徒然草
つれづれなるままに、日暮らし、硯(すずり)に向かいひて、心にうつりゆくよしなごとを、そこはかとなく書きくれば、あやしうこそ、ものぐるほしけれ。
孤独にあるのにまかせて、一日中、硯と向かいあって、心に浮かんでは消える他愛にない事柄を、とりとめもなく書きつけてみると、妙におかしな気分になってくる・・・。最近早朝パソコンに向かい何をテーマに、この日のブログを書こうなど思案していると、頭をよぎるのがむかし教科書で憶えた、兼好法師・徒然草のこの文章である。
教育と言うのは本当に尊いものだと思う。子供の頃はいやいや憶えさせられたこれらの文章が、晩年になると実感を伴って理解できるようになる。人は若いときと晩年では時間に対する感じ方がまるで違う。若さとはアクティブな行為を伴うので、変化のあるリズミカルな時を過ごす。ところが晩年になり仕事や子育てから解放されると、ありあまる自由時間をマッタリとした、単調な気分で日々を送る。すると先人達の晩年の心持が、自身の心にも響くようになるのだ。
しかし最近ではネットなどの進歩により、シルバー世代の時間の過ごし方も劇的に変化してきた。ラインやズーム、ユーチュブの登場により、いくらでも自宅の居間で、多くの人々とのコミュニケーションが取れるようになった。すると晩年でも徒然に過ごすどころか、パソコンやスマホを開くだけで瞬時に刺激にあふれた世界と繋がる。でもそれは同時に「いったい自分は何処から来て、どこに帰るのか?」などという人生の根源的課題などを、ゆっくり考える時間も失うことになる・・・。
人の一生など有史以来あまり変わらないと思ってきた。しかしAIによるデジタル化が進むと、老後と呼ぶ時間の過ごし方もこれから先は、未曾有な領域に突入するかもしれない。(繰り返し訪れるモミジ芽吹の季節が、また我が庭にやって来た。勝田陶人舎・冨岡伸一)