喫煙

「すいません、火を貸してくれませんか?」若い頃タバコを吸いながら街を歩いていると、よく声をかけられた。この場合はくわえているタバコを差し出し手渡せば作業は簡単に終わる。しかしタバコを吸わずに歩いていても声をかけられることがある。するとポケットを探り、マッチやライターを取り出しくわえたタバコに火をつけてあげることになる。風の強い日などはマッチだと直ぐに火が吹き消される。そこで相手の口元に手で風除けを作り、何度かこの作業を繰る返す。めんどくさいのでマッチを持参していても「タバコは吸いません」と断ったりすることが度々だった。「喫煙ぐらい少し我慢しろよ!」と思うのだが、昔は本当にタバコを吸い続けるチェーンスモーカーという人がいたのだ。

子供の頃の巻タバコは今のタバコのようにフィルターが付いてない。両切りタバコなので吸おうと思えば根元まで吸える。すると近所のおじさんが指でチビたタバコを持つと熱いので、携帯していたツマ楊枝を短くなったタバコに挿して吸う。けち臭いその姿を目にした時には、思わず笑みがこぼれた・・・。戦後暫くはタバコを買えない人も沢山いて、モク拾いという行為を頻繁に眼にしていた。道に落ちているまだ吸えそうなタバコを拾って吸ったり、拾い集めた吸殻を新たな紙に巻き直し吸ったりもする。中にはそれを一本何円かで売る人もいたと聞いていた。私の父親は健康に良くないとタバコは余り根元まで吸うことはなかった。まだ長めのタバコを道に捨てると、すれちがった男が捨てたタバコを奪い取るように拾って去っていったこともあった。

私は喫煙の期間は20代位の前半から30台後半の十数年しかない。ヘビースモーカーではなかったので禁煙は直ぐに実行できたが、難しいのがバーなどの飲み屋で席だった。ある程度アルコールが入ると気持ちが緩む。隣で喫煙しているとついつい「一本もらっていい?」とタバコをせがむ。すると白い手が前からスゥーと伸びてライターの火が素早く差し出される。「ありがとう!」と軽く会釈。そして大きくいっぷくを吸い込むと一週間ぶりの喫煙のせいか、なんとなく眩暈が!「この感覚がいいんだよね」と呟きリラックス。こんなことの繰り返しで、本当の意味での禁煙には一年程要することになった。

なんと言っても酒とタバコの相性は確かに抜群だと思う。わが家には酒よりもグイノミならいくらでもある。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

カツ重

私の住む千葉県市川市には誰が名付けたのか、通称北京通りという駅に向かう一方通行の狭い道がある。通勤時間帯には並行するバス通りを避けての迂回路となっているため、多くの自転車に乗った人たちで混雑する。特に京成電車と交差する踏み切りはボトルネックとなっていて、先を急ぐ銀輪の群れで非常に危険な状態がもう何十年も続いていた。テレビでも危険な踏み切りとして度々取材されていたので、ご存知の方もいると思う。この道の中ごろにはわが母校八幡小学校もある。そのため踏切の拡幅には行政も積極的に取り組んできたが、地権者の理解が得られずに延び延びになっていた。しかし最近用地の買収が完了し、やっと来月には拡幅工事が終了する。

もともとこの通りは文豪永井荷風が、菅野の自宅から八幡駅に通う道として親しまれていたので、地元では優雅に荷風通りと呼ばれていたのだ。それがいつの日か30年程前に改革開放の始まった頃の、中国北京の自転車で混雑した通勤風景にそっくりということで、北京通りという愛称に変わってしまった。でも今の北京ではもう自転車でなく自動車による混雑になったので、この呼び名も時代遅れとなっている。かの地では現在は排気ガスによる健康被害の方が深刻だ。そして春になるとまた西風に乗って黄砂やPM2.5なども飛んでくる。人口の多い大国の風下のリスク要因は色々あり、もし沿岸部に原発などが多く建設されると、事故のとき被害は自国より日本の方が大きくなる可能性が高い。

