茶飲み話・イタリア

 

「10秒位なら、大目に見てあげなさい!」という裁判所の判決が先日イタリアで出た。なんでもイタリアのある高校で用務員の男が女子生徒に抱きつき体を触るが、その間わずか10秒であったという。でもその判決にはさすがにボディタッチの大好きなイタリア人も女性蔑視と怒り心頭で、マスコミも大きく取り上げていた。

ヨーロッパでも地中海沿岸のフランスやイタリアなどラテン系の人々は恋愛に人生の重きを置く人たちが多い。日常でも挨拶代わりにハグやチークキスをすれば、当然お互いに身体に触れることになる。そのため男性は気軽に女性の肩や腰に手を添える。そこで日本女性のように、いちいち反応していたらこれらの国には住めない。

女性の身体に触れることはとても難しい。触れられて和むこともあれば、不快にも感じる。あくまでも受け取る側の主観なのだ。好意を持つ人なら良く、嫌いな場合はセクハラにもなるなど、同じ行為でも全く逆な結果をもたらす。そこで大半の日本人は他人には触れないほうが無難と、握手を始め一切のボディタッチを排除し、お辞儀だけで過ごす。

「あ、順番を変えた、ずるい!」私が長く楽しんでいた社交ダンスのパーティーにはミキシングタイムというものがある。その日会場に来た全員が、それぞれ男女別に列を作り、順番に組んで踊っていく。すると当然女性はあの人とは絶対に踊りたくない!という人もいる。理由は単純にダンスが下手、汗っかき、臭いがする、ルックスが嫌いなどだ。そこで列の順番をあらかじめ数え、後方に下がる。避けられたのが自分だったりすると落ち込む。

でもこの行為をするのは殆どが女性である。女性は生理的にこの人は絶対嫌いという人がいるようで、手も触りたくないらしい。「だったら社交ダンスなどやるなよ!」と言いたいが、このタイプに限ってダンスのうまいイケメンにはすっ飛んでいく。笑笑(セクハラであるか無いかは女性の気持ち次第なので、男は女性の心理を読む洞察力が大切だ。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

茶飲み話・町中華

 

最近、町中華が脚光を浴びているという。でもあれだけどこの街にもあった赤ノレンの中華料理屋が一つまた一つと消え、今では殆ど見かけなくなった。昔の赤ノレンの中華料理屋の特徴は、麺類をはじめ焼飯などの御飯もの、餃子やシュウマイとその品数の多いことにある。個々人の雑多な注文を聞き、短時間に料理を裁くその技を、カウンター越しに眺めるのが好きであった。

「何でいまさら町中華!」と思うが、無いとなると探し求めるのが世の常である。私は特にチャーハンにこだわりがある。子供の頃の町中華のチャーハンはちゃんと型にとり、色添えにグリーンピースが何粒かトッピングされていた。きれいに型どられたチャーハンの山をレンゲで崩しながらいただく幸せは、今でも忘れない。

強い火力と重い鉄鍋を振る中華料理は体力勝負である。そのため65歳の壁を超えるとパワーがなくなり、手早さが落ちる。するとそれは味に反映され、客足は遠のきやがて閉店する。町中華はスピードと腕力が命なのだ。失礼な言い方だが女性店主の町中華で美味いと思った店は殆どない。また今どき煩雑で体力勝負な町中華を継ぐ若い人などもいないだろう。

「新潟の田舎から、東京の中華料理屋に15歳で弟子入りした」と自慢げに話していた浅草今戸の「高来」という町中華の店主が50代で過労死してから、もう25年になる。彼は冷房もない小さな店舗で所帯も持たず、働きづめで生涯を閉じた。「おい、冷房ぐらい入れろよ」の問いに、この店で冷房など入れても全く効果なしとの返答であった。でも真夏は汗が滴り、ドンブリに落ちるのを見ると食欲も失せる。

いっぽう最近では町中華の代わりに流行っているのはラーメン店だ。ラーメンは町中華と違い殆ど単品なので、管理がたやすい。また色々料理を覚える必要もなく、短時間で出店できるのも魅力だ。そこで脱サラした若者が一攫千金で出店するが、競争が激しく栄枯盛衰で次々に店が入れ替わる・・・。(確かに昭和の時代を髣髴とさせる町中華が懐かしい。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

茶飲み話・郷に入っては

 

「このままでは世界各国の人々が増々不幸になりますよ!」そしてそれは平和国家日本も例外ではない。日本人にはあまり実感がないが、いまアジア、アフリカ、中南米諸国では独裁主義政権がはびこり人々を弾圧している。するとその抑圧から逃れるために、多くの難民が他国へと流出する。行先はもちろん経済的に豊かな欧米の先進国である。

先日起こった移民によるフランスの暴動は、隣国のベルギーやドイツ、オランダへと飛び火する勢いであった。原因はもちろん労働力不足を補うために無秩序に移民を入れたためだ。特にイスラム教徒は何処に移住しても、その教義を変えて生活することは全くないので、移住先でコロニーを作る。そしてそのコロニーは徐々に拡大し、気が付くと手が付けられない状態になっている。

