白桃

私が子どもの頃、果物の缶詰と言えばパチンコ景品を思い出す。テレビもまだない当時、自宅で仕事をしていた父親は夕食がすむと、時々パチンコ屋に出かけた。そして運よく玉がでると土産として持ち帰ったのが私の好物、「白桃の缶詰」である。缶を開けタマゴのように色白で滑らかな姿を目にすると、思わず笑みがこぼれた。その感動は今でも忘れることはない。戦後すぐ物不足の頃は、今のようにパチンコの出玉はお金に換えることなく、缶詰などの食料やタバコなどと交換していた。なので夕方父親がパチンコ屋に出かけると、景品を持ち帰るのが楽しみであった。でも当時のパチンコ台は凄く単純で、まだチューリップさえなく、大当たりすることは稀であった。

パチンコ屋があった当時の本八幡駅周辺の風景を思い浮かべると、まだ国鉄と呼んでいたJR総武線は高架でなく地上走行をしていた。そのため随所に踏切があったが、街を南北に分断する南側はまだ人家も少なく、殆んどが田畑であった。でもホームに隣接する通称新道と呼ばれた行徳街道には幅の広い踏み切りがあり、手動の遮断機で職員が電車の通過に合わせて開閉作業をしていた。この踏み切りの手前で遮断機が開くのを待っていると、どうしても遮断機の丸いハンドルで開閉操作する小柄なおじさんに注目する。子供心にこの人、一生遮断機の開け閉めで生きていくのか?「これなら勉強しなくても俺にも出来そうだ」と憧れていたが、そのご総武線が高架になるとこのおじさんの仕事も消えた。

冷房もない当時のパチンコ屋は夏は入り口のドアも開けっぱなし、中の様子も丸見えで子供でも簡単に入店できた。とうぜん知り合いでもいれば直ぐに見つけられる。パチンコ台のジャラジャラ音は街路まで響き渡り、いやでも人々を招き入れた。そのような環境なので私も高校生になると、友達とパチンコ屋に通いはじめる。ところがだ「坊やお巡りさんが来るから、ちょっと外に出ててくれないかな!」と子どもっぽくみえたオクテの私だけが店員につまみ出される。でも紺色のブレザーを着こんだ友人は、大人に見えるので注意されずにいる・・・。チクショウ!俺もブレザーが欲しい。そこで洋裁学校に通っていた直ぐ上の姉に頼んで、ブレザーを作ってもらうことした。

ブレザーは作るのは難しいらしくパチンコに飽きた頃に何度かの仮縫いの末、やっと一着のベージュ色のブレザーが仕上がった。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

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