氷スイ
「うーん、こいつは確かに簡単で良い」まだ長女の娘が子供の頃、ペンギンの形をした「ペンギンちゃんのカキ氷」ハンドルを手で回転させると、簡単にカキ氷が出来るおもちゃの道具が爆発的に売れたことがある。家庭の冷蔵庫の氷でカキ氷が作れたので、お汁粉の缶詰を三越で買ってきては氷アズキなどを作って楽しんでいた。カキ氷はアイスクリームより作り方が簡単なので昔から人気がある。ただ氷は硬いので特別な機械がないとつくれない。子供でも作れるカキ氷、このアイデアはよかった。昔は街角の甘味処や普通の食堂などいたる所で、カキ氷の機械を店頭に置き夏場だけカキ氷屋を始めるところもあった。家の近くにも大衆食堂がありここのカキ氷はよく食べた。
「おおーい、愛子出るぞー!」と女湯に声をかける。「はーい。」と隣から奥さんの声が「もう、お父さんたら恥ずかしいから止めてよ」私が子供の頃、夏場夕方になると家族で連れ立って銭湯に向かう。そうすると当然入り口で女と男に別れるが、一緒に帰るにはある程度時間を合わせる必要が出てくる。当時の銭湯は風呂場の男湯と女湯の仕切りが天井近くで大きく空いていて、隣の声がよく聞こえた。そこで風呂場を出る時にお互いに声がけをするのだが、これが奥さん方には非常に評判が悪いのだ。「みっともないから私は絶対に声は返さない」という奥さんの反発で、いつしかこの声がけはなくなった。たまに面白いことを言う人もいて、どっと笑いが起きる。
でもこの声がけを私の父親はしなかった。そこでこれは私の役目。「おかあちゃん、おとうちゃんがもう出るって」すると父親が笑って「お前、おとうちゃんは言わなくていよ」とかえされた。しかしこの声がけでその夫婦や家族のことがなんとなく想像できて面白かった。そして銭湯の帰り道、たまには食堂に入り皆でカキ氷を食べる。「俺、氷スイがいい」姉達はイチゴ、レモン、メロンなど可愛い色つきを頼んだが、私はいつも無色の蜜の氷スイにした。まだ冷房の無い時代、暑い夏場は食堂の窓は開けっ放し、やっと普及し始めたテレビの野球放送に釘付けになった。いつのまにかカキ氷は解け、ただの冷たい甘い水に。
カキ氷は本来ガラスの器がいい。でもあえて陶器ならこんな器ならあうかも。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
チョコレート
チョコレート
敗戦後、日本に進駐してきたアメリカ人兵士はジープに乗り観光気分で街中に繰り出す。すると腹をすかせた子供達が手を出し寄ってくるので、面白がってチョコレートをばら撒いていたことがある。善意のためと肯定する気持ちもあるが、飢えた餓鬼に食料を恵んでやる程度の事だったと思う。「ギブミー、チョコレート」我々の世代以上の子供が、最初に憶えた英語がこれであると言う人も多いと思う。しかし戦後の混乱も収束し始めると、カカオ豆の輸入が始まったのか日本でも明治や森永製菓が板チョコを販売し始める。板チョコは大小あり、大きいほうが100円で当時としては高かった。でもこの板チョコの値段60年ほど経った今でも、ほとんど変わらないのは脅威である。
「わー、凄いスクーターだね!」始めて見る買ったばかりのスクーターはピカピカに輝いていた。近所の勝ちゃんの家では、このスクーターを入れるために先日わざわざ玄関を直し、車庫のように大きく改造したばかりだ。そのころスクーターは今のレクサスのような高級車で、庶民が簡単に買える金額ではなっかったと思う。そこへ夕方になると叔父さんが、スクーターに乗って颯爽と帰ってくる。いつか俺もこんなスクーターに乗ってみたいと憧れの眼差しで眺めていた。ところがそれから暫くすると突然の訃報が舞い込む!勝ちゃんのお父さんがスクーターで千葉街道を走行中、進駐軍のジープにはねられて死んだというだ。
