンパンを、昼に食べようと思ったらペッチャンコになっていた。私の好きなメロンパンは外側にメレンゲの着色剤、ベーキングパウダーで膨らませ、香りも添加物でつけるという。その上成分は糖質と脂質だけで栄養価はほとんどないそうだ!

もういい加減にメロンパンなど卒業しよう。いい年したジジイが可愛いメロンパンなど喰らう姿!見られたモンじゃない。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

干し芋

昨年のことであるが、このコロナ禍に名古屋駅前のユニクロでパニックが起きた。報道によると人気ファッションデザイナーのジル・サンダーとユニクロがコラボし、新発売した衣料品に客が殺到して、商品を奪い合う混乱状態になったという。その結果マネキンの着ている服まで脱がされ、胴から二つに折られたマネキンが床に転がる。この光景に私は暴動に乗じて店舗を荒らす、海外ニュースを見るようでとても困惑した。同時に最近オシャレを忘れたと思われていた日本人も、価格が安ければ有名デザイナーの衣服を奪い合うメンタルをまだ持ち合わせていることに、複雑な感情も抱いた。「オシャレはしたいけど、ブランド品など高くて手が出ない人たちが、今の日本には大勢いるらしい?」

「ストライク!」とお尻のツギあてに拳骨が飛んでくる。子供の頃はどこの家庭も生活が苦しく、長く履かれたズボンはお尻の部分がすれて穴が開く。するとそこに布アテをするが、その布アテの形状が問題となる。丸くパッチワークすると、その形がキャッチミットに似ているので最悪だった。そんな子供の気持ちを理解せずに母親が勝手に丸くパッチワークすると、そのズボンを履かずに放置した覚えがある。母親には「どうしてこのズボン履かないのよ」と問われると、「友達にからかわれるから」と告げた。すると後日、裏から目立たないようなツギあてに変わっていた。戦後復興も進み庶民の所得が徐々に上がり始めると、ツギアテをしてまで衣料品を着る「モッタイナイ」文化も消えていった。

たぶん日本では我々団塊世代が、一番オシャレを楽しんだ世代ではないだろうか?色気づいた高校時代のアイビールックに始まり、70年代のロンドンポップ、パリのプレタポルテから80年代のデザイナーブランドへと続き、バブルの頃には高価な海外のブランド品を身につけることが流行った。しかしその後の日本は30年間ダラダラと豊かさを失い続ける。反対にますます勢いを増すユニクロのファストファッションは多くのブランドを淘汰していく。先日はあの一世風靡したレナウンも、会社更生法の適応申請もむなしく、新たな引き取り手も無いまま倒産した。もう廉価なユニクロやワークマン以外、ファッションはビジネスとして成り立たない時代になっている。オシャレをして心ウキウキ街に繰り出し、女の子に声をかけるバカで行動的な男の子も減った。

ツギあてズボンの頃、冬場に好きでよく食べていたのが干し芋である。白く粉をふいた干し芋は遠い昔の故郷の香りがする。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

カケウドン

「二足三文」という言葉がある。これは江戸時代に宿場町で、ワラジ2足が三文という安価で売られていたことに由来する。昔から履物は衣服に比べると非常に安価だった。なにしろ織物と違い手間がかからず、材料が藁や木では値段のとりようも無い。ところが明治になって欧米から革靴が入ってくると、履物に対する感覚も徐々に変わってくる。特に軍隊では軍靴のニーズが強く、革靴の重要性は増していった。そして戦後アメリカ軍が進駐し、欧米文化が再び流入すると一般女性も下駄やゾウリからパンプスなどの革靴を履くことが流行していく。特に米兵と関係を持った女性達はいち早く洋装に衣替えし、銀座の靴屋で赤いパンプスなどをこぞって購入した。かつて銀座通りの一等地には「ワシントン」を初め靴屋が多かったのはそのためである。

「ココノモン半なんですけど、雑誌に掲載された靴のサイズありますか?」デスクの電話をとると、四国の山村からだという、一本の電話が女性の声でがかかってきた。1971年に婦人靴の百貨店問屋に入社した私は、デザインなどを行なう企画部に席を置いたが、電話交換手が在庫問い合わせ電話を間違って私に回した。「九の文半ていったい何センチなんだ?」子供の頃は靴のサイズなどはまだセンチでなく「文」という単位が使われていた。しかしさすがに小学時代メートルに法改正してからは、徐々に文や尺の単位は使われなくなっていたので正直とまどった。それにせめて9文(きゅうもん)と言ってくれればよいのに(ここのもん)とは余計に分かりにくい。でもここでは在庫確認が出来ないので管理部に電話を回した。

