茶飲み話・八百万

 

最近歳を重ねたせいか神社に詣でることが多くなった。でも目的地を決めて遠距離を移動するのではなく、地元にある社を散歩のついでに参るのである。時代をさかのぼると、我々が子供の頃は神社の広場や鎮守の森は子供たちの絶好の遊び場であった。でもその神社も時と共に整備され、周囲を塀で隔てるようになり社に上がる子供の姿を見かけることもない。

「日本人は無宗教!」という定説がある。しかしそれは違うと思う。日本人の精神の根幹にある神道には教義がない。日本人の宗教心は言葉などの論理ではなく、もっと魂から湧き上がる霊的な感情である。神が宿るとされる美しい大自然を前にし、畏敬の念を感じ素直にこうべを垂れる純な姿だ。すべての生き物は自然から生まれ、そして自然の中に消えていくという摂理に基づいている。

いっぽう世界の三大宗教などは殆ど砂漠の荒野から誕生している。そのため日々食糧や水が不足する生活は厳しく、おのずとして厳格なルールの下で生きることを強いる。その様な環境で生まれる宗教の神は人々の生活様式まで規定し、それから外れれば神の怒りをかうという。特にイスラム教などは一日5回のお祈り、アルコールの禁止、女性の身体の露出など制約が多い。

いま世界の三大宗教の聖地でもあるイスラエルではパレスチナとの間で激しい戦闘が起こっている。原因は居住地をめぐる宗教対立である。他の神を認めない一神教どうしの対立は非常に過酷である。どちらかが完全に敗北し撤退するまでその戦闘は続く。すでにイスラエルの攻撃で3万人もの民間人が亡くなっているが、その戦争が終わる気配はない。

「なぜ日本人は他者に敬意を払い寛大なのか?」いま来日する多くの外国人の間で不思議に思われている。そして彼らから「全ての国の人が日本人の行動をを見習えばもっとお互い平和に暮らせる!」との声も上がる。その主因は日本の教育によるところが大きいが、根幹は神道の理念によるのではないか?戦争の絶えない今こそ、全てを包み込む八百万の神に感謝したい。(写真・近所の白幡天神社のしだれ梅。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

 

 

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