流行
「来シーズンのスカート丈はミモレです」などとパリコレのファッション情報がマスコミにのると、来年流行るブーツはショートなのかロングなのかが検討され、私のいた靴業界でもそれに向けて生産準備をしたりした。しかし最近ファッションに対する人々の意識が急速に変わってきている。以前のように今シーズンに何が流行るのかなどの話題がほとんど出てこない。流行に興味が無くなったのか、それとも時間やお金に余裕がなくなったのか?原因は様々であろうが女性が衣料に支出を控えるようになったのは事実である。改革開放のあと賃金の安い中国に生産拠点を移すと安く衣料品が輸入され、国内の縫製工場などのほとんどが廃業して行った。すると海外で生産するユニクロなどのファストファッションが大きく台頭してきて、そこそこ質の良い衣料品が廉価で買えるようになった。
以前は大手繊維メーカーでも新しく開発した特殊な繊維などは、まずは知名度のあるブランドメーカーに供給され、高い値段で売る戦略をとっていた。しかし近年ではヒートテック、エアリズムのように東レが新製品を最初からユニクロと提携し、安価で大量に市場投入するようになってきている。消費者の立場では大歓迎だが、良いものを丁寧に作ってきたブランドメーカーには死活問題になった。大手同士が組んで今までにない新しい機能の服などを大量に安価で売ったら、それ以下の一般企業の生きる道は殆どないといってよい。
このようにアパレル市場は一部の欧米の有名ブランド品を除くと、どんどん寡占化され何社かのザラ、ユニクロ、ギャップなどのグローバル企業に独占されつつある。メルカリなどを利用して中古品を安くネットで探したり、服にお金をかけないが、皆と同じものを着ることに抵抗を感じる若い人は、古着を自分でリメイクしてオシャレを楽しんでいるという。先日あるデパートで古着のコーナーを新設したと聞いて驚いた。デパートで古着を売るようになったらもうアパレル業界も終焉である。デパートは江戸時代から女性の着物を売ることで売り上げを伸ばしてきたが、女性がアパレルから関心が薄れると衰退するいっぽうである。
何年か前まではバレーシューズと証して、カッターシューズが流行ったこともあったが、今では婦人靴も新たなトレンドも見当たらない。写真は自作の陶器の靴です。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)
御御御付け
御御御付け
我が家では子供の頃、味噌汁のことを御御御付け(おみおつけ)、あるいは御付け、(おつけ)とよんでいた。あるとき母に味噌汁と言ったら、江戸では味噌汁とは言わない(おみおつけ)と言いなさいと注意されたことがあった。母が言うには味噌汁では田舎臭くイメージがおいしそうでないし、濁った感じなので江戸っ子には粋でないと言うのだ。母親は亡くなるまで味噌汁という言葉を使わなかったが、我々の代になるといつ日か、一般的に使われ始めた味噌汁という呼び名に変わってしまった。千昌夫の「かあちゃんの味噌する飲みでえなあ!」のあの言葉で決定的に東北文化に侵略されていったのか、今ではオミオツケと呼ぶ人は少ないようである。
ところで我が家では昔、アサリ戦争というのが勃発したことがあった。我々夫婦は結婚してしばらくは離れて生活していたが、両親が歳とってきたので同居を始めた頃の話し。私が仕事から帰ってくると妻が不機嫌な顔をしてこう私に言った。「こんや、夕食にアサリの味噌汁を出したら、おかあさんに注意されたのよ。アサリは味噌汁でなくお澄ましでしょう、あんたこんなことも知らないの?」と言われたというのだ。確かに我が家ではシジミは味噌汁、アサリ、ハマグリはお澄ましと決まっていてアサリの味噌汁など飲んだことがない。
