読書

実りの秋と同時に「読書の秋」という季節になってきた。でもこの言葉最近ではピンと来ない。私は読書が好きで本は良く読んでいた。しかし60才も過ぎ老眼が進んでくると、徐々に本が読めなくなる。眼鏡をかけて読む読書はめんどうで根気もなく2,3ページも読み進むと直ぐに集中力が萎えてあくびが出る。そしてついウトウトと・・・。歳を重ねると本は一年で数冊しか読まなくなり、三誌取っていた新聞も今では読売新聞だけになる。それも目を通す程度に変わった。そして気づいてみたらデジタル社会に突入し、紙の文化は瀕死の状態で通勤電車の中でもほとんどの人が、スマホやタブレットで情報を取っている。

「ええ、日本文学の箱本がたったの100円か!」いつも通る京成八幡の踏み切りの前の古本屋の店頭には、立派な箱本の文学書が安価で並ぶ。でも時代遅れの日本文学などを読む人も、ほとんどいないと見えてゴミ同然の扱いだ。我々の青春時代は近代日本文学書なども皆さん読んでいて、喫茶店や居酒屋で同年代の女性とも読後感などを語り合ったが、このような若者は今ほとんどいないとみえる?最近どこの大学でも文学部など、仕事に直接関係しない学部は人気がない。半世紀前は女子が大学に行く主な目的は、就職ではなく茶道や華道などの習い事と同様に、花嫁道具一部という認識が一般的であった。「女に学歴などつけると生意気になり、逆に縁遠くなる」などと言っていた。

「本代ならいくらでも出してやる?」という父親の景気の良いこの一言で、高校2年生のとき急に私は読書に目覚める。家業を継ぐ前提に育てられた私は、それまで勉強嫌いでろくに本も読まなかった。しかし家業に陰りが見え始めると、後を継ぐ事を父親は心配し始めた。「大学に行って商社か証券会社に勤めろ!」とある日突然父親からの提案があった。そして「何でも良いからまずお前は本を読みなさい」と静かに続けた。「そうか!」方針が決まると私はやることが早い。次の日からとりあえずわが家にあった小説を読み始める。一日に1冊のペースで本を読んでいくと、じきにわが家の本のストックは切れあとは本屋通いになった。約束どおり父親は本代は二つ返事で出してくれたので、本を買い読みまくった。

そしてそれからの5年間の読書が自分自身の思考の基盤となっていったが、あの青春時代にはもう二度と戻りたくない。でも悶々と思考を巡らす青春を送ったおかげで、そのあと「人生一生青春」という意識を獲得できた。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

ポテトチップス

我々が小学校低学年以前はテレビもまだ無かったので、映像といえばたまに見る映画だけであった。本八幡駅まえロータリーの脇には邦画と洋画の映画館が二軒あり、いつも客で混んでいた。一番後ろの席に着くと休憩時間には映写室を放映口から覗くことができ、フィルムを撒いたロールをセットする状況などがつぶさに確認できるた。この頃学生のアルバイトではフィルム運びという仕事があり、楽なの人気があった。当時の映画はだいたい3本立て、近隣駅の別の映画館との間で放映時間をずらしフィルムを順番に交換していくと、ワンセットのフィルムを二箇所で共有できるので効率的だった。放映が終わると直ちにそのフィルムを他方の映画館に届け、放映終了のフィルムを持ち帰る。これを一日で何度か繰り返すわけだ。

テレビ放送が始まり小さな白黒テレビが普及し始めると、映画の人気は徐々に衰える。その後テレビはブラウン管のカラーテレビから大画面の液晶テレビに変わり、こんどは4K、8Kテレビだという。その都度映像の臨場感は増して行き、自宅にいながら世界中何処にでも瞬時に飛んでいけるようになった。すると大画面にかじりついて見ていれば、自宅から出かけないですむ。世の中の全ての出来事が居ながらにして体験できるようになり、何も苦労して危ない所へ行く必要も無い!カメラを持って誰かが代表で出かければ、あとはの人はポテトチップを食べながら、ソファーに寝転がってテレビを見ていればすむ。このスタイルをカウチポテトといい、アメリカ中産階級の休日の過ごし方としてスタンダードになって来ているという。

