ティーシャツ

「レナウーン、レナウン、レナウン、レナウン娘が、お洒落でシックなレナウン娘が、わんさか、わんさか、イェーイ、イェーイ、イェイ、イェーイ・・・」と日頃のウップンを晴らし、むかし爆発的に流行ったこのレナウンのコマーシャルソングに乗って、今日は軽快に行ってみよう!ワンサカ娘というこの歌、登場したのは日本が高度成長を始めた1967年である。作詞は小林亜星さんで当時歌手として人気のあった弘田三枝子が歌を歌った。なにしろ当時この衝撃的な曲と共に発売された、レナウンのイェイ・イェ、ブランドの服は斬新であった。それまで無かった、カラフルで大胆なボーダー柄の色使いのセーターと、流行り始めたスリムなミニスカートやパンタロンの組み合わせは、若い女性の心を捉え爆発的に売り上げを伸ばした。

ファッション産業は未来産業である!このころアパレルなどのファッション産業は自動車、家電業界と共に、これから伸びる産業として非常に注目されていた。私もその言葉に刺激されファッション産業に係わることになる。私が大手婦人靴問屋に入社したのが1971年であったので、確かにそれからバブル崩壊までの20年間は右肩上がりで業界は伸びていった。日本の経済成長と共に裕福になった女性達は競ってオシャレを楽しむようになり、洋服代に金をたくさん使った。オシャレ好きな女性達の中にからは購入者では飽き足らず「ブティク」とよばれた洋品店を自分で開店し、品揃えやコーディネートを競い合う人もいた。あまり繁華でない街中にも個人経営のブティクは進出したが、今では殆んど見かけない。

先月レナウンが倒産というニュースが飛び込んできた。前から経営が厳しいという噂は聞いていたので、別に驚きはしない。ただアパレルの優良会社であったオンワードや三陽商会なども売り上げが年々減少し、何年か先には破綻する可能性もあると聞くと時代の盛衰を感じざるえない。「これからはスマホの時代です」数年前に亡くなった、あのアップルの創業者スティーブ・ジョブスは株式総会でスマホを掲げて誇らしく叫んだ。そのような大舞台でも彼の衣服はティー・シャツにジーンズの上下で一万円前後!「むだな衣類などに金を使わず、これからはもっと通信に金を使うべきですよ」というメッセージに見えた。その他アマゾンのベゾス、フェースブックのザッカーバーグ氏などネット系の大金持ちは皆ラフな、ティー・シャツにジーンズ姿である。

最近口紅などの化粧品の売り上げも減っているという。確かにマスクをしていれば口紅なども付ける必要も無い。着飾ることもなければ、化粧もしない。するとこれからの女性はボディーシェイプとインテリジェンス、中身が勝負になりますか?(勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

オモテナシ

私は朝10時開店と同時に百貨店に入店するのは凄く抵抗を感じる。「いらっしゃいませ」と店員さんやテナント販売員さんたちが、深々とお辞儀をし笑顔で出迎えてくれるのは良いのだが、彼らの視線を浴びて目的の売り場まで中央突破するのは二の足を踏む。しかしこの感覚は私の個人的なもので、他の人も同様であるとも思えない?そのため百貨店独特のこのセレモニーを避けるため、入り口付近で時間を潰し10分遅れで入店することもある。そして売り場に到着後も、こちらがまだ品定めをしている最中に「いかがですか?」などと店員さんが近寄ってくると、捜すふりをして立ち去ることもあった。でも百貨店とは元来オモテナシを受けたい人の店なのだから、こんな客は量販店で購入すればよい。

いっぽう接客といえばこの半世紀で激変したのは、交通機関の職員ではないだろうか。とくに国鉄がJRに変わる前の職員の対応などはひどかった。電車に乗せてやるという感覚が強く、鉄道はサービス業という自覚などは全く無かった。乗り換え時間を職員に聞いても、めんどくさそうに対応するので気分を害することもあった・・・。「今度の旅行とても楽しかったわよ、案内の職員さんが面白くてさあ、あんな良い人が国鉄にもいるのね!」当時たまたま国鉄の企画する旅行に参加した母親が、帰宅するなり開口一番言い放ったことがある。国鉄は明治維新後、失職した武士たちの受け皿となっていたため、職員は気位が高く頭を下げることなどしない。これがずっと伝統になっていたので、母親にはかなりの驚きであったようである。