「アゲン、カツ丼!」先日テニスの全豪オープンで優勝した大阪ナオミさんの勝利インタビューでの「いま日本食で何が一番食べたい?」の問いかけに、答えた言葉がこれだった。カツ丼と言えば永井荷風もこの北京通りの踏み切りの脇にある、割烹料理屋(大黒屋)のカツ丼(実際にはカツ重か)をこよなく愛した。近くに住んでいた彼は晩年は毎日のようにこの店でカツ丼を食べていたという。確かにカツ丼は旨い!数ある丼飯の中でも三本の指に入るのは確実だ。私もカツ丼は好きで月一程度の頻度では食べている。でも同じカツ丼でも丼から、重箱に器が変わると値段も高くなり見た目も高級になる。料理と器のバランスは確かに重要だ。丼は持っても食べることもあるので、ご飯をかきこむ。でも重箱だとゆっくりと味わっていただくことになる!

土曜日の雪で、立花仕立ての鉢に白く雪が!

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

アメリカザリガニ

先日ラジオを聴いていたら、アメリカ・カントリーウエスタンの代表曲であるジャンバラヤという曲が流れてきた。バンジョウの刻む軽快なリズムのその曲は、あまりにも有名なので皆さんもご存知たと思う。私もこの曲は好きなので若い頃にはよく聞いていたが、曲の名のジャンバラヤという料理は今だに食べたことがない。パエリヤに似たその料理はザリガニなども入れるというが、アメリカザリガニが本当に食べられるのかどうかは疑わしい?日本ではアメリカザリガニは明治時代にウシガエル(食用カエル)の餌とするために、アメリカから持ち込まれたようで、その一部が逃げ出しあっという間に全国に拡散したという。

このアメリカザリガニは私が子供の頃、近くの池や川にたくさんいた。共食いするので一匹捕って、その身を取り出し糸に結び水中に投げ込めばいくらでも釣れる。何人かでバケツいっぱい捕ったがその処分にはいつも困る。そこで鶏を飼う近所の家に配ったりもした。しかしこのザリガニ、スウェーデンでは高級食材だという。夏になると野外でザリガニパーティをやり、茹でたザリガニの胴体をむしって尾の部分を食べる。そして次に胴体の奥に潜む味噌をチュー、チュー音を出して吸うという!食事時の擬音などマナーにうるさい欧米人も、ザリガニを食べる時は例外で吸って音を出しても良いとか!

音を出して食べるといえば、日本では落語の蕎麦の食べ方がある。たぶん昔はあのように、すすって蕎麦を食べていたのであろう。しかし今でも蕎麦屋に入ると本当に大きな音を出して、蕎麦をすする人がいる。先日蕎麦屋でザル蕎麦をたのみ待っていると、大きく蕎麦を吸う音が聞こえてくる。「勘弁してよ!もう少し静かに食べろよ、お願いだから!」心中叫ぶが、本人はいったって気にしてない。これって日本の文化でしょうと平然としている。私も食事の時の擬音は気になるので、蕎麦は静かに食べようとするがやっぱり多少音はでる。最近若い人の間でクチャクチャ食べる人をクチャラーと言うそうで、女性にも嫌われる。日本も国際的になり、外国人との会食も増える。いつまでも音を出して食べても平気なローカル文化、個人的には肯定はしたくない

時代と共に食もマナーも変わる。世界の人口が増えると海も汚れ、魚など自然食材も枯渇する。でもザリガニは食べたくない。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

軍艦巻き

私はイクラ好きで鮨屋に行くと必ず注文する。すると海苔で軍艦巻きにされたあの握りが目の前に置かれる。しばしその美しいオレンジ色の粒に見とれゆっくりと口に運ぶ。特にシーズンに出される、まん丸な生の醤油漬けのイクラは最高だ・・・。だがこの軍艦巻きという握り、子供の頃は見たことが無かった。いつ頃だれが最初に考えた出したのか調べて見たら、余り定かではないが1941年に銀座の鮨屋(久兵衛)か始めてそれが徐々に広まったとか?しかし考えて見ると、この軍艦巻きの手法は画期的な発明だ!これにより軍艦にすれば何でも寿司ネタになる。「ええ、こんな物も寿司になるのか?」いま回転寿司に行くとこの軍艦で巻かれた、驚きの寿司ネタの握りが目の前を通過する。

