白い器

最近、白無地の磁器の器が大人気だ。ニトリなどの家具屋から、百円ショップまで安価で売られている。この現象は、フランス料理の「器はキャンバス」という考えからきているのではないだろうか?西洋の油絵は白い布のキャンバスの上に画家が、思い思いの発想で絵を描き、作品を仕上げる。

フランス料理も同様に、料理人が自分のセンスで食材を盛り付け様々な色のソースでアクセントをつける。大きめの白い器に、ソースをまるで絵画を描くように皿の余白に美しくたらしていく。そのために模様や柄などは言語道断、全て邪魔。

料理人の感性が、その料理の決め手になってこそ、料理人の腕の見せどころ。皿はまさに真剣勝負の白いキャンバスなのだ。

このような理由で日本でも、急速に普及してきた白い器だが、日本人は盛り付けのアクセントに、ソースをあまり使わない。味は最初からつけられていて、各自がお好みの味に、皿の上で調整するという発想が無かったのだ。そのため一汁三采が全部白いお皿に、ただなんとなく盛られている。白なので統一感は取れる。でもいつも同じで個性や変化が無くつまらない。

そこで同じ白い器でも岩に薄く雪が積もったような、ざっくりとした自然味あふれる白い器などいかがだろうか?

 

急須

お茶を入れる道具には「急須、ポット、ヤカン」などがある。私の感覚では、急須は注ぎ口の正面から見て右側にとってが付いている。、ポットとヤカンは後方か上にハンドルが付いているもの。しかしこの区別の仕方は厳密ではない。

右側にとってが付いている急須。実はこれ左利きの人には非常に使いづらい。右利きの人が急須を左手で持ってお茶を注いで見れば分かる。注ぎ口が外側に来てお茶の出を確認しづらい。でも注ぎ口が反対側に付いている急須など余り見たことが無い。そこで以前、私の長女に頼まれて「とってが左に付いた急須」を作ったことがある。

人類の約一割の人が左利きだそうだ。私は欧米人の方が、この確立が高いのではないかと思うのだが定かではない。日本ではかって不便だからと「左利きのほとんどが右利きに矯正した」のでそう見えるのかも知れない。哺乳類は殆どが左利きで「ゴリラやチンパンジーも左」ようやくネアンデルタール人から「右利き」が増えたらしい。でもその理由を私は知らない。

そこでこの写真だが、急須がとっての上に直立している。これは急須の重量の中心、これを物理では何と言うか知らぬが、重心を保つ1点に丸いとっての中心の延長線が重なる位置に、とってが付けられているから。これでないと、急須を持って回転させた時、変な重さを感じて注ぎにくい。

ぜひ、ご自宅にある急須で試してほしい。立たなければよっぽど変わったデザインか失敗作です。

 

風神

皆さん大変です。昨日風神さんがやってきて「なぜ俺を最初に紹介しないのか」とお怒りです。「風神・雷神」常に我らは一対。それに「世間では常に俺が先なのに、なぜ俺を飛ばして雷神を先にしたのか理由を言え」の一点張りです「別に他意はない、たまたまそうなった。大変申し訳ない」との謝罪でどうにか収めました。

いま風神さんに暴れられると困ります。紅葉して枯れかけている工房の前の森の木々から、大量の落ち葉が飛んできて片付けるのが大変。

それで、今日は予定を変更して工房の守り神、風神さんを紹介することになりました。

どうですか?怒らせると恐そうでしょう。

お茶漬け

焼鮭、焼き鱈子、あるいは佃煮で、お茶漬けほど日本人の日常に欠かせない簡単な食事もないであろう。そんな誰にでも親しまれているお茶漬けだが、私は永谷園のお茶漬けの素が昔から好きだ。我が家には常備薬のようにいつも在庫があり、時たま封を開けては食べている。

しかしこの一袋の量が非常に中途半端、ごはん一膳に全部かけると塩辛い。、半分では味が薄い。いつも少し残る。残ったものを輪ゴムで縛り次回にとっておくのだが「足りないので、また新しく封を切る」このようにいつも完結しない。

ところで永谷園といえば大相撲懸賞のバナー。いつも先頭に掲げられ、あれを見るとお茶漬けを思い出す。でもなぜ永谷園がいつも先頭なのか?だぶん年数の長い順なのだろう。

ところで大相撲は日馬富士の問題で大揺れだが、その根底には、民俗派と国際派の軋轢があるようで難しい。

私は貴乃花親方の主張する相撲は国技、神事にのっとり日本人の精神文化を継承し、その伝統を変質させることなく後世に伝える。この考え方を支持する。

しかし、それでは今の若者や外国人が入門せず「相撲はすたれるよ」の協会派の声も分かる。

貴乃花は「ラスト侍」時代に乗れないで美しく滅びる。日本人の精神・伝統文化と共に。でも孤軍奮闘、最後まで貫き通してほしい。

この問題、皆さんのお考えはいかがですか?

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