陶芸

最近器を作っていて、自分自身の思考や手が邪魔になると感じる事が度々ある。理想の形にしようと思考しながら手を動かしていると、ある所からどうしても通常のバランスへと、無意識に整形されていくのである。「こんな物AIロボットでも作れるよなあ!」と思いロクロの回転を止めた。人間が頭で計算し考えて作ったような物ではだめだ!「自らの思考の及ばない無作為な器が出来ないものかなあ」たとえば風が吹いて砂塵が舞い後に残る風紋、雨にたたかれ削られる岩肌、波が寄せては返す海辺に転がる石。いやもっと激しく火口から噴出すマグマが固まった溶岩でもよい。しかし課題なのは自然の営みが作り出す造形を、作品になかなか投影出来ないということである。

すると自らの意識と結びついた手は邪魔になる。上手く作りたいと思う気持ちもいらない。理想的には自分の手は天界のインスピレーションや偶発性とリンクされるべきで、それによって出来上がる作品は、当然自らの意識さえ及ばない世界から出てきたという感触である。それは自分で作ったが私の作品ではない。これからAI時代の到来では、潜在意識からの幻想が作りだす作品ならプロムラミング出来ないので、AIロボットにも勝てる!などと冗談に思いながら、一度仕上がった作品を壊したり、落としたり、叩いたり、乱暴に削ってみたりと出来るだけ、自己意思の管理から離れる器作りに思いをめぐらす。当然釉薬のかけ方も偶発的なバランスなどを狙う。

「ええ、こんな物まで正確に作れるのか?」数年前に立体コピー機が登場すると、私は手仕事の将来に不安を抱くようになった。各分野での職人達の知らぬ間にどんどんロボテクの技術は進んでいる。綺麗に正確に物を作ることなど今やロボットの方が早くて上手である。次第に手仕事もなくなるというが、中には手仕事の好きな人もいる。産業革命以降、内燃機関の進歩により人は肉体労働から徐々に解放されてくると、ただエネルギーを消費するスポーツが盛んになった。そして第4次産業革命と言われる人工知能とロボテクにより、多くの手仕事からも開放されるらしい。仕事は優秀な一部の人間とAIやロボットがやるから、一般人は邪魔だからただ遊んでれば良いというのだが?

未来を夢想しながら日々生活するのは楽しい。70年でこれだけ世の中が変わったのだから、加速度的に進む30年後が見てみたい!このブログも書き始めて早や1年、大分書き溜めたので今後は週2,3回のペースにします。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

コーンフレーク

蝉の声も消え秋本番になると、コオロギなどのバッタ類の出番だ。夜テレビなどを見ず静かにボンヤリとしていれば、虫の声も聞こえてくるはずだが最近では自宅周辺も庭木なども減ったのか、余り聞いたことがない・・・。昔は虫篭にキリギリス、マツムシ、鈴虫などを飼い、その虫の音を楽しむ人も多くいた。昭和の時代までは鈴虫を育てる人もいて、何匹か貰ったこともある。静かにその虫の音を聞いて季節のうつろいなどを感じていたが、最近では虫を飼う人など聞いたこともない。我々の子供の頃はキリギリスは縁日でも売っていて、父親が虫の音が好きで買って帰ったこともあった。当時はラジオを止めて、秋の夜長を虫の音を聞いて静かに過ごす、平安時代から続く風流心もまだ残っていた。

「チン、チロリン、ピッピ、ポー!」などと新種の虫の音と思いきや、これが全部スマホの呼び出し音だ。知らないうちに耳を澄まして聞くのは虫の音から、電子音へとすり替わった。今はどこにいてもその電子音に注目する意識がどこかにある。車内でも近くで自分と同じ着信音がなると、「あ、俺じゃないのか?」思わずバックの中のスマホを探り着信ボタンの点滅などを確認する。もう今やほとんどすべての人がスマホ依存症だ!あまりスマホの操作が得意でない私でさえ電話、メール、ライン、フェースブック、ネットのブログ・チェックと頻繁にスマホをいじっている。子供ですらオモチャの携帯電話から、今は本物のスマホを操る。

