湯豆腐
一年は本当に早いものでもうお盆の季節である。我が家の菩提寺は東京本郷の向が丘にあるので、お盆は通常新盆の7月に行う。最近東京でも盆を8月に行う家も以前より多くなってきたような気がするが、確かにこの時季お寺に行くと多くの人が墓参に訪れている。ところで新盆の歴史は以外に新しい。明治時代に開国にともない暦を国際基準に合わせるために改暦が行われ、旧暦の7月15日がそのまま新暦の同じ日に移行したので一ヶ月早まった。ところが農村部では7月は農繁期で忙しく、変更されずに旧暦のお盆が継続され、今だに8月15日を中心に行われている。でも確かにお盆は8月中旬の方がよい思う。この時期は暑くて疲れも出る頃で、ゆっくり休みたい。
「ええ!七輪ってまだ使ってるの」久しぶりに見る七輪がなつかしい。本郷の寺がある向が丘二丁目の交差点の近くに、数年前まで(五右衛門)という名の豆腐料理屋があった。ビルの谷間の三間の通路を20メートル程奥に進むとパティオが開ける。その空間には池のある小さな日本庭園と古民家風の店舗がたたずむ。近くには侘びた茶室もあり、中に入ると東京のど真ん中いることを忘れられる造作になっていた。ここで出すのは豆腐料理は味噌田楽を初め数種類のコースの料理で、最後の締めが七輪で炊く湯豆腐である。墓参の帰りや法事などでもよく行ったが、残念なことに最近取り壊されてマンションに変わった。この界隈でも老舗の料理屋が取り壊されて高いビルになる(観光資源になるのにもったいないことをする)
私が小学生の低学年の頃までは、市川にはまだガスやプロパンが普及しておらず、目覚めるとまず七輪で火を起こす。母親の言いつけで私も姉と庭で七輪の火はよく起こした。最初はマッチで新聞紙などに火をつけ、徐々に細いマキ、から墨へと、火を移していく。途中消えそうになると渋ウチハで焚口から懸命に仰ぎ風を送る。そして「おかあちゃん、火起きたよ!」と声をかけると、母親がニコニコしながら勝手口から出て来た。この七輪一つで朝味噌汁など何でも作った。当時の主婦は大変だった!近所ではまだ共同井戸の家もあり、外に水を汲みにでる。アフリカでは子供達が外に薪を拾いに出かけ、また数キロも離れた水場まで水を汲みに向かうが、この日本でつい数十年前まで火や水の調達から主婦の一日が始まったのだ。
たった6、70年でこんなに世の中が変わる。そこで食べ物を通して庶民の日常の変遷などを書き留めておきたいと思う。
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
清酒Ⅱ
清酒Ⅱ
近くに住む娘夫婦からお中元に清酒の詰め合わせが届いた。小さな一合ビンに各地の地酒が詰められ、味の比較が楽しめるようになったセットで、冷蔵庫で冷やして晩酌のビールの後に飲むには手ごろなサイズだ。私は日本酒もワインも辛口好きで、それに一晩に何種類かの酒を少しずつ飲む究極のチャンッポン派でもある。チャンポンで飲む酒は飽きが来ないビールのツマミにウイスキー、ウイスキーのツマミに清酒を飲む、少し飲みすぎたと感じるとまた最初のビールに戻るといった具合だ。こう書くと相当な酒豪だと思われるがそれぞれの酒量はすくない。そのため私は酒の肴には余りこだわらない。ところが女房も酒好きなので勝手にいろいろ吟味して作ってくる。
「清濁あわせ飲め!」人生は清もあれば濁もあると、子供の頃からこの言葉は父親には教訓としてよく言われた。人生の清酒ばかり飲んでいると、濁り酒の味が分からない。世の中など矛盾だらけだ、片方のみだと男は度量がなくなる。合わせて飲むことにより、人間としての深みが増すし人生のおもしろさも分かる。あえて濁ったところに身を置く必要も無いと思うが、来るもの拒まず目の前に置かれた濁酒も躊躇することなく飲み干し、飲んだ後その状況などを考えろ。リスクを避け無難に生きるのも悪くないでも「冒険のない人生はつまらないよ、人としての成長もないし挫折感も達成感も希薄になる」との仰せだった!