いま百貨店はどこも休業状態だったので直近の決算は大赤字である。インバウンドの中国人客も殆んどゼロで、このままだと倒産しかねない。でも百貨店の売り上げ減少に歯止めをかけるための秘策などあるのか?先日ある百貨店の社長がその解決策として、より高いオモテナシの心とコンサルタントとしての販売員のスキル向上を上げていたが今のネット社会、スマホひとつあればどんな情報でも瞬時に入手できる。これからソーシャルディスタンスが常態化すると、売り場は無人で商品タグにスマホをかざせば、瞬時に商品情報が見られるほうがよいのではないか?対面でのていねいな接客が売りであったデパート、すでに不要に感じる接客に固執するとガラ系に沈んでいく。

この感染症により10年かかるとされた時代の変革が、いま急激に進み始めた。オリンピックを目指し推進してきたオモテナシの接客も近未来には、余分なものとして葬りされかねない。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

お辞儀

(三尺下がって師の影を踏まず)という諺があるが、三尺は約1メートル位である。ではもっと(三歩下がって師の影を踏まず)はどうだろう?これならちょうど2メートルになるのではないか。弟子は師に礼をつくすため少し離れて後ろを歩く。昔から続いてきたこのような習慣は、戦後しばらくはまだ一般的であったと思う。私の両親も外出時に、母はいつも父の少し後ろを歩き、話しながらの夫婦並列歩行など見たことがなかった。当時たまに男女が楽しそうに密着歩行していても人目が気になり、誰かに遭遇するとサッと離れた。ところが私が高校に入学すると、先に卒業し百貨店に就職した近所の先輩が、ニコニコしながら堂々と彼女を連れて腕を組み、自慢げに歩くのに出会った。「アメリカ人の真似ですか!」とこの時は何かカルチャーショックを感じた。

しかしそれから数年もするとこの男女密着歩行はあっという間に、若者達のあいだに浸透していったのだ。日本人は伝統的に人との密な接触を避ける民族であると思う。特に挨拶では他の民族との違いが顕著である。離れてお辞儀をし握手やハグなどは無し。ましてホッペにするチークキスなど言語道断!あんなばつの悪い行為は絶対に嫌う!チークキスは慣れないとそのタイミングがすごく難しい。気後れするとギコチなく絵にならない。それに日本人は会話中にボディータッチなども殆んどしない。むかしイタリアで出会った靴学校の初老先生リナーテ氏はさりげなく女性にタッチをしていたが、あんなこと今の俺がやったら「触り魔のエロジジイ」と罵倒される。

でも人との密着を避けようとする日本人のこの習慣、今やソーシャルディスタンスとして、世界中から注目されトレンドになっている。逆に気の毒なのがボディータッチの好きなイタリア、スペインなどのラテン系の人々である。ベタベタと密着するから多くの人がコロナに感染して死亡している。でも彼らが日本人をまねて距離をおき、お辞儀をするようになったら、これまた不恰好で不自然だ。(ウィズ・コロナ)コロナと共存する生活が長く続くようだと、それぞれの民族で長く培った慣習や風俗も変わっていくのかもしれない・・・。「日本人は日常、なぜマスクなどするんだ」とアメリカ人はいぶかっていた。もしアメリカでマスクして街を歩いたら、強盗に間違えられて射殺されることもあるぞと・・・。

そのアメリカ人でも命は惜しいのか?いま急速にマスクの着用が根付きはじめている。挨拶に距離をとることや、日常のマスク着用、頻繁な手洗いなど几帳面な日本人の習慣が注目されるのも恐ろしい時代だ。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

拾い玉

コロナウイルスの感染拡大で先月非常事態宣言が発令されると、殆んどの小売店や飲食店が休業することを余儀なくされた。しかし自治体の休業要請に、なかなか応じようとしないのが一部のパチンコ屋であった。だれもがパチンコ屋は三密で濃厚接触のうえ、喫煙者も多く換気が悪いイメージをもっていて、クラスターの震源地になるのではと危惧する。ところがマスコミなどの異常なバッシングをよそに、パチンコ屋からはコロナの感染者の報告は今のところはない。パチンコ屋の店主曰く、「店内は換気が良く、客同士の会話もあまり無い。それに人々はパチンコ台に向かって横並びに座るので見た目より安全だ」しかしこれだけ世間から批判を浴びるのはパチンコはギャンブルだ。という認識があるからではないのか?

