茶飲み話・哲学

 

「哲学と聞くと大半の人は何か小難しい学問であり、自分にはあまり係わりが無い」という認識が強いと思う。特に最近のようにスマホを常に携帯し、多くの情報の中に身を置く日常において、立ち止まって自らの存在意義などを検証する時間など殆ど持ち合わせていない。それどころか洪水のように押し寄せる新たな情報の渦の中で、おぼれないよう自らを保つのが精一杯である。

「君たちニーチェを知っているか?」と授業中、唐突に訪ねてきたのが高校二年担任の岡垣先生である。英語教師であった彼は当時上智大学の大学院でシェークスピア文学を研究していて、西洋哲学についての造詣が深かった。それで彼は生徒たちに反復だけの日常に流されるなと言いニーチェの著書「この人を見よ」の一読を薦めたのだ。しかしこれをきっかけに私は徐々に思考の迷路へと入り込んでいくことになる。

西洋哲学を簡単に言えばキリスト教により縛られ失った自己を取り戻し、自由を手に入れる考え方の系譜といえる。デカルトから始まり、カント、ヘーゲル、ハイデッカー、サルトルにいたる神を否定し自分自身を取り戻す思考回路である。特にニーチェは「神は死んだ」と言い、人間は神に従属することなく自由であるべきだと強調した。ニーチェに心酔した岡垣先生は思春期の我々にも自我に目覚めるよう問うていた。

大学生になると自由時間は殆ど読書に費やし、人との付き合いを極力避け「人が生きる意義」などを考えていたが、結局は堂々巡りで出口の分からぬまま全く楽しくない青春時代を過ごしていた。しかしその頃、フランスで話題になっていたのがレビ・シュトロースの著書「野生の思考」である。彼はアマゾンの原野に入り込み、現地人と暮らすことにより論理から離れ、人本来の根源的生き方を「構造主義」として提唱した。

「そうだよな、やっぱりこれか!人は宗教の教義や哲学などの論理にとらわれず自由に好きな事をして生きればそれで良い!」と自分なりに胆略的に納得。そして好きな事しかしないその後の人生が始まった・・・。ネットやAIなど高度情報化社会の進展により、自身を見失う人が続出!(いったんスマホを置き、ニーチェなどを読んでみるのも良いかもね。勝田陶人舎冨岡伸一)

 

 

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