アイスクリーム

戦後まだテレビが家庭に無い時代、庶民の娯楽は主に映画であった。当時の映画館はどこも古くトイレの臭いがし、換気も悪かった。映画館はいつも人で溢れていて通常三本立てなので時間も長い!空席がなく立ち見の時は3時間も見ていると足が痛くなり、黒いカーテンで囲われた館内はいつも酸欠で頭痛もした。それでも皆さん映画に夢中で我慢をして見ていた。子供向けの映画もあって、小学生になると友達と誘い合い映画館に行った。このころ子供に人気のあった映画は、なんていっても鞍馬天狗や月光仮面のように、主役が頭巾を被った映画である。学校でも先生が近くの映画館に小学生のクラス全員を引率して、課外授業として映画鑑賞にも連れて行った。

映画での主役、鞍馬天狗の嵐寛寿郎はとても人気があった。映画が始まり鞍馬天狗が登場すつと[待ってました!」と大向こうから声がかかる。すると場内一斉に割れんばかり拍手だ。鞍馬天狗は剣の名手で強い。バタバタと悪い侍を切っていく、それを見ているのが気持ちがいい。でも鞍馬天狗にはなぜか杉作という名の少年がいつも一緒で、杉作が切られないか心配になる。「早く逃げろ杉作!」ハラハラどきどき、子供受けする演出になっていた・・・。映画を見て家に帰るとさっそく鞍馬天狗の真似して遊ぶ。刀の代わりに竹の棒と風呂敷で頭巾を被り、鞍馬天狗と新撰組に別れて近所の子供達とチャンバラごっこだ。しかし竹の棒を振り回し危ないので徐々に禁止になる。

しばらくして今度は月光仮面の映画に人気が出た。このころの映画館は面白かった。映画が始まり「どーこの・だれかは知らないけれど・・・。」と月光仮面の曲が流れると、我々も声を張り上げ一緒になって歌って盛り上がる。白覆面に真っ白い衣装を着て、バイクに乗った月光仮面が現れると「がんばれー」の声で応援する。映画の中に完全に入り込んでいた。また休憩時間には当時「えー・アイス、えー・アイス」と混んでいる館内に響くアイスクリーム売りの声。一個30円で高かったが、映画に行く時は親にアイスクリーム代もねだる。映画と共にこれを買って食べるのがとても楽しみであった。アイスクリームは木製の四角い小さなキョウギに入っていて、板のスプーンが付いている。これでチビチビ食べるが量が少ないのであっという間になくなった!

写真の器でアイスクリームをお洒落に食べる(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

サクランボ

「バタバタ、バタ!」突然、頭上から5,6羽の小鳥が飛び立った。あれ、驚いて見上げると、「そうか・・・お目当てはこいつか」近所の家の生垣の上から伸びた桜の木の枝には、沢山のサクランボがなっている。道路には人に踏まれた種が散らばり、実も路面にこびりついて掃除も面倒そうだ。家主がほっとかないで収穫すればよいのにと思って、垂れ下がった枝に手を伸ばした。「実は小さいが、確かに赤く熟して旨そうだ」実の一つを摘んで慎重に口に入れる。なるほど・・・。これでは家主も収穫してまで食べないだろなと実感。多少の苦味以外にあまり味がない。落ちた実を避けながらその場を通り過ぎ見返すと、もう小鳥が舞い戻って盛んに実をついばんでいた。

イタリアでは毎年この時期になるとたくさんのサクランボが果物屋の店頭に並んだ。色は真紅で大粒のいわゆるアメリカンチェリーだった。その当時まだ日本にはアメリカンチェリーが輸入されていなかったので、40年前始めてその実を見た時は深い赤の色に驚いたが、珍しいのと安価なので何回か買って食べた。実は日本のサクランボよりも甘く美味しい気がした。その後アメリカンチェリーの輸入が日本でも解禁になり輸入されると、一時人気が出てサクランボ農家も影響を心配していた。でも日本のサクランボとは見た目も味も別物で、最近ではアメリカンチェリーの輸入もあまり話題になっていない。

