クラッカー

日本にはセンベイという伝統的な甘くない菓子がある。子供のころ自宅の近所には橋本という名の一軒のセンベイ屋があった。そこの店の三女とは同級生であったので小遣いの10円を貰うと、オヤツにはゴマ入りの醤油センベイを食べる機会も多かった。ところが「俺がこんなに強いのも、あったり前田のクラッカー!」というテレビコマーシャルがある日突然放映された。目の前に差し出されたその袋の画面を見て「クラッカーって何だ」初めて聞くその名に戸惑う。なにか謎めいたアルファベットの新鮮な響きを持つその菓子の名に誘われて、早速母親にせがみ一緒にスーパーに出かけ買い求めた。スキップしながら自宅に持ち帰りその封を切り中の一枚を取り出すと、センベイとは全く違うその食感の「サクッ!」経験したことの無いその感触のよさには感激した。

「あったり前田のクラッカー!」その後このフレーズはクラッカーと共に流行しオヤツには時々食べるようになった。そのきっかけは昭和37年に放映開始となった「てなもんや三度傘」という藤田真や白木実が出演して人気の出た、関西系コミカル時代劇である。この番組中に流れたテレビコマーシャルが「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー」という藤田真のこの名セリフ!インパクトがあり当時の流行り言葉になった。テレビ放送が全国的に広まると、今まで見ることが出来なかった大阪の吉本喜劇が東京でも放映されるようになる。テンポの良い関西弁の乗りと、ジョークは関東人にとっても新鮮で漫才と共に全国的に浸透していくきっかけとなる。

そのころ同じく「ポパイ」というアメリカアニメも良く見ていた。主人公のポパイはホウレン草の缶詰を食べると急に強くなる。「ポパイ助けてー」スレンダーなポパイの彼女オリーブが、またストーカーのブルートに捕まりキスされそうでポパイを呼び叫ぶ。しかし助けに向かったポパイも最初は体が大きく頑強なブルートに叩きのめされる。「タタララ、ラッタター!」すると音楽と共にホウレン草の缶詰が空から飛んできて、缶が自動で切られてポパイの口にはいる。するとポパイはパワー全開でブルートをフルボコに。オリーブを助けたポパイは意気揚々とオリーブをエスコートし帰宅する。ストーリーは単純でいつも同じであった。

俺がこんなに強いのもあたり前田のクラッカー。クラッカーを食べると強くなるというこのセリフ。やはりポパイのホウレン草の缶詰の引用だったのか?

(勝田陶人舎・冨岡伸一)

ビアンコ

早朝ご飯の香りがキッチンの方からほのかに漂う、そろそろ炊きあがるようだ。「さてと、オカズは何にするか?」ゆっくりと立ち上がり冷蔵庫の扉を開け、中を覗く。私は出勤が朝早いので朝食は自分一人で食べることが多い。でも炊き立ての熱い飯はそれ自身うまいので、特別にオカズなどこだわらなくてもよい。明太子や子供の頃によく食べたオカカなどがあれば、それで充分だ。特にコシヒカリなどのブランド白飯はかすかな甘味もあるので、オカズはなるたけシンプルな方がよいこともある。これはご飯に限らず、焼きたてのパンや茹であげたばかりのパスタなどにもあてはまる・・・。以前イタリア在住時に毎日学食やレストランでパスタを食べていたが、いつもミートソースやトマトのポモドーロソースでは飽きがくる。

ある日ミラノのレストランに入りパスタメニューを見ていると、パスタ料理の項目の下のほうに必ず書いてあるのがビアンコだった。「ビアンコってなに?」(イタリア語で白という意味)ビアンコか?なんだろう。不思議に思い注文してみると茹で上げたパスタにオリーブオイルを絡め、パルメザンチーズを降りかけただけの(日本人が常食する白飯にオカカに似た)極めて簡素なパスタであった。パスタを常食するイタリア人がオーダーするパスタの殆んどはこのビアンコである。しかし旅行などで来る外国人にはソースのかからない白いパスタなど、わざわざレストランで注文する料理ではないと思うのは当然だ。でも長くイタリアに滞在し食べ続けると、外国人でもシンプルな味のパスタを求めるようになる。