一方妻の家ではシジミ、アサリは味噌汁、ハマグリはお澄ましだったという。私の母親が言うにはシジミは川でとれる。生臭いので味噌仕立て、アサリ、ハマグリは海でとれるのでお澄まし、これ江戸の常識だと言うのだが、妻も負けてない「私の母は東京生まれで家業はそこそこのグレード料理屋、そこで育った母がそんなこと知らない分けがない」と一歩も引かなかった。そのた味噌汁に入れる味噌なども地方により大きく異なるので、旦那の出身地が白味噌で奥さんが八丁味噌ではどちらかに不満がでる。皆さんのご家庭ではいかがでしょうか?私はどちらでも良いが、今ではもちろんアサリは味噌仕立てでいただいています。
朝食が和食の時代、味噌汁は毎日飲んでいたのでこだわりがあったが、一ヶ月に数度ではそのこだわれも薄れる。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)
割烹
割烹
かつて静岡の婦人靴メーカーに、月に一度デザインの打ち合わせに行っていたことがある。仕事も終わり夕方になるとメーカーの社長が出資していた繁華街の割烹料理屋に、ときどき飲みに連れて行ってもらう。店に入りカウンターに腰掛けるといきなり「冨ちゃん、亀食うか?」と聞かれので「はい」と答えた。私は亀は初めてで社長の進めに素直に乗ることにした。亀とはスッポンのことで養殖場のある浜松に近い静岡では、東京より食べる頻度も多いとか?以前からスッポンの料理方には、非常に興味をもっていた。赤坂の柳原料理室に通っていた時に柳原一成先生が「ここではスッポン料理は危険なのでいたしません」断言したので、「スッポンはそんなに危険なのか?」興味を持ってた。
そこで板さんに頼んでカウンター越しに、サバキ方を見学させてもらうことにした。最初まずスッポンをまな板の上に逆さまに寝かす。するとスッポンは起き上がろうとしてその長い首を伸ばしてくる。そこでその伸びた首を包丁ではねるのだ。次にスッポンを手で持ち、首を下に向けると水筒の様に鮮血がしたたり落ちる。それを小さいコップで受け取り度数の高い焼酎で割る「はいどうぞ、元気でるよ、冨ちゃん」板さんに急に手渡されたが、固辞して社長にパスした。「飲んでみれば良いのに」と社長も言ったが。以前にスッポンの鮮血にはジストマ菌がいることもあると聞いていたので、興味はあったがやめておいた。
でもスッポンは鍋にすると非常に美味い。油もあり身がプリプリでコラーゲンたっぷり、滋養強壮で美容にも良い。そして最後に食べる雑炊もまた格別だ。しかしなぜスッポンには甲羅が無いのか?性格が荒く非常に攻撃的なので、ディフェンスの亀と違いオフェンスのスッポンは、甲羅で身を守る必要が無く退化したらしい。でも背中の肉の中には薄い甲羅の骨が残っている。子供の頃「池や沼でスッポンを見かけたら絶対に近づくな」と注意されたが実際にスッポンに出会うことはなかった。スッポンに噛まれたら雷が鳴るまで絶対に離さない!との通説があるが、いずれにしてもスッポンは歯が鋭く噛まれたら大変だ。
写真は自作の皿と箸置きです。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)
コノワタ
コノワタ
「こんな気持ち悪い生き物、最初に食べた奴はえらい」ナマコ酢を箸で取りシゲシゲ眺める。でもナマコ酢以上に不思議な食べ物は海鼠腸(コノワタ)ではないだろうか?コノワタ(海鼠腸)はウニ、カラスミとならんで日本食の三大珍味であるという。コノワタはナマコの内臓で一匹のナマコからタコ糸くらいの細い管が一本しか取れない。それを集めて塩辛にするには沢山のナマコが必要で、値段も非常に高い。私も今までに一度しか食べた記憶がなく、味もはっきりとは覚えていない。日本酒に合うとされるが、私はカラスミの方がまだ値段も安くマシだと思う。
30代の頃、海外のファッション動向を視察するために年に一度はパリを訪れていた。何人かでツアーを組んでいくわけだが、昼間は各々の仕事の都合で別行動、しかし夕食は数人で出かける。するとその中には日本食しか食べられないという人が必ずいるもんだ。しかたなくパリの日本食レストランを探し出し、そこに行くわけだ。私は好き嫌いもなく、現地主義なのでその国の料理が食べたい。でも一人での食事もつまらないので同席することになる。当時パリではまだ日本食レストランも少なく値段も高かった。しかし日本人が経営しているパリの日本食レストランに入るとそこは別世界、ウエイターも日本人で客も殆ど日本人だけ、確かに気が楽である。料理も刺身から天麩羅まで種類もあるが、連れの一人メニューであるものを見つけ注文した。
