梅干
梅の木は日本全国どこにでもあるので梅干の産地は点在するが、あえて言えば和歌山であろう。ここの梅は南高梅といい粒が大きく皮が柔らかいので、梅干には確かに最適だ。我が家でも妻が梅干が好きで、千里庵というメーカーから直接取り寄せているが、私は血圧が高いので、甘塩といえど余り食べないようにしている。
ところで塩分と血圧の直接の因果関係は本当にあるのか?先日週刊誌を見ていたら、高血圧を引き起こす主な原因は塩でなく、脂肪であるということが分かってきたと特集されていた。
高血圧症と診断されている私は月に一度、町医者に薬をもらいに10年程かよい続ている。待合室で見ていると高血圧症の人は非常に多い。上が140以上の人は一様に高血圧と診断され薬を処方されるが、人により違うのではないか?いつも疑問を持っている。でも「脳梗塞や心筋梗塞になるよ」と言われれば怖くて飲まざるえない。
高血圧薬の市場は非常に大きく製薬会社のドル箱ときく。また町医者に通う成人の3割は高血圧症の人だ。この状態は日本だけでなく、先進国ではみな同じ。一部では製薬会社と医師会が結託して高血圧症とう病気を、捏造しついるという報道もある。真意の程は分からないが、医者の指示に素直にしたがい、自覚症状のないまま薬を飲み続ける人々を裏切らないでほしい。
写真は梅干入れとして、最近作ったものです。
本屋
本屋
皆さんは浅草浅草寺の雷門を通り過ぎ仲見世を直進し法蔵門の右手前、人形焼木村屋の隣に小さな江戸趣味小玩具「助六」という店をご存知ですか?ここは江戸末期から続く玩具屋で、江戸時代の小さい店頭模型などをあつかう店である。目立たないので注意して見てないと、すぐ通り過ぎてしまう。
その店で私の父が90年位前に、買い求めたのがこの本屋の模型だ。前に楊枝が置いてあるのでその大きさが分かると思うが、かなり小さい。店頭には役者絵や草子などがならび、当時の面影を映している貴重なものだ。今も時々この店を覗くが、このように手の込んだ物は見うけない。小さいので画面を拡大してじっくり見て欲しい。
ところで最近の本屋の変化には驚く。以前は長く立ち読みしていると、いやな顔されたものだ。ところが今は椅子まで置かれ、どうぞごゆっくりと。なかにはカフェまで併設され、お茶でも呑みながら読んでくださいと。でももし汚したらどうするのか?いらぬ心配をする。
本屋は基本委託商売なので、売れなければ返品すればよい。でも汚れた本まで返品されたら出版社もたまったものではない。読書が好きで本屋にはよく通うが、町の本屋がどんどん消えていくのは寂しい。
アマゾンの出現で本はネットで買うようになった。即日配達まで登場し、宅配業者を悩ませ問題になっている。時代の変化はどんどん早くなり、明日のことは分からない。技術革新も良いが時代についていくのも大変だ。
本は店頭で探し、いろいろ比較しながら購入する楽しみもある。でもその前に本などの紙媒体が無くなる可能性もあるか?