職人になることを前提に育てられた私は自慢じゃないが、小、中学生時代ほとんど勉強はしなかった。サラリーマン家庭と違って父親の価値観がかなり違う。会社に勤めるわけではないので学歴もあまり必要ない。親も成績にはほとんど無関心だった。頭が良くて成績優秀、そして一流会社に勤めることも悪くない。でも我が家の価値観は成績よりも腕にこだわる風土だ「腕の良い職人が理想形」それには創造力と技術力を身につけることが優先する。職人は腕がよければ飯は食える!そこで父親が将来の仕事の師匠、絵の描き方から発想力など色々なことを伝授された。学校の先生の言うことなど聞かなくてよろしい。彼らの言うことなど聞いているとどんどん普通になっていくと。
その後家業の衰退により、大学は経済学部に進んだが、何の経験もなくデザイナーになり陶芸家になってある程度やってこられたのは、父親の家庭での教育が大きいと思っている。
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
ボンボン
ボンボン
夏の暑い盛りボンボンというアイスキャンディーを子供の頃よく食べた。ゴム製のヒョウタン型の袋に、凍った色つきの甘い汁が詰まっている。先の細い部分を歯で噛み切り、溶けてくる甘い冷たい汁をチュウチュウ吸いだす。そして量が少なくなると最後は小さくなった氷をガリガリ噛み砕いた。ただ親からはボンボンは不衛生で赤痢になることもあるので食べるな!と注意は受けていた。ただ電気冷蔵庫などが家庭にない時代、私は親の忠告も聞かずボンボンやアイスキャンディーなどを買い涼んでいた。夏休みになると早朝ラジオ体操のあと、子供達がホウキで町内の道を掃除することになっていた。(当時、これも夏休みの日課の一つ)するとこのボンボンのゴムがあちこちに落ちていて集めて回った。
「帽子をかぶって行きなさーい」母親の声が背後から聞こえる夏休みの午後、炎天下に外に出て虫取りに行く。いつもは玉網に虫かごを持っていくが、時々は駄菓子屋でトリモチを買う。(ネバネバした粘液で水飴の様に割り箸でとる、一回分5円)しかしこのトリモチの扱いが大変だ!トリモチは何にでもくっ付く。ただ水には付かないので、これを唾をつけながら良くしなる矢竹に塗り付けると準備完了!これを振り回しいろいろな虫をくっ付けてとる。これが非常に面白い!蝉などもくっいたままミンミン啼いて暴れる。しかし夢中になって竹を振っていると、じぶんの髪の毛や友達の髪の毛にもくっ付いてしまう。
さあ大変だ!一度付いたトリモチは絶対に外れない。無理に取ろうとすると髪が抜けて痛い。仕方がないのでトリモチの竹が付いたままの頭で自宅に帰り、親に髪の毛を切って外してもらった。「ああ、せっかくの可愛く仕上がった坊ちゃん刈りがこれでは台無しだ!」私は今まで一度も丸刈りにしたことがない。坊主頭が大嫌い!当時は多くの中学が男子は坊主頭が強制されていた。唯一市川中学が二年前に整髪が解禁になったので、中学は市川を選んだ。もうトリモチは絶対に買わない!と思うのだがしばらくするとまた繰り返えした。ただトリモチは空気に触れていると徐々に粘着性がなくなる。その日に買ったトリモチは翌日にはもう使えない。
今日は工房の別の盆栽を掲載する。この盆栽鉢も自作です。
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
蓮
蓮
むかし我が家では野菜の天ぷらのことを精進揚げと呼んでいた!(僧侶が仏道を極めることに精進するために食べる揚げ物で、精進料理の一部であるという)でも私はこの母親が作る精進揚げが子供の頃は大嫌いであった。衣が多くベッチャリとしていて、まるでうどん粉で揚げたをお好み焼を食べているようなモチモチ食感は、とてもいただけなかった。しかし今の野菜の天ぷらは実に旨い!衣が少なくカリッと揚っている。聞けば昔とは粉が違うからだと女房は言うが、同じ素材なのに粉だけで、何故こんなに違いができるのか不思議で、粉の量やかき回す方法、タマゴの投入などにも問題があったのだと思っている。私は野菜の天ぷらの中では特にハスが好みだ、シャキシャキ感のある歯ごたえはたまらない。それに今はハスのチップスもよい。ポテトよりずっとヘルシーな感じがする。
