黍団子
日本人なら知らない人がいない童話、桃太郎の主人公が鬼退治に出かけるとき、腰に下げてたとされる黍粉を使った純粋な黍団子(キビダンゴ)。これを食べた記憶が今だにない。岡山県の吉備地方で作られる吉備団子は有名であるが、これはモチ米などで作られており、桃太郎の黍団子とは別物であるという。浅草観音の仲見世通りには日本一の御旗を立て、キビ団子を売る店があるが、食べてみると原料は黄な粉主体で黍が使われているとも思えなかった。子供のころから桃太郎にあこがれ、本物の黍団子を食べてみたいと常々思っていたが、この歳になってもまだ実現できずにいる。粟(アワ)と黍はよく比較されるが、あの黄色い粒の粟餅なら何処かの土産でいただいたこともある。
「今の日本人の若者は本当に慎重だよねえ!」と思うことが多い。私は童話の桃太郎が子供もころから好きであった。それは大人になってからも継続し、今だに桃太郎の教訓として心に留めている。桃太郎の偉大さは鬼退治という、自分ひとりでは実現不可能と思える行為を、キビ団子3個を持って無謀にも実際に出かけることにある。するとその野心に共鳴する、イヌ、キジ、サルなどの仲間が徐々に集まって次第に大きなウネリとなる。現代の頭の良い若者達はここの計算が出来ない。出発時の乏しい「持ち駒」だけを見て、夢の実現をあきらめてしまう。「金も人も現地調達、とりあえず出発する」自分の見てる夢が良ければ、協力してくれる人は必ずいるもんだ!という真の深読みがない・・・。一方アメリカでは若い人がアメリカンドリームを信じて行動し、たくさんのベンチャービジネスが生まれていて活気づいている。
私はデザインの自営業を45年間営んできた関係で、多くの中小企業の経営者との接触があった。その中でも何十年も会社が継続し繁盛した経営者はわずかであり、殆んどが途中で消えていった。成功した経営者の共通した資質をみると、大体が皆セッカチで思考と行動のテンポが良い。打ち合わせなどで新しいアイデアを思いつくと直ぐに行動に移す。行動してだめならまたその見切りも早い。「要はやってみなければ分からないという消去法なのだ!」人の浅はかな事前の憶測などに執着しない。行動の中から新しい展開が生まれることを体感している。一方いろいろアドバイスをしても行動せずに事前にその困難さだけを指摘し、いっけん先読みの出来る小利口な二世の経営者も多くいた。するとこちらもあきらめてアドバイスもなくなる。
今の子供達は物心がつくといきなりコンピューターゲームから始まり、桃太郎などレトロな童話に興味を示さない。若い人がテクのみに興味を抱き、野心が消えた時その国の活力は薄れる。(写真は孫のサツキ小学1年生の作品、なんとなく桃太郎!勝田陶人舎・冨岡伸一)
松葉ガニ
松葉ガニ
むかし私が小学生低学年の頃までは、自宅に風呂がなかったので銭湯に通った。そのために銭湯の思い出ならいろいろある。当時銭湯へ行き風呂場にはいると倶梨伽羅紋々(くりからとは不動明王の化身、もんもんとは刺青)を背中に彫った大人を結構見かけた。その頃は渡世人だけでなく職人なども、刺青を入れていた人もいて、別に気にもとめずにいた。最近では温泉など公共の場での刺青入浴が規制されているが、風呂に浸かりながら玉を握った竜や弁天様の刺青の入った、身体を眺めるのも悪くはなかった・・・。しかし近年同じ刺青でも日本の伝統的な刺青ではなく、アメリカなど海外で流行中のタトゥーは美しくない。この刺青はファッション感覚で入れられることが多く、一つ入れると癖になって徐々にその数が増えていき、様々な図柄が混在して統一感がない。
「ええ、どうしたの?この人の顔」と思ったことがある。以前工房の水道工事に呼んだ職人のオジイさんの顔がとてもユニーク。たぶん若いときに相当な遊び人であったのだろうか?半そでのダボシャツから透かし見える刺青はまだ良いとしても、なんと顔の眉毛にも刺青を入れていたのだ。眉毛が薄く気になって濃く見えるように刺青を入れたのだと思うが、歳をとり眉毛が白髪になると刺青だけが黒く目立ち、なんとも違和感のある顔になっていた。若い時は年をとることなど想定しないので、一時のヤンチャな行動がおかしなことになる。以前若い日本女性でも目を大きく見せるために、瞼の上に細く刺青を入れるのが流行ったことがあるが、これでさえ老婆になったときに違和感があるかもしれないと思う。
