缶詰

私の少年時代はもっと頻繁に缶詰を食べていたような気がする。冷凍設備の普及してない当時、缶詰は食料の保存には最適であった。魚、野菜、肉、果物など様々な物を缶詰に加工していた。しかし特に変わったものでは漫画「ポパイ」のホウレン草の缶詰だと思う。「ポパイ!助けてー!」。「あー、大変オリーブの声だ!またブルートに捕まり、キスされそう」と助けに向かうポパイだが、最初はブルートにフルボッコされる。視聴者の子供達は「何やってんだポパイ、早くホウレン草の缶詰を喰えよ」と思った瞬間「チャ、チャ、ラチャ、チャアーン!」ポパイが何処に隠し持っていたのか分からぬが、ホウレン草の缶詰を食べる。すると急に強くなりブルートを叩きのめす。いつもストーリーは同じだが、このポパイのアニメはよく見ていた。

「俺も、ホウレン草の缶詰食って強くなりたい!」こんなこと漠然と考えていた男子は、私だけではないと思う。しかしそのころ新しくオープンしたスーパーの缶詰売り場を探しても、ホウレン草の缶詰など全く見当たらなかった。でもアメリカには実際にホウレン草の缶詰が存在したのだろうか?私もそうだったがだいたいの子どもはホウレン草が大嫌いだ。するとこのポパイ漫画はホウレン草が嫌いで食べない子供たちに、ホウレン草を食べさせるためのキャンペーン漫画として製作されたのではないか?と冗談で調べてみたら、どうも本当にアメリカベジタリアン協会という組織が菜食主義を広めるために、この漫画をつくったという記事を見つけた。

日本では最近になって「缶詰バー」が新しくオープンしているという。安価なので仕事帰りにちょっと立ち寄るには便利だ。全国からツマミになりそうな様々な缶詰を集めていて、たこ焼き、だし巻き卵などかなりレアな缶詰もあるらしい。腐らない酒と缶詰で商売出来ればこんな簡単なことは無い。注文があって客を待たせることも、食材が不良在庫になる心配も無く、食器を洗う手間も無い、良い事のナイナイ尽くしだ。そういえばむかし酒屋の店頭での立ち飲みで、腹のすいたヨッパライが缶詰を開けてツマミに食べていた。缶詰バーの原点はあれだなきっと!でも缶詰だといって馬鹿にすること無かれだ。鮭の骨缶など、普通の状態では食べられない旨い缶詰もある。

鮭の骨缶にはこの片口の器に盛るのはどうだろうか?

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

サボテン

「あれ何だー、そのその変なカッコウは?」銀行に勤め始めたばかりの次女の姉が、私が中学生のある夏の夕方。妙な真っ黒い風船人形を上腕に付け自慢げに帰宅した。その姿がユニークだったので笑っていると、「あんたバカね知らないの?今これ流行り始めているのよ」姉は肩からはずしそれを私の肩にからませた。よく見ると真っ黒い人形は口から空気を入れ膨らませると、腕につかまるようにできている。そしてその大きな丸い目は見る角度でウインクした。「これダッコちゃんっていうのよ」と姉がいった。でもそれから1,2週間するとテレビのニュースでも紹介され始めて、あっという間に大流行となる。若い女性はこのダッコちゃんとよばれた風船人形を肩につけ夏の街中を闊歩した。

こうなるともう生産が追いつかない。何処のおもちゃ屋も品切れで、パンデミック(感染爆発)状態、若い女性から子どもまでダッコちゃんを捜して奔走した。われわれが子どものころは、このパンデミック現象が時々起きた。なにか新しいものに人々が飢えていた時代で、フラフープ(やり過ぎると腸ねん転になる)から始まり、ホッピング(胃下垂になる)、切手集め(小遣いの使いすぎ)いろいろな批判をかわし、次々と大流行現象が世の中を席巻した。そのたびに教育者や一部医療関係者から、分けのわからない批判が出てじきに下火になっていった。そして私が興味を持っていちじ夢中になったのが、中学時代に流行ったサボテン集めだ!

