コカ・コーラ

コカコーラという飲み物に、最初に出会ったのは小学5年生の頃だったと思う。当時は熱狂的なジャイアンツ・ファンで時々父親に連れられ後楽園球場に巨人軍の応援に行っていた。特に同じ千葉県出身の長島選手は自宅の近くで一度見たことがあり、近親間を感じていた。スタンドに座って長島選手の動きなどを見ていると「コカコーラいかがですか」という売り子の声があちらこちらで聞こえてくる。「はて、コカコーラっていったいなんだよ」父親に聞いても知らないという。注文があるとボトルの栓を開け、ビンごと手渡していた。今まで見たこともない変わったか形のビンの、茶色い飲み物はどうも炭酸飲料らしいのだが、値段も高いので買わずにいた。

家業の手伝いで良く日本橋の三越に通っていた私は、三越の売り場の事なら熟知していた。納品の母親を待つあいだの2時間ほど三越の店内をぶらつく、特に屋上には木馬などの遊び道具もあり、ここで時間をつぶしていた・・・。しばらくするとその三越の屋上の売店でもコカコーラを新しく売り出したので、試しに買ってみることにした。(それまでのラムネ、サイダー、メロンなどのソーダ類と違って爽やかな色じゃない)注意深くそっと慎重に少し口に含む。すると薬のようなその味は余りにもまずいので、思わず口から吐き出しそうになったが、我慢をして飲み込んだ。「なんだこの味は、正露丸を炭酸で薄めたようだ!」それでもせっかく買ったので三口ほどのんで残りは捨てた。

これがコカコーラと出会った最初の印象である。もう二度と買うまいと思ったが、それからしばらくするとコカコーラが話題になり始め、コーラ売る店が徐々にふえた。それではと再度トライしてみると、今度は味の印象が全く違う。「へー、旨いじゃんこれ!」コカコーラもビールと同じで舌先で少しずつ飲むとまずいが、慣れていっきに喉越しで飲むと旨いのだ。そして日本にコカコーラの一大ブームがやってきて全国に広まっていったが、余り流行ると例のごとく各方面からいろいろ批判する人がでてくる、コカコーラは骨を溶かすなど有毒説や太る原因説まで飛び出し、時代と共に徐々に甘い飲料は飽きられていった。

今では健康志向もあってか、コカコーラの自動販売機でも無糖のお茶などに人気がある。1960年代の若者はアメリカの文化に憧れてポップスを聴きながらゴーゴーを踊り、コーラを飲む事が流行った時代もあったのだ。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

春も本番となりいよいよ筍のシーズンである。竹かんむりに旬と書く筍はまさに旬の料理の代表でもある。毎年この時期になると我が家でも竹の子はよく食べる。しかし去年は不作で竹の子が食卓に一度も上がらなかった。今年は豊作なのか、竹の子の登場が例年より早く、先週もう竹の子料理をたべた。竹の子はなぜか人から頂くことが多い。いつも最初に人から頂く竹の子は大変ありがたいが、だんだんにそのありがたみ軽減していく。4,5回目にもなると湯がくのも大変なので、もらってもその辺に放ったらかしになる。

以前、浅草寺裏の小料理屋の前を通ると、店先で皮付きの竹の子を丸ごと七輪で焼いている。「あれ、竹の子って焼いて食べるの?」始めて見た光景だった。その匂いにつられて「珍しいから、試してみるか」と友人が言うので、店に入ってみることにした。さっそく竹の子焼きをオーダーしたが、焼いている時の匂いほどは旨くない。「なんだ、この程度か!」結局この店の惣菜は、そのほか何を食べてもあまり旨くなかった。それから後日に何度かこの店の前を通ったが、このシーズンいつも店先で竹の子を夕方焼いている。竹の子焼きは香りで客を釣る道具だったのか?我々のように匂いにつられる単純な奴も、結構世の中にはいるのであろう。

