宮古島
沖縄本島のさらに南、そこには美しい白いサンゴの砂浜を持つ宮古島という島がある。私も一度訪れてみたいと思っている場所のひとつだが、今この島民の間でブルー・サーズディ(木曜日のゆうつ)という言葉が囁かれているという報道をテレビで見た。人口5万余りの静かな南国のこの島に、毎週木曜日になると中国大陸から巨大なクルーズ船が、3千人もの観光客を運んでくる。ふつう外国人がやってくれば町は観光収入で潤い大歓迎なはずだが、どうもそうではないらしい。なにしろ中国人はマナーが悪い!食べ物の包みやペットボトルのゴミなど散らかし放題で、あげくのはては海岸で用をたす人もでる始末。彼らが帰った後は清掃が大変だと嘆いていた。
宮古島では最近地価が高騰しているという。特に海岸付近ではホテル建設用の好立地が高値で取引されている。そこで大規模なリゾート開発に従事する多くの労働者も島に流入し、宿舎としての借家の賃貸料はうなぎ登りで、元からの島民は困っているという。でも大陸から近いこの島にホテルがたくさん出来るのも心配だ。今まで以上に中国人観光客が押し寄せてきてこの島を席巻し、土地を買い占めここは中国領土だと主張しかねない。そのためには中国人は日本の土地を買えない法整備が必要である。中国では土地は国家の所有で、中国人はもちろん外国人も一坪たりとも使用権以外土地は買えない。中国人は日本の土地を購入できるが、日本人は中国の土地購入が出来ない。これはでは明らかに不平等である!
先日もこのブログで書いたが、いま日本では九州に相当する面積の土地が所有権放棄されているという。一部ではもう始まっているが、これら買い手の付かないタダ同然の土地を、密かに中国人に買い占められたらどうする?法律を作り適用しても所有権が確立していればタダではとりかえせない。買い戻すために法外な値段を吹きかけられることもある。長い間島国だった日本人は和気藹々と暮らしてきて、大陸の住民の狡猾さがほとんど理解できない。昔ある人が私に「人間ずるくないと、人のずるさが分からない!」と教えてくれたことがある。騙されるほうが悪いと平然と言える人達と、いかに共存していくのか?日本人の情念を捨てたくないと願う人達にとって、未来は決して平坦ではない。
イギリスではEU離脱の是非を問う選挙が行なわれ保守党が圧勝した。国境を開き人が自由に定住できると、他民族、多文化が混在し国が乱れる。
(勝田陶人舎・冨岡伸一)
お好み焼き
お好み焼き
12月に入り師走を迎え寒くなると、食べたくなるのが鍋やお好み焼きである。お好み焼きと聞くと言葉のニュアンスが高級そうであるが何のことはない、うどん粉を水で溶き鉄板で焼けば、とりあえずお好み焼きの原型は出来る。子供の頃このお好み焼き、我が家ではドンドン焼きとよんでいた。これはむかし屋台のオヤジが車を引いて、ドンドンと太鼓を合図に街にやって来た事が語源だと父親が教えてくれた。それがいつの間にか具を好みで入れて作るようになって、多少上品になりお好み焼きと称されるようになったらしい。たぶん大阪など関西からの食文化の影響もあるのかも?当時わが家のドンドン焼きは中に入れる具は肉などなく、あまった食材を入れてご飯の代用品にしていた。なにしろ冷蔵庫がなかったので食材はすぐに使いきる。!
「あっち!」注意されたことも忘れ、口びるをやけどする!お好み焼きの金属のヘラを熱い鉄板の上に置いたまま、口に運んだのがまずかった。関東では通常お好み焼きはそれぞれの席の鉄板で自分達で作るが、神戸のその店ではカウンター方式で目の前の大きな鉄板で、店の人が手早く焼いてくれる。メニューもお好みの焼きのほかステーキや貝、野菜などもオーダーすることができた。作業は全部店員がするので楽だが、この店では原則箸は使わず小さなステンレスのヘラでスプーンのようにすくって食べる。(関西ではこのようなスタイルの店が主流らしい)最初はなれないので、「ヘラを鉄板の上に置くな」の注意に酔いが回ると無造作にヘラを鉄板の上に置いたのだ。
以前浅草寺近くのお好み焼き屋には男同士で時々行った。連れの知り合いのおばさんが一人でやっていたこの店は、モンジャ焼きも看板メニューだった。モンジャ焼きはむかし文字焼きといい、子供達に文字を教えるために水の多いデロデロの小麦粉を鉄板に流し、文字を書かせたのがそのルーツだという。しかしいずれにしても男同士で行くお好み焼屋は誰かが焼き奉行になるので、ゆっくりと酒を飲んだり話す暇もないのが欠点だ。でも共通の話題など無い人とは、作るのに忙しくて適当に話が切れるのでよいかも・・・。最近高校時代の友人の貸し店舗のお好み焼屋に行くことがあった。シルバー男7,8人で繰り出すが誰も基本焼き奉行になりたくない。そこで日頃まめに料理などをこなす男の隣が優先席になる!