「おじさん、このサボテンいくら?」見ると普通のサボテンに丸い小さい真っ赤なサボテンが接木されている。たしか緋ボタンとか呼んでいたが「一目惚れ」すっかり気に入り買う気になったが値段を聞いたがビックリ千円もする。「千円か?とてもむりだ」あきらめて家に帰り、集めた10種類位の小さなサボテンを眺めて緋ボタンを忍んでいたが、このオヤジ臭い趣味も半年経つと熱が冷めて、縁側の軒先に置かれたままになった。そのご母親が世話をしたようだが、数年経つと一部を残し消えた。のちにイタリアの市場で真っ赤なサボテンが果物として売られていたのを見たとき時、子どもの頃欲しかった赤いサボテンを思い出した。でもこの赤いサボテンは結局食べずじまえで帰国したが、赤い実には棘があり、最近見かけるサボテンのドラゴンフルーツではなかったと思う。

最近作った写真の鉢に去年、多肉植物を植えてみた。花が咲いたので掲載する!(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎。冨岡伸一)

ウナギ

「おう!なんだあの魚」5センチほどの透明で細く長い魚が、海のほうから川の流れに逆らってクネクネ泳ぎ上流に向かう。「ウナギの稚魚か?」すくい取とろうと試みるが、持参した玉網では目が粗く通り抜ける。私が中学生の頃、まだほとんどが湿地だった市川の真間川河口で釣りをしていると、垂らした釣り糸の前後をウナギの稚魚が泳ぎ通った。当時真間川やその周辺の沼にはまだウナギがたくさん生息していた。東京湾岸が埋め立てられる以前で、いまの東西線原木駅の先は直ぐ遠浅の海で、周辺は高い葦が生い茂る泥沼地や蓮田だった。民家は遠く見える程度しかなく、人影などもほとんど無いかった!

よくこの周辺には釣りに来たが、飽きるとその沼地に分け入り誰が仕掛けたか分からぬ、地元ではポーポーと呼ばれていた竹の節をくり貫いた、ウナギの仕掛けを上げに行く。「どうせこんな沼、誰の所有者かも分からないし、俺達には関係ない」と勝手に判断し50センチ位の水底に沈められた、70センチ位の竹を三本に束ねた竹筒を両手の指で出口を塞ぎ水中から引き上げる。すると「入っているかも」の手の感触を感じ友だちが差し出す玉網の中に水ごとあける。「おーいたいた。いっぺんに2匹取れたぞ!」もう大はしゃぎである。当時こうして取ったウナギは、街のウナギ屋に持ち込むと一匹50円で引き取ってくれた。小遣いに困ると、たまに友だちとウナギバイトに出かけた。

今年の春先にはウナギの稚魚が全く不漁で、このままではウナギが高騰するかもというニュースが流れた。しかし非常に心配されたウナギ稚魚の捕獲も、その後一転豊漁となりウナギ好きにはひと安心である。先日テレビを見ていたら夜の暗い海辺で、懐中電灯を照らしウナギの稚魚を取る大勢の人々が放映されていた。一応役所の認可が必要だというのだが、目の細かい玉網で水面をすくうと数匹のウナギの稚魚が取れる。一匹いくらで売れるのか知らぬが、一晩で10万、20万の大金を稼ぐ人もいるとかで、今の時代も俺らがやったウナギバイトがまだ続いているのかと非常に驚いた。浜松を新幹線で通過すると浜名湖周辺にはウナギの養殖池が点在するが、ウナギの稚魚不足からほとんどの池は空で、むかしの活気のあった面影はない。

ウナギは蒲焼でなく白焼きもうまい!だがウナギ不足から閉店する店も多い。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

トコロテン

そう言えば最近トコロテンを食べない!もう何十年も食べていない気がする。第一あれだけあちこちにあった甘味処が殆どなくなった!今は浅草の浅草寺や神社仏閣の周辺に、何軒か残っている程度ではないかと思う。昔は母親がアンミツが好きで、日本橋三越の近くのミツバチという名の甘味処にはよく立ち寄った。母親が三越への納品が終わっての帰り道、同じ職先の仲間のおばさんと甘味処で息抜きにダベッテ帰る。ミツバチという名の店だけあって、ここの黒蜜は旨かった。蜜のトロミかげんと芳醇な甘さとのバランスがとても調和がとれていたと思う。子供だった私は大人たちの話に入れず、ミツマメを食べながら世間話に母親が飽きるまでじっと待っていた。