「わたし先日ニューヨークに行ってきたの!」と誰かが言ったとしても、行ったことのない私でも映像をたくさん見ているのでセントラルパーク、五番街など有名どころはほとんどの風景は知っている。「ああそうですか?」と特別事件でもなければ会話が弾むわけでもない・・・。でも私が小学3年生のときにクラスメートに田島研二という名の男の子がいた。彼はある日突然お父さんの仕事の都合でニューヨークに越して行った。昭和30年前後の話だ!いったい彼のお父さんの仕事とは何だったのか?今考えてみると不思議だが、1年後に彼はまたクラスにもどってきた。すると担任の先生が「皆さん、身近な物の名を田島くんに英語で教えてもらいましょう」との提案があった。私は鉛筆って何というのか?尋ねてみた記憶がある。

まだ家庭にテレビもない時代である。ニューヨークといえば入浴?どこの銭湯の話だという程度であった。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

飲料水

以前駅のホームには必ずあった、水飲み場というのが最近ほとんど見当たらない。上に向けられた蛇口をひねると、突然水が勢いよく出てきて顔にかかる。また高く飛び出した水で、近くの人を濡らし謝った経験もある。そのた公園や公共の施設でも必ず水飲み場があり時々利用していたが、なぜか不衛生ということで消えたようだ。それにかつては新幹線の車両にも給水機があり、冷たい水を紙コップで自由に飲めたが、今の車両には全く付いてない。また井戸水もピロリ菌がいるとかで飲み水としてはあまり利用されなくなった。その代わりに喉の渇いた人はお金を払い、自販機でペットボトルの水を買うようになる。

「なんだよ、ただの飲み水を金払って買うのか!」半世紀も前は飲料水に金を出す感覚など全く分からなかったが、今は日本でも常識になりつつある。海外では水道水は汚れていたり石灰が溶けているとかで、蛇口からは直接水が飲めない国は多い。でも日本は水量も豊富で、浄水場では飲料水として直接飲むことを前提に、給水をおこなっている。東京近郊ではどこの行政でも水道水の純化には力を入れ、昔よりも水質は格段に向上している・・・。それなのに最近わが家でもアルカリイオン水に変わるという、訳の分からない高い浄水器まで設置し、その水以外は通常水道水も直接には飲まない。

昔まだペットボトルの水が普及していない頃、ミネラルウォーターといえばビン詰めの富士ミネラルだけだった?主に飲み屋で使われていて、酒代のかさ上げに利用されていた。ウイスキーボトルの水割りセットを頼むと、ピッチャーの水道水で良いのに、わざわざ富士ミネラルを2,3本持ってくる。これなら原価があるので客に数倍で売れる。実際に飲み屋に行ってママに「俺は水道水でよいから!」などとシミッタレタことを言う度胸もない。でも今のペットボトルの水だって怪しいもんだ。どこどこの名水などと歌っているが、水道水のカルキを抜いてボトルに詰めたくらいの純度しかないものも、沢山あるのではないかなと思う。

水道水が直接飲める純度の日本で、ペットボトルのただの水が本当に必要なのか疑問に思う。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

断捨離

少しまえ断捨離や終活という、中高年に向けた言葉が流行った。そしてこれらの事が書かれた本も多く出版されて、我々団塊の世代でも話題になる。これに影響されてか、長年続いていた年賀状もプッツリと来なくなった人も何人かいるが仕事の付き合いなど、退職すれば縁がなくなるので別にかまわない・・・。もともと断捨離とはヨガの用語で「断行、捨行、離行」から生まれた言葉、必要の無いものを断つこと、捨てること、離れることであるという。いわゆる整理整頓でこれは非常に良いと思う。また終活とは人生の終わりに備えるための活動で、前もって自ら死を意識して心構えや準備をすることだと聞く。