世の中どんどん便利になると、お好み焼きやモンジャを焼くことはまだしもリンゴや柿の皮をむく、あげくの果てにピザを切るのもめんどくさい。先日「何とかゼリヤ」という高級イタリア料理店に入り、運ばれてきたピザをどちらがカットするのか眺めているうちに冷めた。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
歌声喫茶
歌声喫茶
「アメリカンポップスとロシア民謡のどちらが好きですか?」と聞かれたら当然ポップスと答えた。私が小学校高学年の頃、ラジオからは頻繁にダイアナや恋の片道切符など、当時ポップスといわれた軽快な流行歌がながれてきた。それら英語曲を音だけ真似て適当に拾い口ずさんでいたが、中学、高校へと進むとアメリカンポップスの勢いは増し、テレビでもいくつかの歌番組が人気となった。なかでもヒットパレードという番組が放映されると、アメリカンポップス流行はピークとなる・・・。しかしイギリスからあのビートルズが劇的に登場すると、ポップスの中心はロンドンへと移っていく。それに平行してベトナム戦争にアメリカが参戦すると、華やかだったアメリカンポップス・カルチャーは徐々に衰退し、浮かれていた若者達は徴兵され、どんどん戦場へと駆り出されていった。
このころ日本では働く若者を中心に歌ごえ喫茶などで、大勢でロシア民謡などを歌うこともブームとなっていた。ロシア民謡は戦後シベリアの抑留者達が帰国して広めたという。「歌を歌いに行かないか、結構楽しいよ」と近所に住む会社勤めを始めた先輩に誘われて、市川駅に程近い神社脇にあった消防団二階の集会所に連れて行かれる。そこでは夕方になると週に1,2度ギター片手に歌好きな若者が集まるり、歌声喫茶のようにロシア民謡や流行歌などを歌う。しかし何か様子がおかしい?時々政治話などをする。噂でそれは共産党の下部組織(民青)の主催だと聞いたのですぐに行くことをやめた。このころ労働組合や日教組など左翼運動も盛んで、各地の集会で勧誘活動などが行なわれていた。天皇制を廃止して日本もすぐに社会主義国家に!と叫ぶ人たちが多くいたのだ。
ところでいま共産党員の平均年齢は70歳なのだという。若い人がほとんど入党しないらしい。このままだはあと5年もしたら党は無くなると、関係者は危機感を抱いている。機関紙赤旗の発行部数も100万部を切ったらしい。国から党の助成金も貰わず財政は火の車だとも聞く。このままイデオロギーに固執し党規約なども変えずにいると共産党は本当になくなるかも?だいたいマルクスの考えた平等論に立脚した共産主義などしょせん無理がある。人は平等が大嫌いなのだ!人の上に立ちたい、人を凌駕、支配したいの感情は誰でも持つ人類のサガ。中国共産党のように理想論を掲げても、時が過ぎれば汚職と賄賂で不正蓄財。以前より極端な階級社会になる。
AIの進化で人々の思想や行動を国が管理し易くなると、一歩間違えれば自由や民主主義の脅威となることもある。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
ボロ市
ボロ市
私の住む市川市本八幡駅近くには、この駅の名前の由来にもなっている、葛飾八幡宮という神社がある。この神社では毎年秋になると農具市(通称ボロ市)が開催されてきた。子供の頃はこのボロ市、古着や鋤、鍬などの農具を商う露天商、植木屋、屋台の食べ物などを販売するテキヤなどが神社の境内に所狭しと露天をはった。しかし最近ではこの祭りも人出が減り、これら露天も20余りで広い境内に点在する程度で、まことに寂しい状態となっている。昔この祭りは人出が多く真贋渾然となっているところが面白かった。特に印象に残るのは得体の知れないオヤジが、こうじょう巧みにどんな傷でもすぐ止血する!などと自分の腕に刃物で傷つけ軟膏を塗る。するとあっという間に血が止まった。そこでこの軟膏を買ってみが、ただのワセリンであった。
