
ロックアイス

器を作ってみませんか
もう三十年も前、日本がまだバブル前の全盛期の頃、活況に沸いていた日本はアメリカと貿易戦争を繰り広げていた。「日本アズナンバーワン」などという本も出版され、東証の株式時価総額がニューヨークのそれより遥かに上回っていたこともあった。株や土地、ゴルフ場などの価格が高騰し、含み益を抱えた個人は海外ブランド品などの高価な買い物に走った。そしてこの頃に読んだ本で、著者名は忘れたが、世界の覇権はじきに繁栄の日本から西へ移動し中国へと向かう。歴史的に見ると繁栄国は反時計回りに回っている。中国、インドから始まったその流れはローマ帝国、スペイン、イギリス、アメリカ、日本と巡り再び中国へと回帰して行のが自然!との記述があった。
今日その予言どおりネットやハイテク技術の開発競争に中国が参戦。猛烈なスピードでアメリカを超えようとしている。足元をすくわれ始めたアメリカトランプ政権が関税障壁で貿易戦争を仕掛けるも、人口に勝る中国に軍配が上がるのが歴史の必然なのかも?という思いが強い。そしてまた4半世紀も経てば、人口が爆発的に増えているインドが、やがて中国を追い越す日が来るのかもしれない。いずれにしてもいよいよアジアの世紀が始まる。しかし習近平の共産党独裁体制の中国が世界の覇権を握ると、国防や貿易で無理難題を突きつけられないか?非常に心配だ。日本独自では何も決められない、なんてことになった情けない・・・。それにしても少子化で国力の落ちてきた日本は最近、いよいよ移民を受け入れる体制を整え始めた。
昨今介護士のなり手も少なく人手が足りないという。これから高齢化社会を迎え気になる。でも我々が死ぬ頃には介護はロボットが登場するだろう?確かに人は死ぬ時は通常は誰かの手が必要だ・・・。「アイちゃん、オシメかえて!」「はーい」と二つ返事でオシメをかえてくれるロボットのアイちゃん。もう私はこの子に3年も世話になっている!「少ない遺産だけどお前に残すから、それで新しい部品を買いなさい。」「ありがとう」とアイちゃんはニコヤカにうなずいた。税収が少なくなる将来、ロボットからも所得税を徴収することになるだろう。すると当然ロボットも遺産相続などできないと取るばかりでは不公平だ。
「近未来は明るいのか?」ふと立ち止まり考える・・・。「まあどうでもいいか?」先日ウイスキーのロック用に丸い氷が作れる容器を頂いた。確かに写真のコップでのむロックは旨い気がする(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・富岡伸一)
私はコーヒーや紅茶には通常、砂糖は入れない。別にダイエットを気にしているわけでもないが、年齢と共に嗜好が変わってきた。日本人全体の好みも同様で、チョコレートやケーキなども以前ほど甘くない。たまに外国産のクッキーなどをお土産で貰うとすごく甘く感じる。それと近ごろ軒数が減ったが個人経営の喫茶店にはいり、時間つぶしにコーヒーなどを頼むと、知らぬ間にコーヒーに入れるスティック砂糖もずいぶんスリムになっている。以前はもっと太っていて、いつも半分しか使わないで切り口を折り残しておいた。自販機で買う飲料も、砂糖の入った甘いものより無糖のお茶の方が人気があるようだ。
戦後暫く私が幼児の頃、日本には外貨が無く台湾も日本から独立したので、砂糖は貴重品であった。そのため代用として合成甘味料のサッカリンが使われた事もあり、これで作られた食品はどれも甘みはあるが不味かった。甘さが何か不自然で、苦味も少し舌に残る。当時サッカリンは小さな試験管のような透明なガラス管に入っていた。白いその結晶は同じグラム数で砂糖の500倍の甘さを持つという。我が家でも母親が試しに使ってみたが、あまりに不味いのですぐにやめた。(最近合成甘味料はダイエットコーラなど飲料水にも使われているようだが、ステビヤやサッカリンはカロリーが全くないらしい)それに当時家庭で使う砂糖はだいたい茶色の三温糖で、白砂糖は高級品なのでわが家ではあまり使わなかった。