「やばい!また白バイのお巡りさんの視線を感じた」信号待ちで停止していた私の車に白バイが近づいて来て、横から顔を覗き込む。「子供が車なんか運転しやがって!」という顔をして、「こんなガキが免許書持ってるはずがない。無免許運転の子供一人ゲット!」とほくそ笑み。「免許証見せて」とぶっきらぼうに言う。ポケットを探り提示すると、顔としばし見比べる。すると納得したのか免許書をつき返し無言のまま立ち去った。「いつもこれか」とこの頃の警察官は非常に高圧的で、へた逆らうと男の子などはドヤされ殴られることもあった。「ほら、お巡りさんが来るよ」と悪いことをすると、よく親にもよく脅された。それほどお巡りさんは庶民にとっては怖い存在だった。
当時は中学を卒業して働きに出る子も多く、軽自動車の免許は16歳で収得できた。自宅にあった軽四のスバルに乗り、学校から帰ると家業の納品の手伝いを時々する。オクテだった私は体が小さくて中学生にしか見られない!そのころ市川から日本橋へは、まだ蔵前通りはなく、旧千葉街道を通って行くが、小岩を過ぎると小松川へ至る道の両側にはまだ蓮田が所々残っていて、夏にはピンクの美しいハスの花々を楽しむこともできた。ハスの大きな花は開くとき一気に咲くので「パン!」と音をたてると聞いたことがあったが、どうもこれは本当の話ではなさそうだ?江戸川区から市川市にかけての湾岸地域はむかし蓮田ばかりで、泥深い湿地は稲作には向かなかったらしい。しかし今はこの沿線には全くその面影は残っていない。ハス田を見ると当時の情景が頭に浮かぶ!
たまに作るハスの天ぷらはこの絵皿のプレートなどいかかでしょう。
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
蒲焼き
蒲焼き
いよいよウナギのシーズン到来である。皆さんはガマの穂というのをご存知だろうか?葦のように水辺に生える葉の細く長い草で、その茎は先端に細長い10センチ位の円筒の茶色い穂をつける、生け花でもよく使うあれである!蒲焼は最初このガマの穂のようのに、ウナギをブツ切りにして縦に串を刺して焼いていた。形がガマの穂とそっくりなのでガマヤキと呼んでいたらしい。後に変化してカバヤキと呼ばれるようになったという。ウナギは縄文時代から日本人に食べられていて、五千年以上の歴史があるそうだ。今の蒲焼のようにウナギを開いて串に刺し、タレをつけて焼くようになったのは、江戸時代の後期、18世紀ごろからだと文献には書いてある。
そして東京では明治以降ウナギを裂いて串に刺し、白焼きにしてから蒸し器で蒸して、タレを付けて再度焼くようになった。ところが関西ではウナギの蒲焼は、江戸時代の作り方を継承し、蒸さないで直接タレを付けて焼くので、関東の蒲焼より少し固めである。私は関西でもウナギはずいぶん食べたが、どちらが旨いかは好き好きであるが、硬めで香ばしい関西の焼き方のほうがどちらかと言うと好みである。以前テレビで、このウナギの料理法の違いの境目は東海道のどこなのか?調べ歩くという番組があったが、名古屋の手前の焼き蛤で有名な桑名あたりで東西に別れるといっていた。するとあの最高に美味い名古屋のヒツマブシも当然、関西風の焼き方であるのか?
「もうーこのおばさん、いい加減にしてくれよ。客の前でさっきから一人でしゃべりっ放し、これじゃあ折角のウナギが台無しだ」以前神戸の三宮センター街の裏手にあるウナギ屋には、業者の人によく連れて行ってもらったが、ここはウナギの「樋まぶし」が有名であった!でも店主のオカミさんが真におしゃべり、こちらがウナギをじっくり味わっているのにサービスのつもりなのか?のべつしゃべりまくる・・・!お重の中はご飯と短冊に切られたウナギがニ段重ねで、ご飯には山椒の実がそのまま粒で混ざる。ゆっくりと嚙みしめるとプチュと山椒がつぶれ、ほど良い刺激が口に広がった。三分の一程残し、後は茶碗に取りダシをかけお茶付けに!
特にヒツマブシは関西の蒲焼に限る。関東の焼き方ではウナギが柔らかく、むかないのではと思った!(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)