そもそもパスタはイタリアのコース料理の中ではプリモピアット(最初の皿という意味)でスープのグループに入る。通常イタリアのレストランに入ると全てがコース料理で、一品料理の注文は出来ない。最初に頼むアンティパスト(前菜)、プリモ(第一料理のスープ)、セコンド(第二の魚)、テルツォ(第三の肉)、デザート、最後にカフェへと進んでゆく。そのためパスタはプリモのスープ料理の項目に入り、ズッパ(野菜スープ)とパスタのどちらかを選択することになる。基本プリモだけのダブルオーダーはできない。(パスタは汁の無いスープと捉えればよい)かつてレストランに入り、空腹でないのでスープとパスタを頼んでみたことがあったが、ボーイに軽く断られた。でも私ではなく美人の女性のあなたなら受けることがあるかも。ルールはあっても状況次第でコロコロ変わるのがイタリアだ。

イタリアのレストランではこのビアンコとミートソースの値段が余り変わらない。良いパルメザンチーズが手に入ったら一度ためしてみてください、結構うまいですよ。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

カニ弁当

先月スマホをソフトバンクからドコモへ変えた。5年ほど使っていたのでアイコンの反応が悪くなり、仕方なくの機種変更だった。新しいスマホの操作にもやっとなれた矢先、「ドコモの2億円当たるキャンペーンに、貴方が当選いたしました!」というドコモのマークが入った本物らしく見えるメールが、昨日突然送られてきた。「えー、そんなバカな?」と一瞬思考停止!普段冷静な私も「でも実際にもし2億円当たったらどうしよう?」などと欲深な考えが頭をよぎる。「そんなわけない」と我に返り早速近くの代理店に電話すると詐欺なのでメールを削除するか、無視してくださいということだった。でも削除しても5分おきに連絡の催促メールが夜中まで送られてきて困った。

確かにスマホやパソコンでのインターネットのやり取りは便利で楽しい。でもこの手の詐欺まがいの事が時々発生する。電話によるオレオレ詐欺からネット上での詐欺へと拡大している・・・。今の時代は凄い!コミニュケーションツールの充実で、自分がいつ何処にいても瞬時に誰とでも連絡が取れる。この便利さは一度経験したらもう手放なすことなど出来ない。私の子供の頃は自宅に電話がなかったので、緊急時には「電報でーす!」と制服を着た局員が玄関の戸を叩く、すると受け取った誰もが緊張感をもって開封したものだ。だいたい内容は「ハハキトク、スグカエレ!」や「サクラ、チル!」など電報の連絡には怖いことが書かれていることが多かった。私も人生でたった一度だけ電報を受け取ったことがある。大学の合格通知でサクラサクであった。

電報の料金は一文字幾らなので、文章は最小限簡単に書く。そのため詳細は分からない。郷里からの危篤電報を受け取ったときなど、当時は新幹線はおろか電車も都会以外あまり普及してないので、遠く離れた地方へは不安な気持ちを抱え、蒸気機関車で1日、2日揺られて帰っていた。「親の死に目に会えない!」この言葉、昔は親不孝の代名詞としてよく使われた。でも今では人は自宅で亡くなることは突然死以外に稀になった。殆どが病院や老人ホームなどで亡くなるので、死ぬ瞬間に立ち会うことは難しい。一本の電話連絡が入り「ああそうですか!」とうなずくだけ。医学の進歩により寝付いてから亡くなるまでの時間が長い。良いのか悪いのか、送るほうも送られるほうももういい加減にしてとなる。

先日テレビで北海道のカニ弁当を作るところを放映していた。まだ汽車や電車の窓が開閉できたむかし、ホームに電車が止まると駅弁売りがやって来る。大声で売り子を呼び、金を差し出し駅弁を買ったこともある。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

シュウマイ

シュウマイは焼き餃子よりも中国から日本に伝えられたのが早かった。明治時代にはすでに売られていたという。私が子供のころ近所の肉屋ではコロッケなどと共にシュウマイも販売されていた。ところがこの肉屋のシュウマイはコロッケと同じで肉が少なく、ほとんどがウドン粉の塊でモチモチしていて、あまり旨いとう記憶はなかった。しかしあるとき父親が熱海の旅行帰りに、横浜でシュウマイを買って帰った事がある。このシュウマイは見た目は小粒だが肉が多く、身が締まっていて嚙み応えもあり絶品だった。そしてこれが横浜崎陽軒のシュウマイとの最初の出会いであり、以来私は今でも崎陽軒のシュウマイのファンであり続ける。

