キンメダイ

まだ幼児のころの頃、私が住む市川市菅野の一部住宅地では隣近所との家の垣根がなく、どこの家の庭も自由に素通り出来た。これは戦時中空襲時に垣根があると直ぐに逃げられず危険だということで取り払われたという。そのためクーラーなどない時代夏場は暑いので風通し良く、どこの家もガラス戸や玄関を開けっ放していた・・・。そこで隣近所の子供が断りもなくズカズカ家に上がりこんでくる。でもお互いさまなので別に注意をされることもなかった。私も同世代の女の子のいる左隣の家には私もよくおじゃました。そして昼食時などには、ちゃぶ台を囲んだ隣の料理メニューを観察するのだ!

最近テレビ番組では「お宅の昼食見せてください!」という番組が頻繁に放映されているが、こんなの私は幼児の頃からやっていた。隣の家では父親と母子達ののオカズが違う。(我が家では父親だけ別のオカズということはなかったが)おじさんだけが黄色い眼のデカイ赤い煮魚を食べている。始めて見るその異様な魚の目にびっくりだ!そして魚の身をを全部食べ終わると、次に残った骨を丼に移し、お湯をかけおじさんがそれを旨そうに啜る。「なんであんなことするんだろう気持ち悪い!」と思いさっそく家に帰り母親にそれを報告する。

母親は「へー、骨にお湯をかけて飲むの?それは多分キンメダイという魚の煮つけで油こく、お父さんが嫌いだから家では食べないの!」との返答だった。「そうなのか?キンメダイだから眼がデカイのか・・・?」そしてまたある時は赤く染まった大粒の魚卵がたくさんくっ付いた変な物を食べている。これもなんだか分からないので母親に聞いた。「それは多分スジコよ?」そして(鯨のベーコン、切りイカ、ピンク色のデンブ)と続く。我が家では父親が洋食や中華好きなので、煮魚などは唯一父親が好きだった「鯖の味噌煮」以外はほとんど作らない。それで北海道出身だった隣家の昼食拝見は各家の食文化の違いが垣間見られて、非常に参考になったのだ。今では高級魚のキンメダイもそのころは人気もなく大衆魚であったとか。

戦後は鮭や鰊もたくさん取れてスジコやタラコも安かった。ところがソビエトがオホーツクで操業する日本漁船を締め出すと、魚卵の価格は急騰する。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

タニシ

「うひょー、タニシがたくさんいる!」むかし子供の頃、田んぼの水を覗くとタニシがたくさんいた。でもあのタニシ今でも田んぼにいるのか?最近では田んぼをまじまじ見る機会もないので全く分からない。水苔の付着した汚いタニシが食用になるという話を聞いたことがある。以前私が尊敬する北大路魯山人は子供の頃、生活が非常に貧しく食べるものがないので、田んぼで簡単に取れるタニシを捕食してたという。その結果ジストマ肝吸虫に犯され、晩年肝硬変で死亡したと聞く。彼のタニシに対するこだわりは非常に強い!美食倶楽部の星が丘茶寮を開設した時にも、一流の食通を相手にタニシの料理を提供した。「いくらなんでもタニシかよ!」一部の客はこの食材に腹を立てたとか?

裸足でかまわず沼や田んぼに侵入していくと、稀にチスイヒルに足から血を吸われることがあった。でも痛くも痒くもないのに皮膚から血が流れ出て気づいた・・・。ところでこのヒルだが父親の話によると、昔は肩こりの治療に使われていたという。私は祖母を直接知らないが、祖母は体が大きく体重が20貫(80キロ)程もあったと聞く。そして祖母はそのとうじ肩こりがひどくなると、近所にいた今で言う整体士を呼んだが、この整体士の治療法が真に変わっていた。なんと肩こりのする部分にヒルを置き血をすわせるのだという。そして血を吸ったヒルは丸くなって肩から自然にポロッと落ちる。よどんだ血を抜くと肩は軽くなると言っていたとか。こんな不思議な治療法も昔はあったようだ。