イスラム教は基本一度改宗すると決して離脱することはできない。もし私がイスラム教徒の女性との結婚を望めば、私がイスラム教に改宗する必要がある。そのため東京でもイスラムモスクの入り口に立てば、黒いベールで身を包んだ日本女性を見かけることができるが、彼女たちはイスラム教徒の男性と婚姻した人達である。日本人の黒ベール、なんとも不思議な違和感が漂う。

アメリカは今、黒人やヒスパニック系の人たちの人口が増え続け総人口の50パーセントを超える勢いである。最近では習近平の独裁を嫌う中国人の流入も増えている。ヨーロッパも同様にイスラム教徒の流入を抑えきれず、混乱する一方である。そのため街はゴミだらけで、つねに暴漢に襲われる危険性をはらんでいる。

「郷に入っては郷に従う!」でもこんなルール守ろうとする民族は日本人を始めごく少数である。「郷に入っては郷を変える」と考える人がほとんどだ。とくにイスラム教は全人類をイスラム教徒に改宗させることが悲願なので、「かわいそうだから」と難民を多く受け入れると「軒先貸して母屋をとられる」ことになる・・・。(先日埼玉でイスラム・クルド人同士の100人規模の乱闘があった。不法滞在者は直ちに強制送還すべきだ。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

茶飲み話・お使い

 

「初めてのお使い」という日本のテレビ番組が、海外で話題になっていた。まだ3,4歳の子供がお母さんに頼まれて500メートル位離れた八百屋に、夕飯のカレーライスに入れるニンジンと玉ネギを買いに行く。しかし途中で忘れて玉ネギだけを買って帰る。するとお母さんは「これではカレーライス作れないね」と言い、再度買い物に向かわせるストーリーのようだった。

でもたったこれだけのことが海外では大きな話題になってしまう。幼児が一人で買い物に行くなど言語道断!もし誘拐されたり、交通事故にあったらどうするのだ。「これは完全に児童虐待にあたる」といった具合だ。500メートルも離れれば信号機の一つや2つはあるし、不審者に遭遇する可能性も無くはない。欧米では現在13歳以下の子供を一人で外出させるのは罪に当たるそうだ。

しかし私の知る限り、半世紀依然のヨーロッパは今と違って秩序も保たれ安全だったと思う。その頃はキリスト教のモラルもまだ健在で、移民の流入もずっと少なかった。それがヨーロッパ諸国の国境がなくなりEUに統合されると、東欧や後進国から移民がどっとなだれ込む。労働力増加で経済的には多少うるおうが、代わりに危険と背中合わせで生きる国に変貌した。

私の住む市川市には私立の小学校が何校かある。ここに通う小学生の多くは一人で電車通学をしている。まだ低学年の児童がランドセルを背負い通勤時間に電車に乗る姿を見ると不安感も多少残るが、事件や事故に巻き込まれた話は殆ど聞かない・・・。しかし子供の電車通学も外国人から見ると危険極まりない行為のようだ。

日本では幼児の頃より、赤信号では絶対に道路を横断するな!の教育が徹底され大人になる。そのため車が来なくても信号を守る人が多い。「深夜の信号まで守る日本人は馬鹿だ」という外国人もいる。でもルールには例外規定を作らないことが大事なのです。(列を作って整然と乗車する。信号は絶対に守る。だから児童の電車通学も可能なのだ。勝田陶人舎・冨岡伸一)

茶飲み話・時

 

「今日は何をテーマに書こうか?」などと考えても一向に浮かばないこともある。もう一時間ほどキーボードを眺めるが何も進展しない。こういう時は自分が過去に陶芸を始めたきっかけなどを書いてみるのもよいのかも・・・。そもそも私の場合、その原点は青春時代の過ごし方に起因する。当時は自分の将来に希望が見いだせず暗中模索で過ごした。

元来学校や会社などの組織に身を置くのが大嫌いで、出来れば避けたいと常に願っていた。でも経済学部などに進んだ私には、とりあえずサラリーマンになる以外の選択肢は思い浮かばない。そこで紆余曲折はあったが、とりあえず会社勤めをすることになる。でも運よくシューズデザインという職種に出会い、その会社で3年間サラリーマン生活をした。

その後会社を辞めフリーランスでデザイン活動を続けるが、いつも心の片隅にあるのは「この仕事って、自分のライフワークでないはのかも?」の問いであった。しかし結果として70歳過ぎまで仕事を継続することになるので、適職であったことに相違ない・・・。でもアートがしたいの欲求は強く、並行して40歳の時に陶芸を習い50歳で工房を立ち上げると、しばらくの間は陶芸の面白さにはまる。

「休日などいらない!」と勢い込んだ!その頃は週4日浅草のデザイン事務所に通い、週3日八千代市の工房に出かけた。でもこのバランスが実によい。好きなことを仕事にしているので、陶芸に飽きれば浅草に行き、喧騒を感じると森を眺めロクロを回す。休みなどなくてもストレスとは無縁だった。なにしろ両方とも趣味が仕事なので気楽なもんだ。(今となれば余裕で言える、笑)

そして70歳を超えた今、工房横にそびえる木々の梢がゆっくりと風に揺れる姿を、ただボーと眺める時間が増えた。そして思うのだ「自分はこの時を手に入れるために人生を歩んできた」と。過去の思い出など歳と共に浄化され濁りは沈殿し、どんどん澄んでいく・・・。(将来、年を重ね抹茶をすすりながら昔語りでも。今まさにその只中にいる。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

 

 

 

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