紙入
紙入
紙入れとは、紙幣を入れる財布ことです。これは敗戦後の混乱期に和服の需要が無く、仕事が出来ない時に、アメリカ軍人のおみやげとして、日本橋三越の依頼を受けて、父が製作したものです。
我が家は三代続く、屋号を(縫岩)という江戸刺繍を家業にする家柄。その二代目の祖父が岩次郎という名で、縫い屋の岩さんと呼ばれていた。明治時代に日本橋三越専属の職先になる時、屋号が必要ということで、その名をとり縫岩と名づけたと聞く。戦前は三越の呉服のオーダーメードを、一手に引き受けていたので、大そう羽振りが良かったそうだ。
三代目であった父は家業を継ぐために、5歳の時から森青山という日本画家に絵を習っていた。絵が好きなので一時は、日本画家を目指したが、東京美術学校に入る前年、祖父が急死したので、やむなく15歳で家業を継いで、親方になった。
それでも芸術の道をあきらめきれなかった父は、家業を続けながら、日本刺繍で作品を作り、工芸の部門で帝展、今の日展の作家になって行く。同期に同じ三越の職先の息子で、日本刺繍で日展の審査員になった、平野利太郎さんがいる。しかし父は日展の会員になる直前の50歳のときに肺結核を患い、作家の道をあきらめた。なんだかついてない。この父を私は敬意をこめて、不出世の天才と呼んでいる。
このブログでも今後、父の作品もあわせて紹介していくので、皆さんも期待していてください。なにしろ素晴らしいです。
戦争に負けて全てを失った日本は、一時こんな物しか、輸出する物がなかったのです。
鴨
鴨
アヒルは野生の真鴨を、家禽にしたものなので、今日はちょっとアヒルの話をする。かって仕事で、たびたび台湾を訪れたことがあった。仕事の後は、必ず高級中国料理店での夕食の接待を受けるのだが、あちらの乾杯が大変。円卓を囲んで十人程が着席していると、「冨岡さん。乾杯」あちらの発音ではカンペイというが、いろいろな人から乾杯の指名をうける。
そのつど指名を受けた人に顔をむけ会釈をし、両手で持った紹興酒のグラスを上げて杯を見せあい、いっきに呑み。グラスを空にしなければならない。台湾人の言う乾杯は読んでのとうり、杯を空にするという意味。空にしないと失礼に当たる。「俺の酒が飲めねえのか」とね。また指名を受けた人には、こちらからも指名をしないと、これまた失礼。そんなことで、いちいちまともに乾杯の指名を受けていたら、酒の弱くない私でも大変なことになる。でもこれは以前の話で、現在もそうなのかは定かではない。
このような中国料理の宴会に必ず登場するのが、北京ダックだ。丸ごと一羽の北京ダックを料理人が運んで来て、皆の前で手馴れた手つきで、その皮を削いでいく。それを各自に取り分け、薄餅にネギと一緒に包んで食べるのだが、確かに美味である。
そしてきれいに、皮を剥ぎ取ると身の部分は必ず下げていく。なんで身は食べないいの?俺、身の部分も食べてみたいんだけど、美味そうじゃん。この後いつも疑問が残る。北京ダックの、あの身は一体どうなるのか?まさかそのまま捨てるのではなかろう。まかないで使うのか?他の料理に使うのか?でも、中華料理でアヒルの肉の料理など聞いた事がない。よっぽどまずいのか、うまいのか?日本の中華料理店でも同じ。
合鴨はときどき食べるが、けっこう美味い。いちど北京ダックの身の部分を食べてみたい。ぜったいに美味いはずだ。
ヴィトン
ヴィトン
1970年代の初めの頃だったと思う。友人の奥さんに自慢げに見せられたバックがある。ナイロンレザーの茶色地で日本の家紋のような模様が印刷されている、例のあれである。最初に見た時「何でそんなにこれが良いのか?」全く分からなかった。
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しかし70年代も後半になると、徐々に街中でヴィトンを持つ人を見かけるようになる。そしてこのころヨーロッパ出張に行くと必ず「ヴィトンを買ってきてね」と頼まれるようになったが、当時パリのヴィトンの店に入るとそれでもまだ日本人の姿は少なかった。それが80年代になり欧州旅行が盛んになるとパリ土産の定番となる。しだいに店は日本人で混雑するようになり、一人でいくつも爆買いするるので日本に来る中国人のように、しだいに迷惑がられるようになった。
それで「そんなに売れるなら日本に出店してみたら」ということで、一流百貨店の中にテナントで店を出す。そして80年代後半のバブル期、ヴィトンをはじめ海外ブランドバックは全盛期になっていくが、バブルもはじけ長い景気後退期になると、徐々にヴィトンのバックを持つ女性を前ほど見かけなくなった。あきられたのか?高いから買わなくなったのか?このようにヴィトンのバックは一世代前にはパリみやげの代表でもあった。
最近、ヨーロッパ旅行に行っても自慢げに話題にすることもなくなった。それより「どこか良い温泉ない?」日本人の内向き指向も気になる。
写真のハンドバックは、陶器で作った花瓶です。