子供の頃は自然ともっと隣りあわせで生活していので、身近な動植物を上手く利用していた。たとえば蜂にも頻繁に刺される。すると痛みをこらえながら直ぐに朝顔の葉を捜す。そして引きちぎった葉を手でもみ、出てきた汁を患部に塗ると痛みがじきにおさまる・・・。でもこんな知恵今の子供にはない。だいたい外で遊ばないので蜂に刺された経験もないのでは?良いのか悪いのかよくわからない。昔は遊んでいて打撲をしてもつける薬もないので「ちちん、ぷいぷい!痛いの痛いのとんで行けー!」などとおまじないを言ってごまかすだけで、暫くすると痛みも忘れてまた遊びだし、よほどのことがないと医者などに行かなかった。

工房近くの手打ち蕎麦屋には(春華、秋実)という魯山人の書いた額が、店の和室のカモイの上に掲げられている。「なるほどねー!」いかにも食にこだわった魯山人らしい言葉だ・・・。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

豚肉のソテー

「はっと気がついて目が覚めた、やばい誰もいない!」集合場所のソファーに腰掛け出発時間を待っていたら、うたた寝をしたらしい。「置いていかれたら大変だ日本に帰れない」大慌てで玄関に行ったが人影はない。でも出発の前には確かランチだったよなあ?と急いでレストランに駆け下りた。すると皆さんはすでにランチを食べ終わり「あれ、どうしたの!」という顔で私を見ている。「何で起こしてくれなかったのよう」という叱責の念!でも遅れてランチを食べるにも満席で自分の座る場所がない。立ってこちらを見ているイタリア人風のウエイターに声をかけるも言葉が通じない。「いったいここはどこなんだ!」と思ったところで目が覚めた。

「なあんだ、夢か!」昨夜寝るときに消し忘れたケーブルテレビが英語放送になっていて、潜在意識の中に入り込んできたらしい・・・?でもこの様な事が本当に起きる事もあるのだ。40年も前イタリアのミラノで、何人かと研修旅行で来ていた知り合いの山本さんを、空港まで送りに行った時のこと。彼がチェックインカウンターに並ぶと、「あれ、パスポートがない」と急に言い出し血相を変えて捜し始めたが、何処を捜しても見当たらない。「そうか、ホテルを出る前に確認したまま、テーブルの上に置いてきたらしい」と言い出した。「えー!」連れの皆さんも騒然としたが、ツアーなのでその飛行機に乗れなければ個人で帰る飛行機代は自腹だ。でもまだ2時間ある。一か八か取りに戻るしかない。

急いで山本さんと空港の出口でタクシーに飛び乗り、運転手に事情を説明して出来る限りスピードで、ホテルまで戻った。いそいでフロントでキーを借り部屋に入ると、まだパスポートがテーブルの上に残っていた。「あったよ!」でもこれで終わりじゃない。直ぐに階段を駆け下り待たせていたタクシーに再度飛び乗ると、また一目散に空港に向かった。そしてどうにか40分前に空港に到着したのだ。山本さんは終始顔面蒼白で登場手続きが済むと、やっと安堵の顔で礼を言い私に手を振りながら出国ロビーへと消えていった。ごじつ日本に帰って展示会で彼にバッタリ合うと、「あの時は本当に助かったよ」と再度礼を言われた。

今日は夢の中のランチだが。確か写真のような皿に赤いニンジン、緑のサヤインゲン、それに牛肉のソテーだったような気がした。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

サーキット

むかし船橋海岸近くには、演芸ホール、プール、温泉、遊覧飛行場、宿泊施設などが完備した今でいう複合リゾート施設の「船橋ヘルスセンター」があった。ここのプールには夏になるとよく通ったが、高校生のとき経営難で突然封鎖された。するとこの跡地は時代に先駆けてすでに欧米では人気のあった、サーキット場に建てかえられた。ただこの船橋サーキットの敷地は狭くコースの距離が一周がたった3キロくらいしかない。それでも休日には自動車レースが開かれて、車の好きの私はよく見に出かけた。爆音を響かせて失踪するレースカーを見ていると胸がわくわく、それは日本の経済成長とモータリゼーションの本格的な幕開けを、感じさせる実感がビリビリ伝わってきた。