現在では崎陽軒のシュウマイ(シウマイと書く)はデパートや駅ビルの食品売り場などで簡単に手に入る。ビールのつまみには、このシウマイが合うので時々は食べている。そして崎陽軒のシウマイで味と共に変わらないのが、あの磁器で作られた醤油入れだ!「しょうちゃん」と名付けられた小さな醤油入れは可愛いので子供の頃には捨てずに取っておいて、お習字の水差しなどに利用した。でも昔のしょうちゃんは磁器の材質も素朴で厚く重みがあって今のとは微妙に違う。そして栓にも本物のコルクが使われていた。しかし今のしょうちゃんは白く綺麗な磁器で軽い。栓もコルクからゴム製に変わった。でもシウマイ一筋で、ほとんどその形態を変えずにいる企業ポリシーは凄いことだと思う。

シュウマイといえばこのほか印象に残っているのは、もう半世紀ほど前になるが大阪難波の高島屋近くの大衆食堂で食べたシュウマイである。当時勤め始めた頃の私は先輩に連れられて、大阪の百貨店婦人靴売り場の市場調査に行ったことがあった。昼時になったので何か旨いランチをということで、案内されたのがその店である。人気店らしく列を作り10分程度待って席に着き、運ばれてきたのが「オー!えらく美しいシュウマイだ」そのシュウマイ色に驚く!皮が黄色、しかも中の具はピンク、この色のコントラストが素晴らしい。推測するとシュウマイ皮が薄焼きタマゴ、ピンクの中身は小エビの粗切りを煉ったものだ。噛むとエビの食感が伝わり、海老シュウマイが初めて旨いと思った。

実は当時この店ことは東京の本社でも噂になっていて、市場調査という名目でわざわざ先輩に連れられ出向いたのだ。高度成長の頃で儲かっていた会社の経費管理も甘く、すべてにゆとりがあったと回顧する。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

 

喫煙

「すいません、火を貸してくれませんか?」若い頃タバコを吸いながら街を歩いていると、よく声をかけられた。この場合はくわえているタバコを差し出し手渡せば作業は簡単に終わる。しかしタバコを吸わずに歩いていても声をかけられることがある。するとポケットを探り、マッチやライターを取り出しくわえたタバコに火をつけてあげることになる。風の強い日などはマッチだと直ぐに火が吹き消される。そこで相手の口元に手で風除けを作り、何度かこの作業を繰る返す。めんどくさいのでマッチを持参していても「タバコは吸いません」と断ったりすることが度々だった。「喫煙ぐらい少し我慢しろよ!」と思うのだが、昔は本当にタバコを吸い続けるチェーンスモーカーという人がいたのだ。

子供の頃の巻タバコは今のタバコのようにフィルターが付いてない。両切りタバコなので吸おうと思えば根元まで吸える。すると近所のおじさんが指でチビたタバコを持つと熱いので、携帯していたツマ楊枝を短くなったタバコに挿して吸う。けち臭いその姿を目にした時には、思わず笑みがこぼれた・・・。戦後暫くはタバコを買えない人も沢山いて、モク拾いという行為を頻繁に眼にしていた。道に落ちているまだ吸えそうなタバコを拾って吸ったり、拾い集めた吸殻を新たな紙に巻き直し吸ったりもする。中にはそれを一本何円かで売る人もいたと聞いていた。私の父親は健康に良くないとタバコは余り根元まで吸うことはなかった。まだ長めのタバコを道に捨てると、すれちがった男が捨てたタバコを奪い取るように拾って去っていったこともあった。

私は喫煙の期間は20代位の前半から30台後半の十数年しかない。ヘビースモーカーではなかったので禁煙は直ぐに実行できたが、難しいのがバーなどの飲み屋で席だった。ある程度アルコールが入ると気持ちが緩む。隣で喫煙しているとついつい「一本もらっていい?」とタバコをせがむ。すると白い手が前からスゥーと伸びてライターの火が素早く差し出される。「ありがとう!」と軽く会釈。そして大きくいっぷくを吸い込むと一週間ぶりの喫煙のせいか、なんとなく眩暈が!「この感覚がいいんだよね」と呟きリラックス。こんなことの繰り返しで、本当の意味での禁煙には一年程要することになった。

なんと言っても酒とタバコの相性は確かに抜群だと思う。わが家には酒よりもグイノミならいくらでもある。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

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