茶飲み話・幸福

 

「幸福に生きたい」とは全人類共通の願い事の一つであることは確かだ。なにも青春時代に読んだアラン「幸福論」のページをめくらずとも、人は幸福になりたいという願望を持っている。しかし幸福感は人それぞれで多種多様、これが幸福の絶対的定義というものも存在しない。「幸せだなあ、僕は君といる時が一番幸せなんだ!」とは雄三さんの「君といつまでも」。だがその実感も通常、暫くすると霧の中に霞んでいく。

確かに好きな異性と一緒にいるの時間は幸せを感じるが、恋愛感情だけで日常が送れるわけがなく、結局は多くの時間を割く仕事や家庭の中で幸福感を見い出すことになる。私自身は学校や会社という組織に縛られることがストレスの源泉であったので、これを回避できれば幸せと考えてきた。しかし現在ではオンラインの普及で、自宅にいてもテレワークなど仕事も可能で、対人関係が苦手な人にとっては好い時代になったともいえる。

「幸福とはなにか?」と自身に問えば、私の場合好きな事をして自由に生きるという事に尽きる。「人生は短い!」そこで自分に与えられた時間を自身が納得できる形で使いたいという欲求が強かった。でも人は実に多くの時間が自身の意思とは関係なしに、乱雑に消化されていく。そして気が付けば老境の域に達し、鏡に映す自身に若かった頃を偲ぶ。

それでも若い頃はあまり感じなかった幸福感も最近は感じることが多い。それはこの年まで無難に生きてこられた事に「ありがとう、あろがとう」と感謝する気持ちから生じる。しょせん幸福感など頭で考えて論ずるものではない。「何となく幸せ!」がベストだと感じる。炊き立てのご飯に昆布の佃煮をのせ、ゆっくりと口に運ぶ。または好きな茶碗を選び茶筅をまわし一息つくなどだ。

アランによると人の気分というものはいつも悪いものらしい。これといって不幸な出来事に出会っているわけでもないのに、不幸な気分の人がる。それは人間本来が自然に任せてると不幸になってしまう存在だからだそうだ。そこで幸福になるには「幸福になるぞ!」という意思を持って自身をコントロールする必要があるという。幸福になるにも結構な努力が必要だとある・・・。(何となーく、何となーく、何となーく幸せ、という歌があったね。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

 

 

 

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