そうだ!子供のころ糸電話というものが流行ったことがある。(これを知っている人は、もうかなりのオールドヒューマンである)トイレットペーパーの芯のような丸くしたボール紙に、パラフィン紙を貼り付け真ん中に糸を通す。その二つを繋ぐ糸をピンと張ると、お互いの声が聞こえるというのだが何度試しても、ほとんど直接の声しか聞こえなかった。5歳でもスマホを操る孫に、この手作り玩具を与えても、たぶん何の関心も示さないだろう?そういえば最近は電話ボックスもほとんど撤去されて見かけない。公衆電話でさえ最後にかけたのは、いったい何時だったかの記憶も薄れている。自宅に固定電話を置かない若い世帯も多い。自宅の電話などほとんど不要!かかって来るのはセールスとオレオレ詐欺への誘いくらいだ。

先日の台風で私の住む市川市東菅野1丁目は久しぶりに朝6時間の停電をした。電気が使えないので朝食はこコーンフレークを食べた。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

鯖の味噌煮

日本が情報化社会といわれてから既に久しい。かつて情報はほとんどがマスメディアといわれる新聞、雑誌やラジオ、テレビで入手していたが、20年ほど前からはパソコンによるインターネットがそこに加わる。そしてスマホが新たに登場すると、このスマホでのインターネット利用が可能になり個人の情報収集は劇的に変化した。今や世界中の多くの人々が会社や組織とスマホで繋がっていて、世の中の情報のほとんど全てがスマホの利用で瞬時に取れる。そしてSNSの登場はインタラクティブ(双方向)のより綿密な対話などが、国や民族を超えて飛び交い、誰とでも友だちになれる環境が整えられた。

「アップルペン、パイナップルペン・・・!」でおなじみのピコタローさんはSNSに動画を配信したら、あの世界的なミュージシャン、ジャスティン・ビーバーの眼に留まった。チョウ面白いと彼がツイッターで紹介したのがきっかけに、海外で注目され短期間に世界中でブレイクした。あのトランプ大統領のお孫さんまでが、アップルペンを真似する映像が流れて注目された。今ではマスメディアを介さず全く無名の一個人が、突然世界中の人気者になる可能性もあるのだなあと、つくずく時代の変化に驚いた。「ネットって凄い!」取材を受けていたピコタローさんの弁である。

私が小学生の低学年の頃まで、わが家では食事は畳の上に丸いちゃぶ台を置き、車座に正座をして食事を取っていた。その時にちゃぶ台に肘を突いたり、行儀が悪いと父親の平手が飛ぶ!皆父親の前ではある程度緊張しながら食事を取っていた。当時は父親が情報源で子供達はその話に耳を傾けた。「朝鮮がとりあえず停戦したそうだ!」なんて理解できないが、その頃は父親が情報の中心にいた。それがテレビが普及してくると父親の席にテレビが鎮座し、ちゃぶ台からテーブルの椅子席に変わる。すると食事をしながらテレビに注目し、だれも父親の話をまともに聞いてない。これは家庭の情報源が父親からテレビという、マスメディアにすり替わった瞬間でもある。そして父親の威厳は情報発信の多様化と共に徐々に失墜していった。

魚嫌いだった父親が唯一好きだったのが鯖の味噌!ちゃぶ台を囲んで食事した記憶がよみがえる。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

ヤミ米

「天高く馬肥ゆる秋」いよいよ暑かった今年の夏も終わり、本格的な秋に突入してきた。「食欲の秋」とも言い涼しい季節になると食も進み、注意しないと馬と同じで人も肥える。熟年になると体の代謝が悪くなるのか、太るのは簡単だが痩せるのは難しい。健康志向の現代、ダイエットと長寿食材のテレビ番組も多く放映されているが、基本的には好きなものが腹いっぱい食べられるのは、良い時代なのであろう!先日テレビを見ていたら今年も北朝鮮では盛大に独立記念日が開催された。いつもながらの一糸乱れぬマスゲームや軍事パレードは見事であるが、よく見ると兵士や道行く人はだれもスリム!貿易制裁などにより食料供給も滞りがちで一般兵士さえも常に空腹状態だという。空腹だと闘争心が増し兵士は強くなるという。

