人形焼

 

浅草浅草寺の雷門をくぐり正面の仲見世通りを宝蔵門手前まで進むと、左手に木村屋本店と言う昔ながらの人形焼屋がある。ここの人形焼きは浅草育ちの父親が好きで、浅草寺にお参りに行くと必ず買って帰った。この人形焼はアンコと皮のバランスが程よくしっとりとして旨い。かつてはこの店に人形焼を焼くベテランの職人がおり、ガラス越しにその作業を望むことができた。彼の機械と一体になったリズミカルな手の動きに参拝者は視線をむける。父親が支払いを終える間、私は人形焼を焼くその姿をいつも凝視していた。しかし最近ではその光景を見かけないので職人もすでに引退し、後継者もなく工場での機械製造に代わったようだ。

私は浅草寺のこのあたりの場所にはあまり良い印象が無い。昔この店の向かい側、幼稚園を背にした参道に戦争で手足を失った何人かの傷痍軍人がいつも立っていた。白装束に兵隊帽を被り、アコーデオンなどを奏でて寄付を呼びかける。失った足には木の義足をつけ痛々しい!子供心にこの人達を見るのが怖くて早足に通り過ぎた記憶がある。戦後しばらくあちこちで見かけた傷痍軍人も時代と共にその人数減り、平成になると全く見かけなくなった。それと共に戦争の記憶が遠のき、その悲惨さが忘れられている。でも最近では好戦的な独裁国家に囲まれたわが国の安全が、再び脅かされ始めた。尖閣諸島の緊張など一触即発の場所もある。でも多くの犠牲者を出す戦争だけは避けたいものである。

このコロナ禍でも政府はあくまでもオリンピックの開催には前向きである。オリンピックを開催しないと多額の赤字がでるらしく、中止も難しいらしい・・・。先日パラリンピックの競技種目である車椅子バスケを見ていたが、その激しいバトルには圧倒された。ハンデキャップを持つ選手達が上半身を鍛え、一生懸命なプレーは素晴らしい!パラリンピックの種目では、選手達のハンデを補うスポーツ用具もいろいろ開発されている。現在パラリンピックで活躍する選手達をみていると、むかしの傷痍軍人のようなネガティブな身障者の悲壮感はない。彼らの強い意思とそれをサポートする世の中の仕組みに時代を感じる。

自分意思とは関係なく戦争にかり出され、身障者となった若者が多くいた時代もあった、パラリンピックを見ると傷痍軍人とかぶる世代も減る一方である。

(昨日彼岸で墓参りに行ったら、寺の庭にサクラが。勝田陶人舎・冨岡伸一)

白桃

私が子どもの頃、果物の缶詰と言えばパチンコ景品を思い出す。テレビもまだない当時、自宅で仕事をしていた父親は夕食がすむと、時々パチンコ屋に出かけた。そして運よく玉がでると土産として持ち帰ったのが私の好物、「白桃の缶詰」である。缶を開けタマゴのように色白で滑らかな姿を目にすると、思わず笑みがこぼれた。その感動は今でも忘れることはない。戦後すぐ物不足の頃は、今のようにパチンコの出玉はお金に換えることなく、缶詰などの食料やタバコなどと交換していた。なので夕方父親がパチンコ屋に出かけると、景品を持ち帰るのが楽しみであった。でも当時のパチンコ台は凄く単純で、まだチューリップさえなく、大当たりすることは稀であった。

パチンコ屋があった当時の本八幡駅周辺の風景を思い浮かべると、まだ国鉄と呼んでいたJR総武線は高架でなく地上走行をしていた。そのため随所に踏切があったが、街を南北に分断する南側はまだ人家も少なく、殆んどが田畑であった。でもホームに隣接する通称新道と呼ばれた行徳街道には幅の広い踏み切りがあり、手動の遮断機で職員が電車の通過に合わせて開閉作業をしていた。この踏み切りの手前で遮断機が開くのを待っていると、どうしても遮断機の丸いハンドルで開閉操作する小柄なおじさんに注目する。子供心にこの人、一生遮断機の開け閉めで生きていくのか?「これなら勉強しなくても俺にも出来そうだ」と憧れていたが、そのご総武線が高架になるとこのおじさんの仕事も消えた。

