パイナップル

先週の土曜日、市川市の南北を通る外環道が開通し、多くの車が新道を走るようになった。するといつも渋滞していた市川市の道路が、どの道も急にスムースに流れるようになり交通渋滞も突然消えた。さっそく私も昨日に外環道の一般道を運転してみたが、防音壁で囲われたの道は余りにも風景が他の道路とは異なり、とても同じ市内を走っているという実感がわかない。またこの道路の高速部分は半地下で、公害や騒音対策に備えた構造になっている。当初あれだけ公害問題で反対されたが、計画から半世紀も経つと車の性能や騒音も劇的に向上し、道路が出来上がる頃には、ハイブリッドや電気自動車も普及し初め、排気ガスによる健康被害も、ほとんど話題に上がらなくなっている。

「へー、こんなに小さなパイナップルってあるのか?まさか市川産じゃないよなあこれ」外環道の脇に新しく出来た市川道の駅に、私も立ち寄ってみた。すると横須賀の海軍カレーどころか、なんと沖縄西表島で栽培したというピーチパイナップルまで売っている。なんで沖縄産がここ市川の農産物を売る道の駅にあるのかと思ったが、珍しいのでソフトボール程の小さなパイナップルを千円で買い求めた。「こんな、ちっこいパイナップル食べるとこあるのかなあ?」と家に帰りさっそく包丁を入れてみたが、大きさの割には皮が薄く中身味ももまずまず、完熟していて甘みと酸味のバランスもよかった。夫婦二人ではこの大きさでちょうど良いのかもしれないと感じた。

「きのう俺、本物のパイナップル食べたええ。ものすごく旨かった」学校に行くと坊ちゃん育ちのK君が自慢げに話す。「まさかお前なんか、あるわけねえよなあ」と言わんばかりに「この野郎ー、俺だってあるよ」と言いたかったが、食べたことのあるのはパイナップルに似せた、そのころ人気のパイナップルジュースを固めた擬似食品のパイナップルアイスだけだ。当時パイナップルはバナナ以上にずっと貴重品で高い関税がかかり、とても庶民の口に簡単に入るものではなかった。三越の高級果物売り場の前を通ると、棚の上段のパイナップルを遠巻きに眺めていたが、およそ果物という実感がない。いつか自分も本物のパイナップルの輪切りを食べて見たいと思い続けたが、実現したのはバナナなども安くなり始めた中学生になった頃だと記憶する。

かつてパイナップルを食べたことが話題になった時代もあった。関税が下がるとパイナップルはどんどん安くなり、今では切るのもめんどくさいとあまり売れなてない。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

紅生姜

「まいったな・・・!少し目を離している隙に、こんなにいっぱいカイガラムシが枝に付いている」毎年春先に綺麗な白い花が咲く工房のハナミズキが、今年は元気が無いと思ったらこの有様だ。「とりあえず手で取るか」作業を始めるも全部取るのは大変で、それに白く大きくなったカイガラムシを枝から放すと、真っ赤な血の様な液が出てくる。「気持ち悪りー!勘弁してくれよもう」と思いながら作業を続けたが、だんだん馬鹿らしくなってきた[いっそ、枝ごと切り落とすか?」ノコギリを持ち出し枝を切り始めたら、結局は丸坊主になってしまった。そしてこのハナミズキ、そのあと幹から新芽を出さずに枯れた。

「はい、並盛お待ち」目の前に牛丼が運ばれてきた。めったに入ることのない吉野家に入ってみた。久しぶりに食べる牛丼か?でも食べる前にどうせ無料だと紅生姜をたっぷりとトッピングした。牛丼には確かに紅生姜があう。でも紅生姜って昔はもっと真っ赤だったよなあ?急に子供の頃の乾物屋の映像が浮かんだ。そういえば当時の食品は不自然に赤い色のものが多かった。紅生姜の他に鱈子、筋子、鯨のベーコンの淵、デンブ、ウインナーそれに子供の食べる駄菓子なども、多くの食品が赤く着色されていた。赤い色は人の食欲を誘うのか?私にはそうとも思えないのだがと思っていた。