「なぜ皆しゃがんで電車を待っているのか?」幼児のころ不思議に思っていた。日本でも戦後暫くは食うや食わずで皆さん痩せこけていて、駅のホームでも大人達がしゃがみ込んでいるのをよく見かけた。体力温存というより常に空腹で、力が出ないらしかった。活発な子供がしゃがんで元気がなかったら世の中もう終わりだが。親は子供に食べせるために空腹を我慢していたのかもしれない。当時各家庭には、身分証明書代わりにもなっていた米穀通帳というものがあり、これを提示して判を押されないと米を買うことが出来ない。米は法律で厳しく管理され配給制で、お金があっても正規のルートでは割り当ての量以外は手に入らなかったのだ。「白米を腹いっぱい食いたい!」誰もが思っていた時代もあった。

当然すきっ腹を抱えた子沢山の家庭では米が常に足りない。すると不正規のルートで米を入手することになる。あるとき我が家に3歳くらいの女児の手を引いてカスリのモンペをはき、やつれた顔のオバサンが重いお米を担ぎ売りに来たことがある。母親と値段の交渉をしていたが、高いので我が家では買うのを止めた。すると重い米を担ぎ、またトボトボとダルそうに背中を向け帰っていったが、突然連れていた女の子が振り向きざまに「あっかんベー!」目じりを指で下げ舌を出した。「こんちくしょう!」と思ったが目をそらした。(通称このような不正規の米を「ヤミ米」といい自分達の食べる配給米か、どこかで手に入れた米を高く売り歩く人もいた。)

この悲しい親子がその後どうなったかは分からないが、いずれにしても明日の糧もままならない時代であった。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

珈琲

最近道を歩いていてもタバコの吸殻が落ちているのを、余り見かけなくなってきた。行政でも駅周辺での喫煙によるタバコのポイ捨てなどに、罰金を課するところも増え、喫煙者もこのルールに従うようになってきている。それに日本では自宅の前の道路は自分達で清掃するという意識も高く、道路にゴミがあまり落ちてない。これには観光で来日する外国人も驚き、日本観光の魅力に一つになっているという。しかし喫煙者にとっては年々肩身が狭くなる一方で、くつろいでタバコが吸えるところなど、どんどん狭められている。へたなところでタバコを吸うとまるで犯罪者のような目で見られる。このままではタバコは「無人島にいって吸ってくれ!」などという冗談めいたキャンペーンも出かねない。

「もう、いい加減にしてよ。帰ってきた姉さんが、新調したばかりのピンクのスーツの後ろを見て立腹する!」そこにはタバコの焼け焦げた痕がくっきりついていたのだ。今では考えられないが戦後暫くは灰皿のない、国鉄の通勤電車の車内でもタバコを吸っている人がいた。それにより電車が揺れたりすると弾みで、衣服にタバコの火が触れる。また座席の布張り椅子のあちこちにも焼け焦げの穴があり、中のアンコも覗いていた。以前は新幹線の喫煙席の状況もひどかった。私は仕事でたびたび神戸に出かけたので新幹線をよく利用した。すると禁煙席が満席の場合や、連れがタバコを吸うとしかたなく喫煙席に座る。その車両はほぼ全員が喫煙者のビジネスマンで、競ってタバコを吸う。車内は煙で充満し降りたときには喉もガラガラのヘロヘロであった。

「冨さん、私も禁煙席の指定でいいよ!」ええ社長って、タバコ吸ってましたよねえ。「そうだけど、喫煙席に座っていると喉が変になるので、タバコを吸う時にだけ喫煙席に吸いに行くから!」とこんな身勝手なことを言う人も結構いたので、煙で喉ばかりか眼までおかしくなる状況であった。受動喫煙というがこれではまるで、肺ガン発生率を調査する実験室の中のモルモットという感じであった。ところが最近の車両は全部が禁煙車で何両かおきに、小さな喫煙ブースが設けられているだけだ。喫煙者は3人位しか入れない狭いブースで、申し訳なさそうに順番に急いでタバコを吸う。まるでトイレに行って用を足す感覚だ!

タバコといえばやはり相性が良いのは珈琲ですかね。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

© 2024 冨岡陶芸工房 勝田陶人舎