「伸ちゃん、ちょっと待ってな」と戻ろうとする私をおばさんが笑顔で呼び止める。そのころ母親に頼まれ自宅前の家に回覧板などを届けることが度々あった。おばさんは奥の台所に消え、ゴソゴソと何かを取り出しちり紙で丸めて「これでも舐めて帰りな」と手渡してくれた。開くとなんとそれは白砂糖だった!前の家も子供が多く飴等も常備してない。飴の代わりにお駄賃が砂糖のこともあった。とりあえず甘いものに飢えていた時代、それが砂糖でも嬉しかった。喜んでおばさんに礼を言い、家に戻り母親に告げると、母親もニコニコ「そうか、この手があったのか!」と言いたげだった。そのくらい砂糖は貴重で子供達は飴玉一つで泣きやんだ。
私はチョコレートが好きだ。子供の頃はめったにお目にかからなかったので、今もチョコレートを見るとつい手が出る!たまに孫が来宅するがテーブルの籠に入るチョコレートなどには見向きもしない。
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
最近ではスーパーマーケットもコンビニに押され余り精彩が無い。そこで一度スーパーマーケットが日本にアメリカから導入された当時を振り返ってみよう。スパーマーケットという小売店の業態が新しく登場したのが、1956年というので私が小学生の頃である。それまで食材は酒屋、米屋、肉屋、魚屋、乾物屋などの専門店として細分化されていて、夕食の買い物には数軒の店に立ち寄る必要があったのだ。そのため主婦は離れた場所にある専門店を巡り時間がかかる。自転車は今ほど普及しておらず、それに自転車に乗る女性は稀だった。もちろん私の母親も自転車には乗れなかった。でもスーパーではそれらの買い物が一箇所で済んだために、瞬く間に全国に広まっていった。
「商品を自由に籠に入れて買い物できると、万引きされないか心配だよね!」最初スーパーができたころ、こんな話も家族の間で話題になっていたが、たいしたトラブルも無くこの制度は日本に根付いていった。すると時の経過と共にドラえもんでお馴染みのジャイアンの八百屋、サザエさんの酒屋三河屋、などの個人商店が徐々に店仕舞いするところが増えていった。ところが拡大を続けたそのスーパーも、ダイエーが福岡ドーム球場を作った1993年頃にはすでに下り坂で、代わりに登場したコンビニにシェアーを奪われる。ところがいま絶頂期にあるコンビニも出店競争により飽和状態で、新しく急拡大しているアマゾンなどの宅配サービスに押され、安穏とはしていられない。
今世界では、アマゾンやアリババなど巨大化したプラットホームによる既存の商品流通チャネルの侵食が問題となっている。「こんなことでは後十年もしたら、うちの商売立ち行かなくなる」と心配する人も多い。確かに直接自宅に食材などの商品を届けてくれるシステムは高齢者にとってもありがたい。でも買い物にも行かなくなると運動不足や近隣とのコミュニケーションもなくなる。昔は主婦が一旦買い物に出ると中々帰宅しない。途中で出会った顔見知りと長なが立場話を始める、買い物籠を手にした主婦の塊をあちこちで見かけた。「早く帰ろうよ!」連れの子供が袖を引くと「あなた先に帰っていなさい」と無視する。「腹減った、早くかえって飯作れ」との思い。でも私の母親は「江戸っ子」長話はしませんでした。
最近コンビニのタマゴサンドはよく食べる。でも昔のサンドイッチは食パンのミミは切らずに付いていたと記憶する。何時頃から耳を切って販売するようになったのかは定かではない。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
「やだーこれ牛肉?気持ちが悪いから早く捨ててらっしゃい!」これは父親に聞いた話だが、明治末期に私の父は両親、兄弟、祖母の8人で浅草寺雷門前のしもた屋で暮らしていたという。その浅草では当時牛鍋を食べることが庶民の間でも流行り始めていて、時々出入り職人から牛肉の差し入れがあったという。しかし祖母は安政の生まれだ。四足など牛肉は人間の食べ物ではないと思ってる。「ありがとう御座います」と笑顔でその土産を受け取るが、客が帰ると母親を呼びつけ直ぐに処分するよう命じたという。しかしもったいないと感じた母親は捨てたふりをし、密かに醤油と砂糖で煮付けた牛肉を甕に入れ床下に隠したという。