イクラとはロシア語で魚卵の意味だそうだ。ロシアではイクラを塩漬けにしてキャビアのようにパンに乗せて食べる。もう50年ほど前アエロフロート(ロシア航空)に乗った時に、太っちょのオバサンスチュワーデス(当時のソ連ではスチュワーデスは国家公務員で普通のオバサン)が運んできた機内食のランチプレートの中にイクラも入っていた。英語でレッドキャビアと呼んでいたイクラはパンに乗せて食べる。でもイクラのオープンサンドは余りいただけない!やはりイクラはパンでなく、ご飯が旨いと思った・・・。カナダでは以前イクラは食べずに内臓と一緒に全部捨てていた、という記事を読んだことがある。でも今では日本に輸出するそうだ。

最近サーモンはノルエーサーモン、チリサーモンなど色々な国からやってくる。でも元来サーモンは日本からロシア、カナダにかけてのベーリング海域にしかいないはずだ。これは地理的な問題で湾のように封鎖されていないと、鮭が海流に乗ったまま生まれた川に戻ってこられないという。だからノルエーやチリでは稚魚を放流しても、鮭が迷子になりタマゴを産めずにやがて死んでしまうという。そのため狭い生簀で鮭を養殖する!また餌には魚のクズや抗生物質、生でも食べられるように寄生虫を殺す殺虫剤などを投与され、危険な有害食品だと問題になった。あんな回転寿司で見る脂の乗った、白いトロサーモンなどは自然にはありえないそうで、食べるのを躊躇する。

今日は表題とは別に最近作った抹茶茶碗を掲載する。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

ホットドック!

私は長いあいだ婦人靴のデザインを仕事にして来た関係上、ファッションにはいつも興味を抱いてきた。でもいろいろ考えて見ると、戦後日本人のカジュアルウェアーの原点といえば、それはブルージーンズではないだろうか。いつの時代もブルージーンズはカジュアルウェアーとして人気があったが、最近ふと気がつくとブルージーンズを履いている人をあまり見かけない。これだけ長いこと履かれるとさすがに飽きられたのか?でもブルージーンズはある時代飽きられても、また何時の日か必ず復活してくる・・・。私の記憶をたどると、ジーンズを街中で見かけるようになったのは確か私が中学生の頃で、上野のアメ横などで売られていた米軍の中古ジーンズを、一部の人がファッションとして履き始めたのが最初だと思う。

「ロバート・フラーが店に来てるって!」昭和30年代の中頃、突然の噂を聞きつけて私は家業の手伝いで通っていた、日本橋三越の階段を駆け下りた。1階のホールにはその姿を一目見ようとすでに沢山の人だかり、人を掻き分けどうにかロバートの見える位置まで近づいた。「彼がロバートか、なーんだ・・・。」あまりいい男ではない。背の高い赤ら顔のその印象は白黒テレビでの姿とは異なっていたのだ。そのころテレビではローハイドやララミー牧場といったアメリカの西部劇が放映されており、お茶の間では大人気で皆が食い入るように見入っていた・・・。特にララミー牧場に出演していたロバート・フラーは日本では人気があった。テンガロンハット、赤シャツにスカーフ、ジーンズにブーツ、そして腰の拳銃と西部男のこの着こなしは男の子の憧れの的であった。

こうしてブルージーンズの第一回目の流行は始まったが、今のように大人や女性に履かれることはなく、じきにバンなどのアイビー・ルックに人気が移っていった。この頃中高生などがファッションに飛びついてお洒落をすれば、とりあえずみなに不良と呼ばれた。(不良でもなんでいい、高校生の頃はアイビールックに夢中だった。)そして大学生になるとアイビールックも下火になり、日本も高度成長期をむかえる。外貨が増え本格的にリーバイスやリーなどのアメリカのブランドジーンズが日本に輸入されてくると、今度は若い女性もミニスカートとともにジーンズを履くことも流行し始めた。そのご何度か大流行の波が来て、ジーンズは日本人のカジュアルウェアーのベースとなっていく。

でもこのころ流行った言葉に皆さんもよくご存知のTPOがある。そのため当時まだホテル、飛行機など公の場所ではジーンズはご法度であった!ジーンズに相性のよい食べ物ならやはりホットドック?(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

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