数日後に家族の悲しみの中、自宅でひっそりと葬儀が開かれた。するとそこへ突然ジープに乗り軍服を着た米兵が、大きな花束を抱えてお見舞いにやってきた。私はこの時に初めてアメリカ人を間近で見たが、印象は同じ人間とは思えず、大きくて鼻が高い赤ら顔の異星人という印象をもった。彼らは通訳を通じてなにか話をしていたが意味も分からず、ただ遠巻きに眺めていた。(当時の事で一般庶民が進駐軍に何か言えるはずもない)原因究明も行われずに、わずかなお見舞金で泣き寝入りだったと思う。その後お父さんを失った勝ちゃんの家で何があったか分からないが、三ヶ月もたつと美容師で美人のおばさんは、4人の子供達を連れてどこかに引っ越して行った。
今はチョコレートなど星の数ほどあり、孫達は見向きもしない。
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
高粱パン
高粱パン
いよいよまた終戦記念日が近づいてきた。早いもので今年でもう72周年だという。私は団塊世代なので、戦後の混乱期の思い出などは色々あるが先の大戦は知らない。我が家は東京大空襲の少し前に、千代田区の神田から市川に疎開してきたという。運よく引越しが終わった直後に大空襲があり、命拾いをしたらしい。私の生まれた市川の現在の自宅は当時、家屋は小さな平屋の安普請のしもた屋で、思えば今でいう災害で家を焼け出された人達の仮設住宅での避難所生活のようなものであった。でも大都市近郊で空襲で焼け出された人たちの生活は、どのは家も同じように困窮状態で、特に我が家だけが貧乏生活をしているという意識もなかった。
大東亜戦争という日本国の存続をかけた激しい戦いに、成人男性のほとんどが駆り出され多大な死傷者が出た。それにより直接加わらなかった多くの人々も心のダメージをうけて、精神疾患になる人も続出していた。でも今で言うメンタルクリニックなどもなく、気違い病院などと差別用語でよばれていた、窓に檻のように格子のついた精神病院に多くの人が雑多に収容された。病院はどこも患者が多く満員で収容しきれない。そのため軽度の人は野放し状態で街中を徘徊していた。時々この人たちと道で出会う。すると捕まると怖いので一目散に逃げ帰ってきた。特に子供達の間で有名だったのは軍服に軍帽を被り木刀を振り回す、あだ名が「国分のサブ」と呼ばれた男。捕まると木刀で殴られると男の子達から恐れられていた。でも彼も従軍時に精神を病んだという。
「こんな風にできたわよ!」と母親が隣の奥さんに、配給になった高粱と小麦粉で作った焦げ茶色に美しく焼きあがったパンを見せていた。「あらほんと、美味しそうじゃない」ヨチヨチ歩きの2歳ぐらいの時だと思う。「旨そう。僕も食べたい!」しかしこの高粱のパンは私の口に入ることはなく、いつの間にか消えていた。大人になってそのことを母親に尋ねると「あんた、そんなことも覚えているの?」と驚いていたが、「あれはね、消化が悪く幼児は食べさせられなかったのよ」とのことだったが、食べ物への執着心は恐ろしい!あのパウンドケーキのような高粱パンのその味が今だに気になる。不味くてもいいから一度食してみたかったなあ。
大東亜戦争での死傷者は話は語り継がれているが、精神疾患になった人の話はあまり表に出ない。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
雷魚
雷魚
釣り好きだった私は子供のころ近所にある沼や池、小川などほとんどの水場の魚の種類を調べて歩いた。「何故こんなところに池があるんだろう?」不自然に畑のど真ん中に、ぽつんと孤立している10メートル四方の小さい池が気になった。あの池にも何か魚がいるのではないか?でもそこは生垣に囲われた畑の中なのでよく確認できない。地元の人に聞くと東京空襲のとき米軍の爆撃機が残りの爆弾を落としていった痕だという。そこに水が溜り爆弾池と呼ばれるようになったようだ。このように昭和30年頃までは戦災の痕跡もまだ色濃く残っていた。釣りは比較的早朝がよい。早起きして勇んで目をつけた池に行くと、もうすでに顔見知りのお兄さんが釣り糸をたらしている。「しー、音を立てるな!」静かに前を通り過ぎ少し離れた場所に陣取った。
