粟
「月も朧に白魚の篝もかすむ春の空、冷てえ風にほろ酔いの心持よくうかうかと、浮かれ烏のただ一羽、ねぐらへ帰る川端で、竿の雫か濡れ手で粟・・・。ほんに今夜は節分か・・・。こいつは春から縁起がいいわえ」これは皆さんも良くご存知の歌舞伎の演目「三人吉三」お嬢吉三の名セリフだが、節分が近づくとなんとなくウキウキこの口上が頭をよぎる。昔あるとき父親が「お前、濡れ手に粟の意味分かるか?」と聞いてきた。父の説明によると「濡れた手で粟」とは濡れた手で粟粒の中に手を入れると、粟が自然に手にいっぱいくっいてくる。労せずして手に入はいという意味だといった。江戸時代は粟や稗は常食していた。しかし最近では五穀米以外めったにこの粟には、お目にかかったことがない。
ところでこの粟であるが、昭和40年代位まで日本各地の山間部では食べられていたそうであるが、現在では粟を常食することはまれになったという。粟は作付けが容易で冷害にも強く気候変動の激しくなる将来には、また粟の常食などを検討すべきではないかと思うこの頃である。粟も粟餅で食べるとけっこう美味いそうだ。京都には澤屋という有名な粟餅屋があるといい、ここの粟餅は絶品で是非一度食べたほうがよいとの推奨の声が多いが、機会があったら寄ってみたい。コウリャンは戦後食糧難の時代に配給になり、母親がパンにしたが幼児だったので喰い逃した。
私の父は大の歌舞伎好きであった。子供のころ父と風呂に入り湯船に浸かって気持ちが和むと、登場するのがこのセリフだ。何回も聞いていると私もこの口上をそらんじてしまい、父の真似をして口をひん曲げ、一緒に朗じていた。子供がこのセリフを役者の真似をして語るのを想像して欲しい。かなりおかしいと思う「しがねえ恋の情けが仇・・・・・」ほかには切られ与三郎のこのセリフも面白かった。ところであの黄色い小さな粟粒は我々の世代ではなじみが薄いが、いつか濡れた手で大量の粟粒の中に手をいれてみたい。いや宝くじでも買って労せずして大金が手に入れば、老後の生活も金色に輝くのだが!
写真は50年程前の秋田のなまはげのお土産節分なので乗せてみた。
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)
クワイ
クワイ
「クワイ、安いよ、安いよ、ねえー、クワイ買っておくれよ!」土手の上で元気よく通行人に声をかける。この通りは遊郭吉原に向かう道でいつも人通りが多い。ときどき浅草から吉原まで遠征し、農夫の目を盗んでは下の田んぼから勝手にクワイを掘り出し、並べて売って小遣い銭かせぎをするという。実はこの声の主は私の祖父である。祖父が子供だった明治初期、浅草寺裏手奥の吉原の回りはまだほとんどがクワイ畑などが広がる湿地だったとか。雷門の前に住んでいた祖父は幼児期からやんちゃで、いろいろなエピソードが語り継がれている。
7歳頃には頻繁に祖父の父親に「酒を買って来い」と使いに出されたという。当時酒は量り売りなので、三合徳利を持って酒屋に行くと顔見知りの店主に「おじさん、まけておくれよ!」と必ず頼むそうだ。そしてその帰り道に、そのまけてもらった分は自分で飲んでしまうという。当時の事で学校の規則を守らず小学校を退学になると9歳で家業に弟子入りする。そのご自分が後をとり成功すると日本酒の大樽を家に置き朝2合、昼3合、夜5合、一日に一升の酒を飲んでいたと言うから、私の酒好きなどまだ可愛いものだ。酒がないと手が震えて仕事が出来なかったそうで、完全なアル中である。
飯はほとんど喰わず、「酒は米で造るので食べなくても大丈夫だ」と言っていたいそうだが、深酒がたたり51才で亡くなった。平均寿命がどんどん長くなり人生百歳の声も聞こえる昨今では早死にである。その代わり昔の人は我々から比べるとみな早熟だと思う。祖父の二十歳、父の二十歳、私の二十歳、子供の二十歳。孫の二十歳、を世代ごとに比較をする、と同じ歳のイメージはどんどん幼くなっていくような気がする。人生太く短く、細く長く、でもその内容量が同じでは、長生きしてもつまらない。ゴム紐に目盛りをつけ引っ張るとどんどん伸びていく。しかし容量は変わらないただ長く伸びる人生では寂しい。内容や楽しみも倍にしたいものである。
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)
三越
三越
先日コレド日本橋に行ったついでにふと思いついて、日本橋を歩いて渡り三越本店に立ち寄ってみた。中央通りのライオン口から入店すると一階は化粧品売り場に多くの面積をさき昔の面影と大分違う。とりあえずエスカレターに乗り四階に上がってみたが、しかしどこを見回しても呉服売り場が見つからない。その階を一周してみるとやっと南東の片隅に呉服売り場を発見!「あれ、こんなに小さくなっしゃったのか」と驚く。五、六十年前私が三越本店を遊び場としていた頃は、四階は全フロアーが呉服売り場であった。当時と比較するとたったこの面積になってしまったのかと時の移ろいを感じた。