「また、イギリス車のミニクーパーに負けたか!」でもニッサンブルーバード、トヨタコロナなどの国産車はまだ性能が悪く、あの小さいミニクーパーに全く勝てなかった。日本車はサスペンションが甘く、ヘアピンカーブが上手く回れない。そのころ自動車の対米輸出も模索していたが、アメリカの高速道路ではすぐに故障した。今では考えられないが、しょせん日本車など安かろう悪かろうのイメージしかなかった。でもホンダが自動車生産を開始しS600などスポーツカーを作り始めると、モータリゼーションを盛り上げるために、本田社長が鈴鹿に本格的なサーキット場を開発する。するとメインサーキットは鈴鹿に移り、船橋は2年で閉鎖されることになる。

このとき市川市国府台の奥にある式場病院の息子壮吉さんが、鈴鹿サーキットで開かれた第一回日本グランプリで、ニッサンGTRとデッドヒートの末、ポルシェカレラのレース車に乗り優勝した。「本当かよ!」暫くするとこの病院の近くに住む友達が、壮吉さんのおじさんの知り合いで、なんとあこがれのポルシェ・カレラを見せてもらえる約束を、取り付けてきたのだ。さっそく次の日曜日に病院に数人で駆けつけた。そのおじさんの案内で広い院内の坂道を少し登ると白い車庫がポツリとあった。そして車庫の扉を開けると、「ありましたよ!あのペッタンコな白いポルシェ・カレラが」そしてカレラのエンジンをかけ、おじさんが車庫から車を引き出してきた。「すげー!」あたりに轟音が響き、もう声も聞こえない。

当時男の子は皆レーサーに憧れていた。船橋サーキット跡地は今(ららぽーと)になっている。車に対する価値観も変わり、電気自動車は音も静かで逆に危険だという。時の流れは早い、春に植えた実生の山椒がもう色づいた。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

チキンカツサンド

先日セブンイレブンのチキンカツサンドを食べていると、もう43年ほど前になるあることを思い出した。当時はまだ日本ではスーパーマーケットが全盛の頃で、コンビニなどまだない。たまたま雑誌「商業会」のセミナーに参加した私は、その時一人の講師の先生と知り合いになる。そして後日、その先生の企画するセブンイレブンなど、アメリカの商業施設を視察するツアーに参加することになった・・・。羽田から飛行機に乗りロスアンゼルス空港に午後3時頃に着くと、当日は時差の関係でホテルに直行し休息をとるスケジュールだった。でも若かった私は夕食にはまだ早いので、何でも見てやろうと近くのダウンタウンへと一人で散策に出かけたのだ。

そしてその帰り道「ちょっと一緒に歩いて!」突然白人のおばさんが、私の所へ駆け寄ってきてぴたりと寄り添う。「ど、どうしたんだ?」あっけにとられていると背の高い黒人2人が後ろからつけて来る。見ると顔つきはまだ子供で中学生位だろうか?なのに恐ろしく背が高い!でもちょうどその頃ブルースリーの映画が全盛期で、東洋人は小さくても空手が強いというイメージがあった。彼らを睨み返し、無視して歩くとあきらめたのか立ち去っていった。ワンブロックほど一緒に歩くと、おばさんは後ろを振り向き安堵の溜息をついた。そして礼を言い離れて行ったが、「アメリカはやばい、危うくトラブルに巻き込まれるとこだった!」

翌日は大型モールを視察の後、いよいよ日本にも導入されると噂のあった、セブンイレブンの店舗をバスで訪れた。始めて見るアメリカのコンビニは精彩がなく、繁盛している様子も無かった。「こんな店、日本で流行るのか?」これが始めて見るコンビニの印象であった。そのさえなかったアメリカのセブンイレブンはその後、倒産寸前のところをイトーヨーカ堂に買収されその傘下となる。そしてコンビニは日本で独自の進化をとげ今日の隆盛をみた。セブンイレブンから始まった数社の激しいシェア争いはオニギリや惣菜など、お互いに切磋琢磨!日本全国津々浦々までコンビニは広まった。しかしこのコンビニもそろそろ飽和状態で売り上げも限界にきている。

物流の形態は常に変化し、アマゾンなどネットでの買い物も拡大中!そしていつかコンビニも衰退していくのか?

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

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