冷房もない当時のパチンコ屋は夏は入り口のドアも開けっぱなし、中の様子も丸見えで子供でも簡単に入店できた。とうぜん知り合いでもいれば直ぐに見つけられる。パチンコ台のジャラジャラ音は街路まで響き渡り、いやでも人々を招き入れた。そのような環境なので私も高校生になると、友達とパチンコ屋に通いはじめる。ところがだ「坊やお巡りさんが来るから、ちょっと外に出ててくれないかな!」と子どもっぽくみえたオクテの私だけが店員につまみ出される。でも紺色のブレザーを着こんだ友人は、大人に見えるので注意されずにいる・・・。チクショウ!俺もブレザーが欲しい。そこで洋裁学校に通っていた直ぐ上の姉に頼んで、ブレザーを作ってもらうことした。

ブレザーは作るのは難しいらしくパチンコに飽きた頃に何度かの仮縫いの末、やっと一着のベージュ色のブレザーが仕上がった。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

クレープ

私は株式投資などを趣味にしていた父親の進めもあり、大学は経済学部を選んだ。個人的にはさほど経済に興味はなかったが、大学に入学すると友達との出会いもあり、徐々に資本主義に対峙する社会主義思想にのめりこんで行く。同じ人間として生まれ、貧富の差が生じるのはおかしい。全ての人間は本来平等であるべきだ。資本家と労働者という格差が生じるのは日本の社会制度に問題がある!などと真剣に考えていた。当時はアメリカとソビエトが覇権を争い、対立していたが学生達の多くはソ連や中国などの社会主義を支持していたと思う。そのころ中国は毛沢東の文化大革命只中で、紅衛兵と称する若者集団が人民服を着て、赤い表紙の毛沢東語録を掲げ、多くの保守的な人々を粛清していった。

「石を投げれば、カメラマンかデザイナーにあたる」私たち団塊世代が大学を卒業する頃の人気職種が社会に縛られない、自由業と呼ばれた2つの職業である。髪の毛を肩まで垂らしてカメラを抱えた大勢の若者が新宿駅周辺にたむろし、一つの社会現象にもなっていた。世相を映像で切り取り、人気カメラマンとなった篠山紀信や立木義浩らがメディアに頻繁に登場し、彼らの言動が人々に注目された。この頃になるとそれまで人気のあった、大手アパレルメーカーでの既製服を嫌い、より自由で個性的なファション表現を目指す若者が増え、マンションの一室で服作りを始める。これらの若者の中にその後ファッション業界をリードしていく、川久保玲や山本耀司さんらがいた。

いわゆる全共闘世代の我々は、資本主義社会で働くことに疑問を抱きつつも、しかたなく押し出されるようにそれぞれが社会に巣立っていった。同様に何の希望もなく社会に出た私だが、いくつかの職業を変えたあとに運よくシューズデザイナーの仕事をする機会を得た。しかし会社に縛られることを嫌っていた私は3年でその会社を辞めてしまう。でもその頃は婦人靴デザイナーはまだ新しい職種であったので、独立して直ぐに仕事の依頼が来て、なんとか自立することが出来た・・・。一方我々の世代では特に嫌われていた職業が公務員である。当時公務員は給料も民間より安く、仕事の内容も変化がないので希望者が少なかった。だれでも公務員になれたので「デモ、シカ職業」などと呼ばれていたのだ。

1960年代までは単なる住宅地であった原宿に、マンションメーカーができ始めると、表参道や竹下通りはファッションの集積地に変貌していく。そのころ私がクレープという焼き菓子を見たのはここが最初であったと思う。

(勝田陶人舎・冨岡伸一)

カラスミ

コロナワクチンの医療従事者・先行接種も始まり、一年以上悩まされてきた流行病もそろそろ出口が見え始めてきた。4月以降からは一般の高齢者にもワクチン接種を開始する予定だが、先行して接種を始めたアメリカでは接種後の副作用が、結構悩ましいという情報も流れてくるのでなんとなく怖い・・・。特にファイザーのワクチンなど2度注射が必要なタイプのワクチンは、二回目接種後の発熱、倦怠感、痛みなどが激しいらしい。個人的にはワクチン接種に前向きであるが、とりあえず初回注射後に2度目の接種を受けるかどうか判断をしたいと思っている。最近の注射は昔と違って、あまり痛くないので助かる。注射針が極細に改良されたうえ、使い捨てなので注射による肝炎の感染もなくなった。