「ええー、なんでこんなに酸っぱいもの喜んで食べるんだ!」むせて思わず吐き出しそうになる。「こんなの注文しなければ良かった」と後悔したがもう遅い。「だから言ったでしょう、子供にはむりだって」母親がいう。「やっぱ、いつものミツマメにしとけば良かった」と嘆くも二口ほど食べてあとは母親に渡す。大人の真似をしてトコロテンなど頼むからこうなるのか。完全に一食、損した気分だった。そのとき様子を見ていた店員のオバサンさんが「トコロテンに蜜をかけることも出来ますよ」と申し出てくれた。

そして後日「甘いトコロテンお待ちどうさま」どれどれこれなら良さそうだ。見るとトコロテンに黒蜜がたっぷりとかかっていていかにも旨そうだ。角切りのカンテンと違い、蕎麦のようにツルッとした喉ごしもグーだった。思わず母親の顔を見て笑顔になった。それからはいつもこの特別メニューを頼んでいたが、飽きてきたのでもう一度、「だいじょうぶかい?」の母親を制して酢のトコロテンに戻してみた。「なるほど、確かに酢のトコロテンもそれほど悪くないは」でもこのトコロテンよく考えれば実に不思議な食べ物だった。透明のガラスの容器に蕎麦のようなカンテンが酢醤油に浸かり、上には細切りの海苔がトッピング、あげくの果てに、黄色い辛子までついてくる。これをかき混ぜて食べるが、ダイエットメニュー以外では通常、考えられない組み合わせではないのか?

最近外国人が日本食を何でも食べるようになったが、さすがトコロテンは敷居が高いのではないかと思う。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

福神漬け

そろそろお盆が近づいてきた。富岡家の菩提寺は東京文京区の向が丘にあるのでお盆は毎年7月に行う。お盆になると提灯を灯し仏壇の前にホウズキや野菜を備える。昔は茄子には割り箸で足をつけたりして、馬に見立てたりすることもあった・・・。これは明治生まれで下町に住んでいた父親に聞いた話だが、維新前後に江戸の町ではお盆になると、どの家でも仏壇にいろいろな野菜を備えたと言う。お盆が終わると備えた野菜が干からびて食べられなくなる。そのクズの野菜を誰かが回収して漬物にして販売したところ大そうな売れ行きで、仕入れが只なので一儲けをしたらしい。これが福神漬けの始まりだと話していたが、今の福神漬けの酒悦とは関係ないと思う。

福神漬けはなんと言ってもカレーライスに良くあう。実際にカレーライス以外では福神漬けを食べた記憶がほとんどない。福神漬けとカレーライスのコラボを最初に始めたのは大正時代で、日本郵船の欧州航路客船の一等客室にカレーと一緒に出されたのが始まりらしい。また今のカレーライスの日本風の食べ方は明治時代に、大日本帝国海軍の洋上での偏った栄養状態改善のために考えられたそうだ。いずれにしても新鮮な食材など提供できない船上での食事に、うってつけの組み合わせであったのであろう。

「この真ん中が割れてショウタンの様な形をした、ヘンテコリンな物はいったいなんだろう?」福神漬けを食べる時に、箸でつかんで繁々と眺めていたことがある。実はこれ調べて見たらナタ豆だという。「ナタ豆って食べられるのか?」ふだん食材としては全く馴染が無いので分からなかった。漢方でも使い健康には良いらしい。福神漬けは大根、茄子、うり、レンコン、カブ、しそ、ナタ豆の7種類の野菜から作られており、酒悦の創業者の住んでいた上野の七福神にあやかって、福神漬けと命名したようである。明治初期その創業者がミリンと醤油をベースにこの漬物を考案したというが、味付けには試行錯誤で10年の長い歳月を要したと言う。あの簡単そうな福神漬けにも奥深いストーリーがあったのか。

福神漬けはやはり乾物屋であつかう食品の一つで、身近であったが我が家では子供の頃に食べた記憶があまりない。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

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