ただこれらの行動は早過ぎると、社会から孤立し後ろ向きに生きていく行為へと繋がりやすい。断捨離とは物に対する行為だけではない。中高年にとってもっと重要なのは頭の中の断捨離だ!時代に合わない古い考えや既成概念をすて、新しい情報や思想を取り込むスペースを、頭の中に作るという作業である。古い考えで満たされていると、新しい考えや価値観などを取り込むスペースが無い。現代は歴史上かつてない、凄く面白い時代に差し掛かってきた。いま好奇心や行動力を止める事は花火大会に行って、スターマイン連発のクライマックスを見ずに帰るようなもの!せっかくこの時代に生まれてきた意味が無い。日々のテクノロジーの進歩は凄まじい。柔軟な脳を取り戻し、少し自ら背伸びをしてでも時代についていく努力が必要ではないのか。

「ピー、口笛を吹くと何処からともなく、愛馬が駆け寄ってくる!」むかし見た怪傑ゾロのお馴染みのシーンだが、こんな馬を所有していたら便利だなあとテレビにしがみついて見ていた。でももう何年かするとスマホで呼べば、愛車が風を切って颯爽と現れる日もくるかもしれない。家に帰ると昨日で切れていたはずのビールが届いている。冷蔵庫が欠品をチェックして通販に発注してくれたのだ・・・。時代についていく努力をしないと、直ぐに振り落とされて過去の中に沈む。でも現役世代と違って記憶力の衰えた我々にも、プライオリティー(優先事項)がある。「それは充分な時間だ!」この時間を充当し繰り返し学習すれば、エキサイティングな人生が待っている。

認知症の予防には、EPAやDHAが多く含まれる青魚を食べると良いらしい。その他、ウナギや真鯛もよいと聞く。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

秋晴れの9月下旬、小学3年生の遠足では京成電車に乗り佐倉市の臼井まで、栗拾いに出かけたことがある。当時の成田線は津田沼を過ぎると人家もまばらで、林や畑の田園風景がダラダラと広がっていた。その頃の臼井駅は今より佐倉側に500メートル程先にあり、印旛沼も干拓する前で直ぐ側に眺めることができた。駅を降り向かいの木々に覆われた丘に登っていくと、上には落ち葉の引きつめられた少し開けた場所がある。まさかこんな所で栗を拾うのか?疑問に思い頭上を見上げても、そこには苗木の細い栗の木があるだけである。そして先生の合図で子供たちが一斉に、落ち葉の上に落ちている栗を拾い集めた。

「なんだよ、こんなの有りかよ」誰かが撒いたイガの無いバラ栗を、ただ集めるだけで子供騙しもいいとこだ。せっかくイガから栗をはずす道具まで持参してきたのに!と呟くも周りの友だちは別に気にしている様子も無く、喜んで落ちている栗を集める。栗拾いはあの棘のあるイガから栗を外すのが面白い、ただ落ちてる栗を拾い集めるだけなら幼児でもできる。ばかばかしいと思いながらも持ってきた小さな袋に詰め込んだ。私は栗が好きで秋になると自宅から少し遠出し、宮久保の丘にある私有地の森にも勝手に入り込み、ヤマ栗を採取したので栗の事なら詳しい。どうみてもその撒かれた栗は小粒で、売り物になるような大きさではないようだった。

「この野郎・・・!」突然遠くからの声にビックリして木から飛び降り、友だち数人と一目散に逃げる。でもおじさんも必死で追いかけてくるが、道は直ぐに切り立った崖につきあったった。まずい後ろからは叔父さん、前はガケ絶体絶命だ!捕まったらヤバイ20メートルの崖を降りるしかない。掴む物もほとんど無い崖を後ろ向きに下り、後はなんとか滑り降りた。見上げると叔父さんはあきらめて立ち去っていった。胸をなでおろすも、皆な擦り傷だらけだった。戦後暫くすると市川の田畑は宅地開発が始まり、あちこちの丘が切り崩されて土が埋め立てに使われる。そのためこの様な危険な崖も多く存在した。直ぐ後にこの近くの崖で同級生が3人生き埋めになって亡くなると、学校から崖には絶対に近づくなという通達がでた。

塀のない私有地の森に入り込み9歳の子供がヤマ栗を採取し、おじさんに追いかけられて崖から飛び降り死んだとする。でも当時の感覚では子供が悪く、裁判にもならなかっただろう。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

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