越後屋呉服店が前身の三越をはじめ、老舗の百貨店の多くは呉服屋で創業した。江戸時代から女性に呉服を売ることで発展してきた歴史がある。戦後しばらくしてから呉服が徐々に売れなくなると、洋装の販売に力を入れ売り場を拡張していく。そして海外の高級ブランドの需要が高まるとブランドのインショップを招きいれた。しかし昨今のように安物やネットに押されてブランドや既製服も売れなくなると「さて困った!何を売ればよいのか分からない」でもそのとき爆買いの中国人が大挙押し寄せる「よしこれで行こう」と免税店などを作り、売り場対応するも、あっという間に終息して次のテーマが見つからないでいる・・・。今の若い人たちはアマゾンなどのネットで物を買い、無店舗販売が主流となると店舗さえいらない時代になってきた。
最近百貨店ではスマホなどで商品の写真撮影が禁止になった。理由は写真で欲しい品を撮り、ネットで購入するからだという。百貨店は各メーカーのショールーム化しているのか?いずれにしても百貨店にとっては大変な時代になった。子供の頃から百貨店を見てきて育った私は百貨店には愛着がある。物販がだめなら飲食だけ残してオフィスビルに建て替えるか、テナントビルにしたらどうだろう?でも百貨店は買い物の楽しみや夢を売る商売である。地下と一階を飲食に、その上は温泉などのリゾート施設とスポーツ娯楽、観劇やカジノ、上層階は高級ホテルとかが良いのかも。いずれにしてもなんとか生き残りを模索して欲しい。
「今日は帝劇明日は三越」といわれた時代から百貨店が生活の基盤であった我が家では百貨店の消滅は人事ではない。
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)
夢
夢
写真は自作のファッション人形。直立できないので手すりによりかかるポーズにした。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)
思い出
思い出
「冨さん、この街ではこの曲、歌わないほうがいいわよ」突然のママの言葉に戸惑っていると「ほらさあ・・・、いろいろあるでしょう?」私が歌手伊東ゆかりの「小指の思い出」という曲をカラオケでリクエストした時のことである。まだバブルがはじける以前の話し、神戸の靴メーカーの社長と一緒に夕食の後、神戸三宮にあったアズサという行きつけのクラブに行ったが、この日は四席あるボックスは満席だった。席の空くのを待つあいだカウンターに腰掛けママと雑談中に、カラオケを歌う順番が来たので曲名を伝えた時の返事がこれだった。「無い人がけっこういるのよ」と小指を立てささやいた。そうだここは地元か!
かつてこの曲を店で歌い、その筋の人にいやみを言われた客がいたという。若いときからの伊東ゆかりのファンでこの曲は時々歌っていたが、考えてみるとこの曲は何か歌詞が変だ。「貴方が噛んだ小指がいたい、昨日の夜の小指がいたい」だいたい彼女の小指を噛む男などいるのか?よほど変わった奴だなそいつは!「そっと唇おし当てて、あなたのことを偲んでみるの・・・」まずい!確かにまずい、曲の裏に何かを暗示している。手足の一部などを失った人に聞くと、時々無いはずの部分が痛む時があるという。思い出されても困るので、それからこの曲を歌う時には周囲の状況などを、見回すことにしていた。
私の母親は京橋木挽町の生まれで家業は牛乳屋。子供のころ隣は博徒の親分の家であったと語り始めた。普段その夫婦は普通に生活していて、母親や幼い兄弟達を可愛がってくれていたという。しかしその家ではたびたび賭場を開いていて、母がたまたま隣家に上がりこんでその様子を見ていたときの事、突然何人かの警察官入り口を開け侵入してきたという。すると怒号を背にあわてて一目散に窓から逃げていく男達を見て、びっくりしたことがあったそうだ・・・。先日京成電車に乗ると痩せこけた老人が私の前の席に腰をおろした。白い無精ひげの顔から彼の手に視線を移すと、その左手の小指と薬指の第一関節が消えていた。「そうか、この老人も若い頃は相当ヤンチャであったのだろう?」と推測した。
今はその筋では落度があってもお金で解決、小指など落とさないという。
写真は母の思い出の品、三味線の本とバチです。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)