でもこの赤い色の食紅・・・。実はあの気持ちの悪い南米産のカイガラムシの真っ赤な液から、抽出されていることを知らない人が意外に多い。食紅には何種類かあって、石油から取るタールと紅花やカイガラムシだ!タールは有害物質が含まれているといい嫌われる。ではやはり合成着色料でない食紅の代表はカイガラムシか?それでは食品の原材料表記に天然着色料と書かずに正直に(カイガラムシ液添加)と書いてほしい。そうすれば多分、買わない人が続出すると思う。だいたい健康志向の強い現代、食品に無意味な着色など必要ない。牛丼屋の紅生姜は最近は真っ赤ではなくピンク色、だが無着色ではない。別に着色しない、鮨屋のガリの色でも良いのではないかと思う。

紅生姜が赤くなくなると呼び名もかえることになる。とりあえず金色生姜とでもよんだらどうだろう。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

水芭蕉

今週の火曜日、高校時代の友人5人と一泊二日で尾瀬ヶ原を訪ねた。東京から新幹線に乗り上毛高原駅下車。迎えのツアーバスで天神平散策の後、関越トンネルを抜けた新潟県の中里のホテルで宿泊。温泉に浸かりくつろいだ翌日早朝、小型バスに分乗し尾瀬が原の入り口に到着し鳩待峠に向かった・・・。「これでは帰りが思いやられるなあ」鳩待峠からは沢に沿っての急勾配の下り坂が続く、不規則な敷石に足を取られる。暫く行くと今度はだらだらと下りの木道を歩く。足元が気になり周りの景色などほとんど注目してない。でも視界は左右、岩壁と新緑が美しい木々に遮られているので見透視はきかない。それでもなんとか頑張って沼のある下まで降りきった。

「あれー、水芭蕉ってこんなにデカイのか?」始めて見る巨大な水芭蕉にびっくりした[水芭蕉ってもっと可憐な花だと思っていたのに、イメージとは大分違う」と友達に告げると「いや、俺が以前きた時にはこんなデカイ水芭蕉はなかった!それに沼地の水芭蕉の数も少ないようだ」と答えた。私は始めて尾瀬を訪れたので過去との比較は出来ないが、原因は富栄養ではないかといううわさだ。すると「これは福島の原発事故が影響してるんじゃない?」と友人のK君が発言した。「そうか、放射能汚染による突然変異か?」。「それではこのデカイ水芭蕉は、南太平洋のフランスの核実験で被爆して、イグアナが巨大になったゴジラみたいだね!」口々に勝手にいって笑った。

尾瀬湿原の木道を歩いていると心地よい。まだ雪の残る至仏山を初め美しい山々が沼地を囲み、遠くの山裾には芽吹いたばかりの白樺などの林が続く。時々聞こえるカッコウやカエルの鳴き声、なんとも穏やかでいい。しかし二本の木道は人の列が絶え間ない「こんにちは、こんにちは」と挨拶を交わすのも煩わしいぐらい人が通る。でも道行く人のほとんどが60才以上の女性である。最近の若い女性は仕事をしているので当然ウイークデーなど時間が取れないのであろうか?なにしろ最近若い人を観光地ではあまり見かけない、しかし若い中国人は別格で何処にでもいる。時代のスピードと変化はすさまじい。ぼんやりとたたずんでいる時間など、今の日本の働き盛りにはないのが気の毒だ。

働き方改革の法案は国会を通過したが、労働時間の短縮など本当に出来るのであろうか?たまには食器から離れ、以前の尾瀬の面影が残るという美しい場所の写真を掲載する。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

豆腐

「コンコン!」と勝手口のドアをノックする音がする。「たぶんまた豆腐屋だ、めんどくせえなあ」テレビを見ている居間の椅子から立ち上がり、渋々ドアを開けるとやっぱりいつも来る豆腐屋が立っている。「今日は女房が外出していないので、私には分かりません」と不機嫌そうに断る。それにしても週三回も御用聞きに来なくてもいいのではないか?と思うが相手も商売なので買えば売りに来る。でもおかげで私はいつも、納豆や豆腐を食べさせられている。「いいでしょう、納豆も豆腐も健康に良いのだから」と女房はいうが冷蔵庫には数日たった、豆腐や納豆がいつも残っている。順番に食べると作りたてを買うのに、結果古いものから食べる事になる。たまに自分のいる時ぐらい断らないと溜まる一方だ。

