茶飲み話・モクレン

 

寒い冬も終わり厚手のコートをたたむ頃になると、真っ先に大きく白い花を咲かせるのがモクレンである。私にとってモクレンほど思い出深い花はない。なぜかと言えば私がまだ小学生の頃、父親が制作したモクレンの屏風に心を奪われたからだ。子供心にも闇夜に咲く白モクレンの美しさは衝撃的であった。しかし残念な事とに、その後この作品は人手に渡ることになる。

当時父親は結核を病み、闘病生活を3年間続けた。すると我が家の生活は困窮し、生活費ねん出のため父親が制作した日本刺繡の屏風などを、売却することになった。でも幸いな事に新しく開発されたストマイなどの抗生物質の投与で、父親は一命をとりとめることになる。いっぽう人手に渡った作品は、二度とわが家に戻ることはなかった。

「どうしてもあのモクレンの屏風を再び拝みたい!」の気持ちは強く20年前に売却先の持ち主を訪ねてみた。そしてその時に写した写真がこれである。もしこの時父親が病気を罹らなければ、このような作品が10数個も存在した。いま手元にあれば父親の回顧展を開き、皆さんにもお披露目できたと思うと甚だ残念である。持ち主によれば、他の作品はそのご兄弟で分けたというのでその存在は詳しくは分からない。

日本で民芸運動が始まったのが大正15年である。それは手仕事によって生み出される日本の伝統工芸を芸術の域まで高めようという運動であった。発起人は柳宗悦、富本健吉、河井寛次郎、板谷波山などの各氏である。そこで当時まだ30歳前後であった私の父も、日本刺繍作家としてこの運動に加わることになる。そしてその活動先に選んだのが日展の前進で帝国美術院の帝展だった。

「この作品は面白いべえ!」と言ってあの著名な陶芸家、板谷波山に褒められと言う。(この作品ではない)父親から聞いた話だが板谷波山は地方出身なので、ギャラリートークの時に訛のある言葉でで父親の作品を評したという。当時帝展の工芸部門は陶芸家の波山や富本などが全作品の審査員をやっていたので、自分の作品が評価されるか心配な部分もあったと語っていた。(父親が50歳の時に結核にならず、そのまま作家活動を続けたらと思うと心残りである。勝田陶人舎冨岡伸一)

 

 

 

 

 

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