30年も前のこと、神戸の靴メイカーが有馬温泉で行なった忘年会に参加したことがある。兵庫県の日本海側でとれる松葉蟹が喰えるというで期待していた。日中仕事をし夕方バスでホテルに着くと、宴会前にさっそく大浴場に向かったのだが、浴場の戸を開けてビックリこいた!そこにはなんと全員が刺青を入れている恐持ての男達ばかりなのだ。背中に彫った刺青はまだ良いとしても、胸の中央には10センチ位の丸いこの組のマークが入れられている。私は恐る恐る空いている洗い場に座って体を流し早々と引き上げたが、聞くとこの日は地元山口組関係者の納会が隣の大広間で開かれているということであった・・・。でもこの男達の刺青は関東で見慣れている紺色の墨でなく、グリーンと赤色のコントラストで何か不気味に感じた。
同じズワイガニである松葉ガニと越前ガニの差は産地の違いで、京都府の日本海側から鳥取までを松葉ガニ、福井県(越前)で水揚げされるものを越前ガニとよぶそうだ。(写真の蟹は小さな箸置きです。勝田陶人舎・冨岡伸一)
落花生
落花生
私の工房がある八千代市から、八街方面にかけての北総台地は言わずと知れた千葉の名産落花生の産地である。富士山の火山灰が堆積した赤土の台地は落花生の栽培には適しているという。しかしこの落花生畑は種を巻く春先に強い季節風が吹き荒れると砂埃が巻き上がり、目を開けていられない状態が続くこともある。もともとは南アメリカが原産だという落花生が、始めて日本に持ち込まれたのは江戸時代中期の中国からで、南京豆と呼ばれていた。しかし実際に栽培を始めたのは千葉県が最初で明治9年であるという・・・。昭和40年には全国での生産量が今の10倍もあったが、その後中国産に押されて減少しはじめ、現在では少ないその生産量の80パーセントあまりが千葉県産である。
「右か左、どちらがおじいさん?」南京豆の皮をむき当てるゲーム!記憶に残る人もいると思う。デジタルゲームなど想像もできない幼少期、オヤツで食べる落花生の皮をむき、退屈しのぎに姉とよく当てっこをした。豆の皮をむき二つに裂くと、片方だけに頭に出っ張りが付く。出っ張った方がおじいさん、へこんだ方がおばあさんと言う具合だ。当てた方がその豆を食べることができるので、けっこうマジに競った。昔のゲームはアナログなので遊び相手が常に必要となる。そのため兄弟が少ないと、遊び相手に困り寂しい思いをする。昔は幼児の面倒は年長の姉兄が見ていたが、少子化となった現代では代わりに保育園などで、先生がまとめて面倒を見ることになる。
私が子どもの頃は保育園などは殆んど存在しなかったと思う。幼稚園ですら少なっかったので、私も幼稚園には行っていない。そこで野山を駆けずり回っていた野生児が、いきなり小学校へ入学すると大変なことになる。じっと一時間座っていられない子や、先生の言うことを聞かない子供も多く、慣れるまで一ヶ月くらいはかかった。当時の私も同様で朝教室に着くと直ぐ取っ組み合いの喧嘩をして、お互いの腕力の強さ測って、序列を確認していた。でもそういう我々を横目で見る一団もいた。彼らは幼稚園卒業生でしらけた眼差しで我々を眺めていたのだ。擦り傷や切り傷が絶えず、いつも体のどこかにかさぶたが残り、赤チンやヨードチンキが必需品であった。
この秋オオマサリという巨大な実の落花生を頂いた。味もよくビールのツマミには最適でした。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
松の実
松の実
市川市のシンボル樹木は黒松である。子供の頃には市内のあちこちに黒松の大木が天高く伸びていた。むかし総武線沿線の市川は東京湾岸にもっと接近していて、その砂浜の防風林として松の木が植えられたという。その後松林に住宅が建ち、そのまま各戸の庭などに残ったらしい。しかし都市化の推進と共に黒松の巨木の林は少しずつ切られて、今ではほとんどその面影は残っていない。市川市も黒松の保存には力を入れていたが、時代の波には抗することが出来なかった。私の子供の頃にはまだ残っていた市川駅近くにあった三本松は特に巨大で、幹から三本に伸びたその雄姿は成田山の参拝のおりに通った、明治天皇も絶賛したという。しかしこの三本松は昭和30年代に枯れて、今は地名のみが残っている。