私がパチンコ屋に出入りしていたのは小学生の頃である。まだテレビもあまり普及していない当時、パチンコは大衆娯楽であった。我が家でも夕食が終わると、父親は駅前のパチンコ屋に時々出かけた。そこで私もたまには同行することになる。だが当時夏場は冷房設備も無いので、パチンコ屋の入り口は常に広く開放されている。そのため風通しは良いのだが外からは丸見えで、知人がいると確認できる状態であった。またジャラジャラ騒音は道に響き客をさそう。他にも子連れで来ている人もいて、親から玉をもらうと並んではじいた・・。。「おっ、やった、入ったぞ!」玉が無くなると店内をうろつき回り、落ちている玉を捜す。この拾い玉一個で当りがきたことがあった。しかし徐々に子供の入店は禁止になる。

そしてこの頃は、パチンコで勝利し出玉を景品交換所に運んでも、換金することはできなかった。でもタバコに代えればそれを買い取ってくれる人がいて、金になったらしい。現在のようにパチンコ屋・景品交換所・外の景品買い屋という三店方式で自由に換金出来るようになったのは、1961年に大阪で元府警察官だった水島という男がはじめたのが、全国に広まったという。それからパチンコは本格的にギャンブルに移行し、一日に数十万円も勝ち負けするようになった。今わが国ではパチンコギャンブル依存症の人はかなりの数に上るという。この緊急事態宣言の最中に、車で越境しオープンしているパチンコ屋に殺到!世間の批判をあびている。「パチンコが出来ればでコロナに感染し、死んでも本望」とギャンブラーは言い放った。

横浜に着工予定のカジノ建設が先日中止となる。このコロナ騒ぎで本拠地ラスベガスのカジノも再開が遅れ火の車!とても新規出店どころではないらしい。政治家の利権の温床カジノなど必要ないのではないか?(勝田陶人舎・冨岡伸一)

カスタネット

昨年テレビを見ていたら、八歳の女の子が大人達のバンドに混ざり上手にドラムを叩いていて、ビックリすることがあった。今は英才教育で幼児からその道を極めた物凄い子供がいる。いっぽうで私が小学校低学年の頃を振り返ると、音楽という教科は極めて単純であった。担任の先生が弾く古びたオルガンに合わせて、皆で「春の小川」など小学生唱歌を歌うだけである。だからとりあえず歌が上手に歌えればよい。私は他の子より高音が出たので音楽の点数は悪くなかったと憶える・・・。戦後は管弦楽器など気のきいたものは学校にも全くない。あるのはカスタネット、トライアングル、タンバリンなど、ごく簡単な打楽器だけだった。

でも小学4年生になるとハーモニカが、そして高学年になるとプラスッチク製のリコーダーが登場する。私はハーモニカは得意であったがリコーダーは難しい!指の押さえが悪く音が抜けて上手に吹くことができなかった。そのほか当時の楽器としては木琴がある。ピアノの代用品として叩かれていた木琴は何故か女の子に人気があった・・・。いつの世も社会格差は常に存在する。いや当時のほうが貧富の差は大きかったのかもしれない!食うや食わずでやっと30円のカスタネットの子もいれば、ピアノやバイオリンを習う金持ちの子弟もいたのだ。ピアノは我々の世代では高額なので夢の楽器であった。そのため我が国が高度成長期に入り、その後一億総中流で皆が豊かになると、好き嫌いに関わらず子供達にピアノを習わせることがブームとなる。

ところで最近デジタル・デバイドという気になる言葉をよく耳にする。これは急速にデジタル化が進む将来、それを上手く使いこなす人とそうでない人とで、デジタルデバイド(情報格差)がつくという意味の用語だ。これから人々は仕事がデジタルかどうかで極端な収入差がつくらしい。そしてより怖いのは、この現象が新たに社会階層を固定化し、いちど底辺に落ちると子々孫々まで逆転は不可能だという・・・。現在金銭的に余裕のある家庭の子弟はデジタル化の波に乗れるが、パソコンも買えない貧困層もいる。親が日々の生活に追われ、放任された子供達は知らぬ間にデジタル弱者に・・・。今後パソコンを叩きデジタルに強い人だけが豊かになるとしたら、また戦後のあのピアノとカスタネットの格差社会に逆戻り!

コロナの蔓延で大変なアメリカでは、感染者の多くがホームレスや黒人層など、自宅でリモートワーク出来ないデジタル弱者であるという。失業して簡単な職種を人混みで探し回ると、ウィルスがニッコリ微笑み抱きついてくる。

(勝田陶人舎・冨岡伸一)

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