子供の頃、母親が竹の子を買ってくると非常に嬉しかった。竹の子ご飯や料理でなく、竹の子の皮が目当てだ!竹の子の芯に近い柔らかな皮を探し、梅干しを入れて皮で包む。そしてそれを角の隙間から「チュウ、チュウ」吸うと梅干しが少しずつ出てくる。竹の香りもしてこれが結構いけるのだ。最後に梅干しの浸み込んだ竹の皮をかじると、一個の梅でも長く楽しめた。今ではこんな食べ方はほとんど忘れられたが、竹の子を見ると思い出す。むかしの梅干は塩分が多く塩辛かった。そこで弁当には梅干を一個ご飯の真ん中入れると腐りにくく、その塩気でご飯も進んだ。

写真の皿に竹の子の煮物を盛り、山椒の葉をトッピング、グッド?(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

 

チャーハン

私が小学校5年生の春、父親がやっと結核で2年間の長い闘病生活のあと自宅に戻ってきた。元気になった父親は体力を回復させるために、より食べ物に執着するようになった。「なにか旨い食べ物はないか」と父親は私を連れ、好きな中華料理屋探訪をすることになる。学校が昼までの短縮授業でお弁当のない日、通常午後母親は納品で自宅にいない。そこで父親が私を自転車の後ろに乗せて二人で外食する。行き先は自転車で行ける範囲の市内の中華料理屋だ。よく行ったのが市川真間駅近くの50番、平田郵便局ななめ前の「万来飯店」(ここは当時、巨人に入団したての王貞治選手のおじさんの店で人気があった)それに本八幡駅近くの一番街にあった夕梅である。

「チャーハンは万来飯店が旨い!」と父親はいう。ここは中国人店主がつくる市内唯一の本格中華料理店だった。この店ではチャーハンには普通のチャーハンと五目チャーハンの二種類があって、具沢山の五目チャーハンにはほぐした缶詰の蟹がはいっていた。私はほのかに蟹の香りがして風味が良いと感じた。すると「違うんだよな?」と父が首をかしげる。「ええ?」と戸惑う私に、[違うんだよ、これじゃない!」。「いまのチャーハンはどの店に行っても、むかし食べたチャーハンと違って、あの独特の香りがない」そして父が「あの香りは麻薬だったのかもしれない」と冗談に続けた・・・。

それからその香りを求めて横浜の中華街にも遠路、家族で時々足を運んだ。しかし当時から有名だった聘珍楼、萬珍楼など、どこの店のチャーハンもあの香りはしないと言っていた。その父親も結局20年以上前になくなったが、中華料理の巨匠である陳健一さんがテレビで、以前「親父の作ってくれたチャーハンは香りがあって旨かった!あのチャーハンの味は今だに忘れない」といっていたが、もしかして?と思ったことがある。たかがチャーハン、されどチャーハンである。でも昔のチャーハンは普通の店でもちゃんと型に取り、グリーンピースが色添えにトッピングされていた。でもあのグリーンピース、どうして今のチャーハンから消えたのであろうか?

チャーハンは好きで今でも時々たべる。でも駅前の日高屋のチャーハンでは安いが、能書きのたれようがない。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

パニーノ

ペルージャからローカル列車に乗り、人家もあまりない田舎のテロントラという終着駅で降りた。ホームを移動しローマから来るの本線の急行列車に乗りかえる。その日は市場調査のためにフィレンッエを経由してミラノに向かう行程だ。コンパートメントの客室に腰をおろし外を眺めると、遠くの山並みの下に続く小麦畑は収穫時期を迎え茶色く色付き始めている。しかしこの小麦畑、日本と違いどこもかしこも真っ赤だ。雑草の赤いポピーの花が原因だが、このポピーの繁殖力はものすごく、ほとんどの畑が血の色に染まる!見ている分には綺麗だが小麦の収穫には相当影響するのではないかと思った。春のイタリアの田園風景はまさに赤、緑、白(畑、木々、空)の三色国旗の色である。

