茶飲み話・器

 

「あの人は器が大きい、この人は器が小さい」などと人間にも器があるらしい。簡単に言えば寛容な人が器が大きく、自身にこだわり他の意見を排除すれば器の小さな人ということになる。しかし寛容な人でも自分の意見を持たず、他者に迎合し続ければ器が大きいなどと言われることもない。ようは大所高所から物事を俯瞰し、適切に人の意見なども取り込めば器の大きな人ということになる。

最近隣国のリーダーを見ていると、皆さん実に臆病で器が小さい。少しでも彼らにモノ申せば即刻消される。そこで彼らを取り巻く子分達は揉み手スリスリのイエスマンしかいなくなる。するとリーダーも本音を言わない取り巻きに不信感を抱き、血縁関係しか信用しなくなる。近平ちゃんも先日奥さんを軍のトップに任命した。器の小さな近平ちゃんは粛清した軍人達のクーデターが怖いのです。

これで雑貨商中国商店は夫婦による個人商店に戻った。専務の奥さんのお眼鏡にかなわなければすぐに首を切る。首と言っても退職させられるわけでなく本当に首チョンパになるのでたまったものではない。そしてもっと家族経営が浸透すれば僻地のヨロズ屋、ジョンウン堂に成り下がる。ここには殆ど客が来ず、ただ働きの従業員は松の皮を喰って飢えをしのいでいる。

「大器晩成と言う言葉がある」。大きな器の人は大きな円を描くので丸になるまで時間がかかる。小さな円を描けば数年で丸が完成だ。その中で満足すればさしたる創意工夫も必要ない。毎日同じことを繰り返せば時間はただ過ぎていき、気が付けば白髪頭を鏡に映す。「大器晩成」とは父親によく言われた言葉だが、私自身は大きな円を描くつもりが、今も未完成の嚙み合わない歯車である。

仕方がないので最近では手の平に入る小さな丸い器を作り続けている。世間ではこれを抹茶碗と呼ぶらしい。でもただ瞑想の中でカリカリと粘土を削り続ける日々は至福の時でもある。ひびが入ろうが、変形しようが、釉薬が流れようがそんなこと全く関知しない。それらの全てが自然のなせる業だ!(人は無になって本当に自然と一体になれるのか?これが今の課題でもある。勝田陶人舎冨岡伸一)

 

 

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