しかし日本のサクランボは、なぜあんなに高いのだろうか?手間が架かるのか、栽培が難しいのか、ただ単に生産量が少ないことが原因なのかは知らないが、数年前自宅にチラシの郵送が来た山形のサクランボ農家に、佐藤錦の直送の依頼をしてみた。でも送られてきたサクランボは小さな箱にきちんと並び4千円もした。一粒70円か?ゆっくりと味わって食べた。それから一昨年、町内の自治会で「山梨観光とサクランボ食べ放題」というバス旅行が企画されたので参加してみる。市川からバスに揺られ3時間ほどで、山梨県勝沼近くのサクランボ農園に到着する。園内に入ると「わおー、なんて美しい色の実だ!」佐藤錦のほか数種類のサクランボか真っ赤に実っている。食欲が刺激され制限時間内に手当たり次第にとって食べ、サクランボで初めて満腹になる貴重な経験をした。

サクランボにはこのブルーの器でどうでしょう?色の対比が面白いかも?(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

ジェラート

アイスクリームはむかし日本橋三越の大食堂に入ると時々オーダーした。当時アイスクリームはまだ冷凍設備の普及してない時代であつかう店も少なく、今のように簡単に食べることができなかった。銀色に光る金属製の足のついた口広のゴブレットには丸く型でとったアイスクリームがのり、ウエハースが一本添えられていた。アイスクリームとウエハースの相性は、アイスクリームを食べると口が冷え徐々に味覚が鈍くなる。そこでウエハースをかじると、冷えがとまり味覚が戻るとのこと。そんなことを意識して食べたことはないが、アイスクリームのコーンカップにも同じ効果があるという。でも最近日本でもアイスクリームよりジェラートの方が人気がある。(ジェラートとはイタリア語でアイスクリームのこと)でも原料は同じなのにどこが違うのかは詳しくは知らない。

「ボンジョールノ、ドベ・バーイ」(こんにちは、どこに行くの)クラスメイトのナイジェリア人で、お盆のように丸顔の黒人オジェニに道で会ったので握手をし挨拶を交わした。彼はこれからジェラテリア(ジェラート屋)に行くと言う。ジェラートは好きなので私も一緒について行くことにした。道すがら彼と会話を交わすと「日本は石油が出るのかい」。「出ない」。「日本人はクリスチャンか?」。「そうじゃない」。「へー、クリスチャンじゃないのか?」びっくりした顔をしてこう続けた。「ナイジェリア人はクリスチャンでいつも神にお祈りしているから、石油がたくさん出てきて凄く豊かになった。日本人もクリスチャンになって神にお祈りしてみろ!石油がジャブジャブ出てくるから」

単純な会話を交わしてるうちにジェラート屋に着いた。「ええ、ここジェラート屋だったのか?」実はイタリアではジェラート屋は夏場だけの半年間の商売である。冬は閉めているので分からなかったのだ。店の前はすでに10人ほどの人の列が出来ている。初めて見るジェラート屋には、ガラスケースに20種類位のカラフルなジェラートが並んでいて、お洒落で可愛らしい。何を頼むか迷っていると、オジェニが「ミスタ(ミックッス)がいいぞ」というのでミスタを頼む。これと、これと、これ、指でさすと、一つのコーンに三種類のジェラートを乗せてくれた。「旨いねえー、こんなアイス食べたことない!」思わず顔がほころぶ、

日本で売れば流行るかも?40年前イタリアの都市ペルージャでの話である。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

回転蕎麦

[冨ちゃん、向島に面白い蕎麦屋があるから行って見ようよ」まだ私が二十歳代の中ごろ浅草の大手靴問屋の婦人靴デザイナーだった私に、出入り業者の営業の友人が昼食に誘ってくれたことがあった。さっそく彼の車に乗りこむと、渋滞を避けながら裏道をぬけ言問橋を渡り、その先の水戸街道を横切った。それから少し進むと左側の路地の入り口にその蕎麦屋があった。名前は忘れたがあまり明るくない店内に入ると、中央にコノ字型に大きなカウンターがあり、椅子が並べられている。まだ時間が早いのか空席が目立った。促されるままに着席すると、「あれー、何ですかこれは!」目の前には黒い僕石で装飾された、渓谷に似せた小川が流れている。