「なんていつも不機嫌なおやじだ!」事情をしらない豆腐屋はたぶんそう思っているに相違ない。母親や女房は御用聞きに来るといつも笑顔で必ず買っていた。それを見ていて私はなぜかよけいに腹がたった。「たまには断ればいいのになあ」と思うが「せっかく来るのに可哀そうだからと」これは我が家の昔から続いてきた伝統なのだとあきらめた。最近そういえば夕方に街で豆腐屋の姿をほとんど見かけない。家に来る豆腐屋でなくても、以前は街でよくラッパを吹く姿に出会った。個人商店がスーパーやコンビニに押され次々に廃業していくなか、最後まで残った砦であった豆腐屋も時代の波には勝てないのか?

我が家に来ていたその豆腐屋も10年くらい前に突然廃業した。おかげで最近では奴豆腐が食卓にあかる事が少なくなった。でもたまにスーパーに行って豆腐のコーナーを見ると、実に様々な種類の豆腐が並んでいる。これだけ揃っていれば、より取り見取りだ!なにも個人商店の豆腐など買うこともない。豆腐屋は(御用聞き)という訪問販売をしていたから、最近まで生き残ったのかもしれない。でも豆腐も大手が衛生管理を徹底し、機械化を推進して一箇所で大量に豆腐を作るようになっている。でもこうなると昔の手作り豆腐のヤッコが妙に恋しくなる。「味はどうだったけ」と真に勝手なもんだ!

炊き立てのご飯に冷たい手作り奴豆腐で一膳飯、これも悪くない。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

海軍カレー

いよいよ待ちに待った外環道が近日中に開通する!市川市の中央をほぼ南北に貫く、この道路は計画されてから半世紀近く経過する。日本が高度成長期に入ると車の台数が急激に増え、先に開通していた環七通りは渋滞による排気ガス公害と騒音が大問題となる。この状況を見た市川市民の多くが外環道の建設に大反対の声を上げた。これを受けて市長初め行政も反対に回り、この道路建設は事実上凍結されてしまう。しかし市川市の道路計画は外環道を中心に立案されており、他の道路計画も全く進まず、長い間市民は交通渋滞に悩ませられることになる。

「はい、おみやげ!」出かけていた女房がカレー好きの私に、海軍カレーのレトルトパックを手渡した。「横須賀に行ったのか?」私の問いかけに、「いや外環道の開通に先立って新しく開通した、道の駅で買った」という。なんで市川市の産物を紹介する道の駅に、横須賀の海軍カレーが売られているのか?良く分からないがカレー好きなので理屈抜き喜んで受け取る。いま道の駅はどこも大人気で、主な幹線道路沿いにはあちこちに道の駅が新設されている。トイレや休憩場もあり、ドライブインとして重宝されている。千葉県の道路事情はむかしは劣悪だった。主な幹線道路でも住宅地を離れるとどこも砂利道でボコボコ。ガラスや釘なども落ちていた。

「お姉さん!どうしたの?」トラックが止まり運転手が車から降りてくる。[パンクかあ、どれどれ貸してみな!」と工具を取り出し車の下を覗き込む、ジャッキを充て車輪を上げると、すばやくタイヤを交換してくれた。姉が礼を言うと、汚れた手をテヌグイで拭きながら笑顔で立ち去った。昭和35年頃まだ女性のドライバーは非常に珍しかった。女性でいち早く免許を取った長女は小さなスバルを運転していたが、道路はほとんどがまだ未舗装でよくパンクする。同乗者の私は子供なので車の事は分からない。でも姉は「パンクは直しは男の仕事でしょう!」と平然としていたのだ。

今の時代でも女性が幹線道路でパンクした車の横に立ったら、男が車を止め直してくれるのか?それ以前に今の車のタイヤはチューブレスで、パンクしてもある程度走れます。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

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