「よし、かかったぞ!」見ると近くのお兄さんの釣竿が激しくしなる。「これは結構デカイよ」5分ぐらいの格闘のすえ、上がってきたのは40センチぐらいの雷魚(ライギョ)だ。「気持ち悪い魚!」始めて見る雷魚の異様で不気味模様に驚く。半分くらい水面を浮き草で覆われた汚い池にも、こんなデカイ魚がいるんだなあ。その後も何匹か雷魚を釣り上げ、お兄さんは意気揚々と帰っていった。「これ喰うと旨いんだぞ!」とお兄さんは言い残して行ったが、あんな気持ち悪い魚が喰えるのかな?でも興味があったのでお兄さんの真似をして、後日駄菓子屋でもっと丈夫な針と糸を買い、蛙を餌に雷魚釣りに挑戦してみる。
「おかあちゃん、この魚食べられるんだって!」釣り上げた20センチ位の雷魚を喜んで持ち帰り、母親に見せると「あんたバカねー、こんな気持ち悪い魚なんて食べられる訳がないっでしょう。早く逃がしてきなさい!」と失笑されたのだ。でもこの雷魚(外来種で1920年に朝鮮から食用にするために持ち込まれた)中国や東南アジアでは人気食材だという。綺麗に洗ってヌメリを取りブツ切りにし、油で揚げると結構旨いらしい?子供の頃はまだ食料が潤沢になかったので、赤蛙や海老ガニは喰える。トノサマガエルは不味い、雷魚やフナは旨い、などと食べた事が無いのに適当に尾ひれをつけて、男の子の間では話題にしていたのだ。でもガマ蛙だけはだめだ、そのころ父親の知り合いでガマ蛙を食べて死んだ人がいると話していた。
昔から続くトンボとり、釣り、植物採取など男子の遊びは本能的な食料集めだと思う。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
イセエビ
イセエビ
「おうー、凄い透明度だ」船着場の岸壁から海の中を覗くと10メートルはある水深の海底がはっきりと確認でき、大小さまざまな魚が泳ぎまわっている。「ようし!」借りてきた釣竿の糸を垂らし早速作業開始。すると直ぐに突然の強い引き、驚いて竿を持ち上げるがなかなか上がらない。「これは大きいぞ」嬉々とするが、「ありゃ、なんだこれ」変な見慣れない魚がかかってきた。針先に付いていたのはなんとフグに似たハリセンボンだった。それも水を吸い風船のようにまん丸に膨らんでいる。水を飲んだハリセンボンは重い、やっと岸壁に上げ針を外すために、口の中に棒を刺すと口の便が開いて水がドッと出てきた。するとハリセンボンは空気の抜けた風船のように、ヘタヘタと潰れてペチャンコになった。
「面白い!ハリセンボンは、まるでパンクしたタイヤみたいだ」でもそれから何度釣り糸を垂らすも、上がってくるのはハリセンボンと綺麗な色のベラだけ、食えそうな魚は何もかからない。やっぱり港の岸壁ではだめか?透明度が高く、魚もこちらの姿が見えてるはず。「かかるのは余程アホな魚だ」半世紀も前のこと、大学の夏休みを利用して近所の先輩と、彼の姉さんの嫁ぎ先である八丈島に遊びに行ったことがあった。夕方芝浦の桟橋を出航し、雑魚寝状態の船倉で揺られながら一夜を明かすと最初の寄港地三宅島に着いた。それからまた数時間船に揺られて、昼過ぎに八丈島の八根港で下船する。
やはり八丈島は南国だ。なんとなく風景が違う。椰子の木のように背は高くはないが、いたるところにフェニックスが植えられている。聞くと葉を切って生け花用にと東京に出荷しているという。バスで揺られ大賀郷にある姉さんの家に着くと、当時はあまり東京からの来客の無いご夫婦は、大喜びで歓迎してくれた。そしてこの日の夕食が凄かった。「わおー!」いままで見たことがない程の大きなイセエビの登場だ。「これって40センチはあるよね!」それが一人一匹だった。尾の部分を刺身で食べたがとても食べきれない・・・。その頃は東京への出荷経路も整備されておらず、巨大なイセエビも主に島内で消費されていたようだった。そして始めてみた八丈の果物ではパッションフルーツがあった。蔓のような木になるこの実はそのまま食べると殆んどが種ばかり、でもジュースにすると結構美味かった。
今では多分大きなイセエビはとれても、殆どが東京に出荷されると思う。産地にわざわざ出向いても、逆に手に入らない物もけっこうある。
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)