「面白いから見てなよ!」と彼が言う。暫く待つこと15分、目の前にある小さなランプが点灯した。すると右手から注文したザル蕎麦がイカダに乗って、ドンブラコ、ドンブリコとあちこちにブツカリながらも、優雅にプカプカゆっくりと流れてくる。「へー、誰が考えたのですかねえ!驚きのこのシステム」やっと目の前にイカダが流れてきたので、蕎麦をお盆ごと受けとった。蕎麦の味はまったく覚えてないが、この店の造作はとてもユニークで個性的であった。でもこのアイデアそのご小川が回転するベルトに代わると、寿司業界を根底から変える事になった回転寿司のシステムへと大きく変貌することになる。

そのころはまだ回転寿司屋は東京には一軒もなかった。でも最初に大阪で回転寿司を始めた元禄寿司の歴史は意外に古く、回転寿司屋を始めたのが昭和33年とある。創業者がビール工場を見学した時に回転寿司のアイデアを思いついたという。それから暫くすると回転寿司の元祖元禄寿司の店が東京の街のあちこちでも見られるようになる。コンベアに乗った目の前を通る寿司の目新しさと、子連れで入れる気安さや明朗会計でたちまち東京でも人気が出て、出店が全国に加速していった。その後、回転寿司のシステムの特許が切れたのか?多くの業者が参入し、巨大な市場となって現代に至っている。

日本の子供達の味覚や嗜好が洋食に傾斜していった時代、代表的な日本食である寿司の旨さを子供に伝えてきた、回転寿司の功績は非常に大きいと言えるのではないか。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

コッペパン

去年、市川市八幡の駅前中央通りにコッペパン専門店がオープンした。コッペパンとは日本で独自に進化した日本発祥のパンで、欧米にもコッペパンという名称のパンは存在しないという。今の時代コッペパンだけで商売になるのか?と思っていたら開店して暫くは列を作り混んでいたが、最近では閑散としている。コッペパンを焼き、それを縦に切ってジャムなどのいろいろなペーストを客の好みで塗るだけの、比較的安易な商売だ。パン屋にしては設備も簡単で場所も取らないし売れれば悪くない。コッペパンや食パンは子供の頃からよく食べた。とくにコッペパンは安くて大きいので腹のたしになり人気があった。しかしパンの種類が多くなるとコッペパンは時代と共に消えていく。

むかしはコッペパンにはなんと言ってもイチゴジャムである。でも当時のイチゴジャムは本物のイチゴは高くて使えず、寒天など何か他の材料で作られていたと思う。不自然なあの赤色は食紅で着色され、トロミのある柔らかな透明なペーストはただ甘いだけの元祖擬似食品で、実際にはイチゴなどほとんど入っていなかった気がする。イチゴ無しのイチゴジャムはイチゴの味など殆どしないので、私は余り好きではなかった。しかしそれから少したつとピーナッツバターが新たに登場する。イチゴジャムよりバターの様なコクがあり、私もこのピーナッツバターはコップパンに塗って良く食べた。一時は人気沸騰したが、これも最近ではあまり見かけない。

「へー、そんな食べ方あるのか?」当時、姉が通っていた市川第三中学校の公売のパン屋では、コッペパンにアンコを挟むのが人気だと言う。それを聞いて私が驚いていると、「アンパンの大きいのよ」そうかアンパンの大きいか?なんとなく想像がつたいた。「あんた男が、そんなことで驚いちゃだめだよ」先じつ隣の鈴木君のお弁当を見て、姉は本当に驚いたそうだ。彼がお弁当の蓋を開けたら真っ黒だった「なにー、それ!」見るとベッタリとご飯の上に全面アンコが塗ってあったという。「ひゃー、ご飯の上にアンコか!」これは本当にびっくりですね、お姉さま・・・。しかしこれもオハギの大きいのと思えば有りですか?

今と違って食材不足のむかし、いろいろとユニークな弁当を持ってくる子もいたようだ。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

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