腹が減ったのでテロントラ駅の売店で買ってきたパニーノをかじるが、(パニーノとはイタリアのサンドイッチで、最近日本でもこの言葉は普通に使われ始めた)これが実に旨い。バケットの固いパンに薄い生ハムが5、6枚挟んであるいたってシンプルなサンドイッチだが、その塩加減と脂分が絶妙のバランスでよい。イタリアではどこのバールのガラスケースにもたくさん並んでいて、指を刺せば簡単に紙に包んでくれる。手軽に食べられるパニーノはイタリア人のオニギリのようなもので、もっとも人気のある食べ物の一つである。

出発から5時間かけてやっとミラノの中央駅に到着した。ここからミラノの繁華街、ドーモ周辺に向かうため地下鉄の駅を捜す。入り口の階段を下り切符売り場に向かい、自販機に小銭を投入し切符を買かった。財布をコートのポッケットに戻したその時だ!小学生低学年くらいのジプシーの子供達が勢い良く寄ってきて、あっという間に囲まれた!手にはそれぞれオフェルト(お恵みを)と書かれたダンボールを持ってる。そのダンボールをグイグイ私の体に押し付けてきた「何をするんだ!」と振り払うと子供たちは蜘蛛の子を散らすように立ち去った。余りにも一瞬の出来事なので、思考が完全にフリーズ。あわててポケットの財布を確認したが。「案の定ない!」でもこんなこともあるだろうと、財布には常に小銭しか入れてなかったので事なきを得たが、スリは財布の出し入れの場所を目で追っているので海外では特に気を付けたい。

パニーノは最近一部の日本人にも人気がある。でもパニーノは本場イタリアのプロシュートでないとあの味は出ない。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

包丁

このところ日本食は世界的に人気がある。そのため海外で日本食レストランを開業する外国人も非常に多いという。早朝の通勤時間帯によく会う、近所に住む浅草橋で刃物屋を商う知人に聞いた話だが、ここ数年急に和包丁を求める外国人が、彼の店のも多く来店するようになったという。十年前は和包丁が売れなくなり廃業も考えたと言うが、今はネットのくちコミを海外で見て店を知り、わざわざ直接尋ねてくるそうだ。そして友達にも頼まれたと、一本10万、20万の高い包丁を何本も買っていくらしい。こんなことならもっと若いとき、英語を勉強しとけば良かったと嬉しそうに話していた。

「和食は包丁が命!」切れが良くなければ始まらない。和包丁には根底に日本刀を作る刀鍛冶の高い技術と伝統があり、簡単に外国人が真似して作れるレベルのものではない。切れる包丁で切った刺身は角が鋭角に尖っていて、緊張感があり美しくさえもある。そのためには包丁と共に研ぐ技術も重要だ。研ぎ方一つで切れ味も全く変わるが、これが素人にはなかなか上手くできない。以前家業が日本刺繍の我が家では、反物を切る裁ちバサミは商売道具でよく使っていた。切れなくなると専門家に頼むのだが、当時は研ぎ屋さんという人がいて定期的に巡回してくる。

「ハサミ、包丁、バリカン研ぎー!」の口上と共に研ぎ屋のおじさんが、何本かの砥石の入った木箱を肩からさげ我が家を訪れる。庭にドッカと腰を降ろすと、子供たちが洗面器に水を入れおじさん差し出す。すると箱の上に砥石を置き「キーコ、キーコ」と研ぎ始める。私はおじさんのリズム感のある手つきをじっと見ていたが(何を思ったのかすぐ上の姉が)突然おじさんの顔を覗き込んで、「おじさんの顔って、鬼みたい!」と口走しった。確かに縮れ毛のその赤黒く日焼けした風貌は鬼そっくり!これを聞いたおじさんは苦笑していたが、私は下を向き笑いをこらえるのに必死だった・・・。それを窓越しに見ていた父親が「目配せをし、止めようと動作する」しかしすでに遅かった。そしておじさんが帰ると「あんなこと言うもんじゃない!」と苦笑いしながら諭す父に「だって鬼にそっくりだもん、しょうがないじゃない」と姉も笑ってこたえた。

写真は以前懐石料理を習っていた時の包丁セット。こんな包丁を鬼が研いでいたら本当に恐ろしい!(千葉県八千代地勝田台、勝田陶人舎)

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