「何故だろう、この深い切り傷は!」ずっと不思議に感じていた。子供の頃これら黒松の大木の幹にはどれも、ゴムの木からゴムの樹液を採取するような、Vの字に連なった痛々しい傷が彫られていた。それは大戦末期に黒松から松ヤニを採取して、欠乏していた戦闘機の航空燃料に混ぜて使ったからだと後に聞いた。こんな少量の松ヤニまで採取しなければ飛行機も飛ばせない日本は、戦争に勝てるわけがないと子供心に思った。黒松の大木も戦争の犠牲になったのだ・・・。でもその当時流行っていたシャボン玉に松ヤニを入れると、より大きく膨らむと聞いたので、黒松の傷口から松ヤニを剥ぎ取り試したこともある。しかし木の治癒力も早い!その後この深い傷は人々の戦争の記憶の風化と共に徐々に消えていく。
私はアーモンドなどのナッツ類が好きである。松の実もまたしかり!でも松の実はマツボックリの種だと聞いたが、実際には近所に落ちている開いたマツボックリの中を覗けど、羽のついた小さな種しか確認できないので、食用の大きな松の実が実感できずにいた・・。。ところがだ「ガサ!」という音を立て頭上から草の上に何かが落ちた。「あれー、見ると巨大な松ボックリ」小さめのパイナップル位の大きさがある。半世紀程まえ、カリフォルニアのバークレイ校の近くの公園のベンチに一人腰をおろすと、日本では見たこともない背の高い松の巨木から、マツボックリが落下した。椰子の実と違って頭にあっても軽いので怪我をすることもない。でも「なるほど」これで謎が解けた!この松カサなら食べられる松の実が入っていそうだった。
実際には食用の松の実は朝鮮五葉松という品種で、中国やシベリヤなどが産地だという、日本でも一部アルプスなどの高地に自生するらしい。
(自宅の庭のモミジが紅葉しました。勝田陶人舎・冨岡伸一)
塩豆
塩豆
冨岡家の菩提寺は本郷の向丘一丁目交差点近くにある。年に4回、ここへの墓参は欠かさないが、車で向かう途中の蔵前通りと亀戸駅前通りの交差点角には昔から続く、一軒の豆専門店が今でも店を構えている。先日ここの前を朝通ると、まだシャッターの下りる店の屋根には、もう開店を待つ先客がたむろしていた。昔はあちこちにあった豆専門店だが、需要の減った今では街中から殆んど消えたので「豆だけで客を繋ぐのは奇跡に近い!」と感じ店の前を通り過ぎた。しかしその先客達の多くがこぼれ落ちた豆を狙う「鳩」では代金はいただけない。最近の人達はピーナッツ以外の乾燥した硬い豆はあまり口にしなくなった。私の子ども頃は、オヤツに硬い豆を噛んで空いた腹を満たしたことも多かった。
鳩と豆の関係は非常に深い。昔からの諺で「鳩が豆鉄砲をくらったような顔」というのがあるが、この顔っていったいどんな表情なのかがはっきりとつかめない。驚いてビックリした顔なのか、あっけに取られてキョトントした顔なのか?鳩はスズメと共に身近な鳥なので観察する機会も多くあるが、いまいち鳩の表情は変化が無く単調でよく分からない。一方同じ鳥類でもゴミを狙い人里に定住するカラスは表情がとても豊かだ。先日もゴミを漁るカラスを見ていたら「この野郎、なんか文句があるのかよう!」という目でジロット睨まれた。そして口ばしを開き低い泣き声で威嚇までする。鳩が平和の象徴であるのは、いかなる時もその表情が変わらないからではないだろうか。すると鳩が豆鉄砲をくらったような顔とは、何があっても動じない表情であるべきだ。
「そういえば最近、あの塩豆を食べてない!」子供の頃あれほど身近にあってボリボリとよく噛んでいた塩豆がなつかしい。(塩豆はグリンピースが原料で、外側の白い皮の部分は塩に見立てた、貝殻を粉にした胡粉がまぶされているという)当時は塩豆などの小さい豆類はハカリでなく、四角い木製の一合マスで取り売られた。そのため豆のすくい方により空間が出来るので、結構ごまかされた。そこで暫くするとマスでなく、より正確に計れるバネ式の上皿ハカリに代わって行った。塩豆はビールのツマミには最適である。以前は飲み屋に入ると「カワキモノ」と言われた日持ちのする簡単なツマミには、まだ塩豆や南京豆が使われていたが、いつしかアーモンドなどのオシャレなナッツ類が主流となる。
塩豆とならび、同じグリンピースで作られた好物の甘い煮豆のウグイス豆も、最近では食べる機会がほとんどない。(勝田陶人舎・冨岡伸一)