「竹ちゃん、ちょとおいで!」小声で母親から手招きされる。「なんだろう?」といぶかしげに台所に入っていくと、「おばあちゃんには絶対に言っちゃだめだよ!」とくぎを刺された。すると母親は床下貯蔵庫の板をはずし、隠していた甕をゆっくり取り出したという。そして「ほーら、手を出してごらん」と牛肉一切れが手のひらに乗せた。促されるままに恐る恐る口に運ぶと、「がーん、何だこれ!」芳醇なその香りと味に仰天だ。「これが牛肉か?」初めての牛肉の味にとりこになり、それは一生忘れられない瞬間となったという。それいらい父親は牛鍋の虜になり、老齢までつづくのである。
牛鍋好きの父親はわが家でも良くすき焼きをした。すると鍋奉行はいつも食通だった父親の仕事だ!醤油と砂糖の分量などにも何かとうるさい。牛肉はわざわざ浅草まで誰かが買いに出向き、チンヤやマツキの牛肉専門店でないと気に入らなかった。私も浅草に仕事場があり通勤していたので、たのまれてマツキで牛肉の買って帰ったこともある。当時でも地元の肉屋では旨い牛肉がないと父親は言っていたが、その地元肉屋も今ではほとんどが店を閉じ、最近ではスーパーの肉売り場でのラベル表示の判断や見た目で牛肉を買う!現在全ての分野で専門店が消えて行き、人々のこだわりも希薄になる。「適当でいいや」とあまりコダワリもなくなり食文化の平準化が進すむと、日本人の味覚も退化する!
新年の豊洲の初せりでは、大間産の巨大なマグロに3億3千万の値段が付き話題となった。でもこの光景が海外のテレビでもニュースとして放映されていたので、確かに宣伝費とみれば安いのかもしれない!
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
「ぷーんと香りが漂う!」授業も4時間目になると腹が減る。私がまだ小学校にかよっていた当時、寒い冬には教室の暖房は鉄の鋳物のダルマストーブが使われていた。今では全く見ないダルマストーブとは、その名のとうり丸い形をした石炭やコークスをくべる旧式のストーブだ。子供が近寄ると危険なので回りには金網の張られたフェンスが置かれていた。そしてこのフェンスにはお弁当を温める棚がついていて、希望者は弁当をそこに乗せ暖めることができた。しかし昼が近づくと温まった弁当から臭いが漂ってくる。私の嫌いだったタクワンや魚の臭いもして、なんとく弁当の中身が想像できた。でも腹も減ってきて正午のベルが待ちどうしく、気も散って授業などは聞いていなかった。
そして当時弁当の定番はやはり海苔弁だ!弁当のご飯の上に醤油をつけた海苔がベッタリと乗っかる。でもこの海苔弁には欠点がある。逆さまになると蓋のほうに海苔が付いてしまい剥がすのに往生した。そのために二段に飯をつめ真ん中に海苔を挟むなど、いろいろ各自が工夫をしていた。いずれにしても今の子の綺麗で可愛いキャラ弁当などはない。ご飯の上に鮭の切り身や鰺の干物がベッタリと載ってたり、美的センスのないユニークな弁当も多かった。私も小学生の低学年の頃は、ドカベン型の小さな金色のアルマイトの弁当箱であったが、高学年にもなると新しい弁当箱も登場する。ブック弁当という名の弁当箱は本のように幅広で薄め!おかずとご飯の間に仕切りもあってカッコイイので、あっという間にクラスに広まった。
われわれが小学校卒業間際になると急激に世の中が変わり始める。都内に遅れて八幡小でもやっと完全給食となり、お弁当を持参せずによくなった。このとき初めてのメニューをなんとなく憶えている。確か?丸いパンが2個、鯨肉の竜田揚げ、炒めた野菜、みかん一個に、八千代牛乳一本。「へー、脱脂粉乳でなく、給食に牛乳一本つくのか!」これには驚いた。テレビや電気冷蔵庫、洗濯機なども各家庭に普及し始め、日本もだんだん豊かになってきらしい。これでやっとあの脱脂粉乳から開放されるのか?どの顔も笑顔だった。そして校庭の隅にはプールの工事も始まり横目で見ながら帰宅するも、完成は卒業の翌年であった。
たまにテレビなどで今の小学校の給食をみると豪華なので驚く!今日本の給食は栄養バランスなどもよく考えられており、海外でも非常に注目されているという。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)