その言葉に私は一瞬、唖然としたのだ。「俺はコノワタ!」確かにメニューの下のほうにコノワタと書いてある。でもここのメニューには値段の表示が無い。「スーさんパリでコノワタですか、何かほかにないの?」口に出そうになったがぐっとこらえた。結局この日も会計は割り勘で、コノワタの値段はついに分からずじまいだった。帰りがけに「スーさんパリのコノワタの味いかがでしたか?」と聞いてみた。「うん、今まで食べたうちで一番美味かったよ!」でもこの話、そのご我々業界人の間で尾ひれがついて話題になった「パリまで出かけコノワタを食ってきた奴がいるんだってさあ、日本では経験したことがないくらい美味かったらしい」落語の目黒のサンマである。やっぱりコノワタはパリにかぎる。お後がよろしいようで!
写真のお皿、大きい方はカラスミ、小さい方はコノワタでどうか?でも残念中身が無い!(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)
カメチョロ
カメチョロ
今では殆んど見られなくなった物の一つにゲントウ機がある。暗くした部屋に光で一枚の風景などのフィルムを順番に映し出し楽しんでいた。我々の子供の頃は学校にもゲントウ機はあって時々見せられた記憶がある。ゲントウ機の発明は意外に早く15世紀に遡るというが、本格的に日本で流行り始めたのはフィルム使用による明治20年頃からだという。それから暫くするとこの映像が動き始める。活動写真とは英語のモーションピクチャー(動く絵)の直訳である。大正時代の初期は銀座ではなく浅草が東京で一番の歓楽街であった。地下鉄も昭和2年に上野・浅草間が最初に開通し、その後銀座から渋谷方面に伸びていった。当時の浅草ロックには見世物や芝居小屋が立ち並び、たいそう賑やかであったらしい。
浅草寺雷門の前方に住みロック近くの小学校に通っていた私の父は、友達に芝居小屋の経営者や木戸番の子もいて、その親と顔見知りになると、裏から芝居小屋にもぐりこんではタダ見していたそうだ。その父が特に印象に残っているのは、初めて芝居小屋で公開さた活動写真を見た時のことだと言っていた。この内容が今と比べるとまことに単純である。最初に松の木がある海岸の風景が映し出されると、つぎに海の画面に代わる。すると前方から大波がこちらに向かって押し寄せ、ザブンと眼前で崩れる。それに驚いた観客が「オット、ト」と声を出し、一斉に波を避けるしぐさをするというのだ。その観客の行動を見ているのが面白かったと語っていた。初期の活動写真は何のストーリーもなく、波の映像だけの繰り返しで4、5分で終了し、これでも観客は楽しんで帰ったという。
そのほか見世物小屋にも詐欺まがいのネタが多かったらしい。いちばん傑作だったのは、見たこともない大イタチがいるという見せ物だったと言う。呼び込みの誘いでで恐る恐る薄暗い小屋の中に入ると、イタチなど何処にもいない。でもよく見るとただの大きな板に血がべっとり付いている「大板血(オオイタチ)」が立てかけてあるだけだったという。それでも騙されるのを承知で大正時代の人々は金を払い中に入っていたらしい。子供のころそんな父親に連れられ浅草ロックにはよく行った。映画館や見世物小屋が建ち並ぶ裏どうりを歩くと屋台の飲み屋の軒先で、大きな鉄鍋で煮られた「煮込みらしきもの」を見かけた。父親はこれを「カメチョロ」と読んでバカにしたが、あれは一体なんだったのか。
写真は波をイメージした抹茶茶碗です。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)