私が靴業界に席をおくと同時に、女性達の間では冬場ブーツを履くことが大ブームとなる。ブーツはたくさんの革を使うので単価が上がる。編み上げブーツから始まった皮革ブーツの流行は、乗馬ブーツのようなジョッキーブーツでピークに達した。なにしろ若い女性のサラリーが4万円位のときに、ブーツの値段は3万円前後していたのだ。そしてこれらのブーツが百貨店では飛ぶように売れていく。おかげで会社のボーナスも3度出て、ファッション産業は未来産業である!とまでいわれていた。ところがそれから20年も経過すると、中国から安い靴が大量に輸入されるようになる。すると靴の価格も昔のように安価になり、元の「二足三文」の時代へと戻っていった。しかし江戸時代の1文は約12円位と言うので、実際には三文で草鞋2足が買えたかどうかは疑わしい。

江戸時代の宝暦の頃(1750年代)カケウドンの値段は6、7文であったという。いま駅蕎麦のカケウドンの値段は300円位なので、1文の価値は50円ぐらいになるのかも?(勝田陶人舎・冨岡伸一)

おのろけ豆

今朝いつものように早く起きて居間でくつろぐと、正面のテーブルに置かれた菓子籠には、オノロケ豆と書かれたの袋が一つ混じっていた。袋を手に取り眺めると「これ、オノロケ豆って言うのか?」正直子供の頃からいつも身近にあったこの豆菓子の名称を、始めて知った気がした。そこで今日はノロケについて書いてみたい。オノロケ豆は落花生を原料とする菓子の一種で豆の外側を米粉で包み、焼き上げた一口菓子である。日本橋栄太郎ではこの菓子を江戸時代から作っており、奇妙な名称の由来は製作時に豆と外側の殻とがくっ付きやすいので、男女の仲に例えてこの名をつけたと言う。栄太郎の豆は濃い醤油味が特徴であるが、この袋のオノロケ豆はいろいろな味が楽しめる。

「くっついて離れない」といえば小学生の頃に、理科で使った馬蹄形の磁石を思い出す。この磁石では鉄釘などをくっ付けて遊んだが、とくに記憶に残るのは公園の砂場で集めた砂鉄だ!これを紙の上に撒き下から磁石を当てると、砂鉄が起き上がって磁石を動かす方向に砂鉄が着いて来る。まるでマジックのようで不思議に感じた。それとセルロイドの下敷きが一般的になると、当時流行っていたナイロンジャンパーの脇の下に、下敷きを挟んで強くこすると静電気が起きた。これを前に座る生徒の頭に近づけると、髪の毛がくっついてモワーと逆立った。子供が多い戦後世代は教室の数が足らず、ひとクラス54人で常に鮨詰め状態!当然教室の後方では先生の目が届かない。そのために授業中もイタズラの応酬で、勉強に集中できずに過ごした。

「まったく、ノロけっちゃって、ご馳走さま!」とはむかし若奥さんが亭主の自慢話などを何気にすると、相手から返される言葉である。まだ新婚のうちはノロケ話もたびたび出るが、時が経つとお互いに愚痴の方が多くなるのが世の常でもある。年をとっても夫婦仲が良いのにこしたことはないが、先日若い頃から腕を組んで歩くのが好きだった近所に住む先輩夫婦に久しぶりに出くわした。「今だに腕を組んで歩いているのか?相変わらず仲がよろしですね」と眺めたが、どうも奥さんの歩行がしっかりしないので、腕を貸している様子であった。「俺は池袋三越の店員で一番良い女を選んだ」と自慢していたあのオノロケ先輩も50年経過するとこうなるのか!「光陰矢のごとし」この年になると実感・・・。

その池袋三越は12年前に閉店、地元船橋西部、松戸伊勢丹、柏そごう、千葉三越も相次いで撤退!コロナ騒動とネットショッピングで百貨店の存在が危うい。でも子供の頃からの遊び場であった、日本橋三越だけは消えないで欲しい。

(器の中には様々な宇宙がある。勝田陶人舎・冨岡伸一)

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