今国会では安倍さんが毎年春に主催する『桜を見る会」というお祭りが、税金の無駄遣いということで野党やマスコミから執拗な攻撃を受けている。でもこの問題良く考えてみると、これは(祭り)という概念が吹き飛んでいる。祭りは人が多く賑やかなほうが楽しい!それにある程度祭りは無礼講で人や金などいちいちチェックしないことが前提である。祭りには神主もいれば、地元ヤクザやテキヤも関わる、これらが混在一体となって盛り上がるのが祭りではないのか?持ってくる御祝儀に基本いちいち領収書など発行することはない。日本の行く末を議論する国会の場でこれら仔細なことに、一人年間億近く経費のかかる国会議員が寄ってたかって、議論することに何か意味があるのか私には理解できない。
最近の安倍さんを見ていると大分気力がうせてきたようにも見える。モリカケ、サクラと仔細な問題に終始するうちに、せっかく盛りあっがった憲法改正、安全保障の問題など何も結論が出せないで退陣することになりそうである。次に誰が総理になるのか現況では有力な候補者が全く存在しないのは、今の日本にとっては悲劇!事なかれ主義のポリシーや指導力のない総理では、これからの難局を乗り越えることなどできはしないと思う。確かに今の日本人の民度は高くなった。街は清潔で何もが正確に機能している。しかし余りにも仔細なことに皆で、こだわり過ぎ大局視座に欠け国力は低下していく。
先日自民党の二階幹事長が皇室の皇位継承は男女平等の立場で議論すべきと、まことに皇族の歴史を無視した発言をした。安倍さんの側近ですらこの程度では全く憂国です。(写真の葉は陶器です。勝田陶人舎・冨岡伸一)
桶
桶
私には幼児期の記憶が普通の人と比べて非常に多く残っているようだ。なにしろ始めて自分が独りで立った時のことを憶えているくらいなのだ。「伸ちゃん、立った、たった!」と姉に支えられた手を離された瞬間、家族に囃されたことも鮮明に憶えている。でも周りからは「それは幻想」そんなことある分けない!と否定されている。私が2歳の頃だったか?当時まだ殆んどの家庭には内風呂はもちろん近所に銭湯もなく、2,3日おきに1キロ以上も離れた国鉄本八幡駅の南側、行徳街道(当時新道と言っていた)沿いの銭湯まで遠路通っていた。もちろん乳母車など我が家には無い。戦時中鉄製のものは全て武器を作るために供出され、道路には鉄釘一本落ちていなかったので、当然母親におんぶされての銭湯通いだった。
「ここにしっかり掴っているんだよ!」と言い残し母親は銭湯の大きな湯船から離れた。一人でぼんやりお湯に浸かっていたが、なんとなく湯船の淵から手を放した瞬間!くるっと頭から湯の中に回転、溺れそうにもがく私を「あらま、大変!」と近くにいた奥さんが私を急いで引き上げてくれた。「どうもすいません!」と洗い場で体を洗っていた母親がとんで来たが、たった2,3秒のこの出来事が鮮明に記憶に残る。私は自分の体に比べて頭が重かったせいか、よく頭から転がった・・・。「カッターン、ころーん。」4、5歳までは女湯にもよく入っていた。当時の銭湯は洗い場の桶は今のようにプラスッチックではなく、ヒノキの桶が使われていた。そのため桶が床にぶつかる音や転がる音が高い天井に反響、絶え間なく響いた。
そのころ女湯には普通の桶より一回り大きな桶があった。これは女性の髪洗い専門の桶で、髪を洗う女性はこの桶を別料金で借りなければいけない。なぜだと母親に聞くと「女性の髪は長く、湯をたくさん使うから」だと答えた。当然シャンプーやリンスなどもまだなく、女性も固形石鹸で頭も洗っていたのだと思う。日本でシャンプーが定着したのは1960年位からだということだが、最初は一回分ずつ紙の袋に入った粉状のシャンプーだった。それに今では全く考えられないことだが、銭湯にはサンスケ(三助)と呼ばれる下働きの男がおり、女湯にも白い半股引き一つで自由に出入りし、手間賃を払うと女性の背中などを流す不思議な仕事もあった。その後まもなくこの三助は銭湯から消えたが、江戸時代から戦後まで続いたこの奇習、日本の浮世風呂の原点でもある。
火山帯に乗っかる日本列島はいたる所に温泉が湧き出る。最近ではこの温泉目当てに海外からも多くの人もやってくるようになった。裸の付き合いという言葉もあるように誠実を尊ぶ日本人。その原点の一つには皆で裸で入る風呂の文化にあるのかもしれない。(勝田陶人舎・冨岡伸一)