「日経平均、30年ぶりに高値更新!」などという景気の良いニュースが最近頻繁に流れてくるようになった。まだコロナが収束したわけでもなく、世の中の活気なども全く感じられないのに、株価だけはどんどん上がっていくようだ。昔から「不景気の株高」という言葉があるように、今回もまたコロナでどん底に落ちた景気を下支えするために、各国政府が財政出動し金をばら撒いている。自粛営業で仕事を失い食うや食わずの人もいるが、一部ではもらった金を金利のつかない預金よりも株式投資などにまわしている。そのため低金利の状態が今後も続くと、またあの30年前のバブル時代が再来する可能性が出てきた。

「伸ちゃん。家を買おうと思っているのだけれど、一緒に見に行ってくれないかなあ」と30年以上も前、近くの借家に住む姉夫婦から頼まれたことがあった。地図を便りに車を運転し、指定された住所に向かう。市川市北方の山すそに沿った道をたどると、背の高い家々が連なる地域にたどり着いた。「ここか?三階建て凄いじゃん!」待っていた不動産屋に案内され中に入ると、その家は一階が天井の高い駐車場で二階がキッチンとリビング、三階が洋間と和室という配置になっていた。しかし三階の勝手口を開け外に出ると唖然とした!そこには広々とした畑が連なる。その時に初めてこの家の立地に気づく。なんとその家は崖を背にして建っていたのだ。「冗談でしょう」姉と顔を見合わせ笑い転げた。「3800万円というから見に来たのに勘弁してよ!」とは姉の弁。

当時地価が毎年暴騰し、市川市内では一般人が購入できる住宅はこの程度であった。でもバブル時には私も高収入で、行きつけの近所の寿司屋でカラスミを食べ、食通を気取っていた。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

ナボナ

先日タンスの整理をしていたら、ほとんど忘れてかけていた切手のコレクションブックが何冊か出てきた。パラパラとページをめくると大型の切手「月と雁」が目に留まる。この切手は「見返り美人」と共に小学時代に憧れていた貴重な1枚である。当時は高価で取引されていて、小学生の小遣いではとても買える値段ではなかった。しかし現在値を調べるとたった千円前後の価格でしかない。通常は時が経過すればこれらの価値は高まるが、切手に関しては逆にどんどん値段が下がってきている。切手のコレクションがブームであった当時は、記念切手の価格は毎年上昇していった。1年も経つと価格が2倍になることもあるので、小遣い稼ぎのために子供達もこぞって切手を収集していた。

「もうこんなに人が並んでいるのか!」早朝友達と駆け足で市川郵便局に到着すると、すでに大勢の人達が入り口に押し寄せていた。「売切れてしまうかもしれないね?」と不安を抱きながら長い列の後ろについてみる。記念切手収集がブームのころ、切手発売日の朝はどこの郵便局も人々で賑わっていた。当時は封書の値段が10円であったので、ほとんどの記念切手の値段は10円であった。やっと手に入れた一枚の新しい切手をコレクションブックに、差し込むと嬉しさがこみ上げてきた。友達とはコレクションブックを見せ合い、同じ物を2枚持っていると交換などしていたが、そのご徐々にこの一大ブームも下火になっていった。

記念切手の収集が忘れ去られた後に、ブームとなったのがテレホンカードの収集である。人気アイドルのテレホンカードが高値で取引されて話題になった。しかし暫くして携帯電話が一般にも普及し始めると、公衆電話も街中から消えて需要がなくなりこのブームも終わった・・・。でも私には今も大切に保管している一枚のテレホンカードがある。それは30年以上も前に、読売巨人軍が日本シリーズに優勝した時のゴールドに輝く、記念テレホンカードである。ゴルフ会員権を買ったおまけでもらった一枚であるが、その後このゴルフ場は潰れて会員権は紙くずに!なんとも高いテレホンカードになっている。このカードは巨人軍の元選手であった国松さんとの縁で、ゴルフ場のオーナーが手に入れ会員に配ったそうだ。

「ナボナはお菓子のホームラン王です」。王選手のコマーシャルで有名になったナボナは国松選手の奥さん実家である。しかしこのナボナも先日シャトレーゼに買収された。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

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