[冨ちゃん、向島に面白い蕎麦屋があるから行って見ようよ」まだ私が二十歳代の中ごろ浅草の大手靴問屋の婦人靴デザイナーだった私に、出入り業者の営業の友人が昼食に誘ってくれたことがあった。さっそく彼の車に乗りこむと、渋滞を避けながら裏道をぬけ言問橋を渡り、その先の水戸街道を横切った。それから少し進むと左側の路地の入り口にその蕎麦屋があった。名前は忘れたがあまり明るくない店内に入ると、中央にコノ字型に大きなカウンターがあり、椅子が並べられている。まだ時間が早いのか空席が目立った。促されるままに着席すると、「あれー、何ですかこれは!」目の前には黒い僕石で装飾された、渓谷に似せた小川が流れている。
「面白いから見てなよ!」と彼が言う。暫く待つこと15分、目の前にある小さなランプが点灯した。すると右手から注文したザル蕎麦がイカダに乗って、ドンブラコ、ドンブリコとあちこちにブツカリながらも、優雅にプカプカゆっくりと流れてくる。「へー、誰が考えたのですかねえ!驚きのこのシステム」やっと目の前にイカダが流れてきたので、蕎麦をお盆ごと受けとった。蕎麦の味はまったく覚えてないが、この店の造作はとてもユニークで個性的であった。でもこのアイデアそのご小川が回転するベルトに代わると、寿司業界を根底から変える事になった回転寿司のシステムへと大きく変貌することになる。
そのころはまだ回転寿司屋は東京には一軒もなかった。でも最初に大阪で回転寿司を始めた元禄寿司の歴史は意外に古く、回転寿司屋を始めたのが昭和33年とある。創業者がビール工場を見学した時に回転寿司のアイデアを思いついたという。それから暫くすると回転寿司の元祖元禄寿司の店が東京の街のあちこちでも見られるようになる。コンベアに乗った目の前を通る寿司の目新しさと、子連れで入れる気安さや明朗会計でたちまち東京でも人気が出て、出店が全国に加速していった。その後、回転寿司のシステムの特許が切れたのか?多くの業者が参入し、巨大な市場となって現代に至っている。
日本の子供達の味覚や嗜好が洋食に傾斜していった時代、代表的な日本食である寿司の旨さを子供に伝えてきた、回転寿司の功績は非常に大きいと言えるのではないか。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)