オソバ

本八幡駅を背中に一番街を右手に入った直ぐのところに、かつてユエメイという中華そば屋があった。一番街はあの高級イタリアンレストランチェーン・サイゼリアの一号店があった場所で、昭和30年代の中ごろまでは道路の片側にドブがあり、その店はドブ板の上に建っていた。今でいう屋台のようなカウンター席だけの粗末な店は、戸もなく垂れた暖簾を分けて席に着いた。でもいつも客で混んでいて、この店で出すオソバと呼ばれる中華そばがとてもユニークだった。「ええ、たったこれだけか?」出てきたソバを見てびっくり!ドンブリの中は透明な塩味のスープにソバと少量の刻みネギだけで他に具は何も無い。それでもスープの味が良く繁盛していた。その後一番街のドブに蓋が被せられ歩道になるとその店は、斜め前の店舗に移る。

子供の頃は父親と時々通ったこの店に、高校生になると学校帰りに友達と寄るようになる。当時は学生服を着たまま飲食店や喫茶店などにも入ったが、今のように厳しく注意されることもあまり無かったようだ。「オソバいっちょう、おつごう4ちょう」店はいつも混んでいて景気の良い掛け声が飛び交う。ただメニューはこの具なしソバと、何枚かのユデ豚が乗ったチャーシュウメン、それに餃子の3品だけだった。そしてこの餃子もまたまたユニーク!形が丸く中の具はウドン粉がほとんどで、噛むとモチモチで我々は餃子と言わずに団子と呼んでいた。この団子、焼くというより多めの油で揚げてある感じであった。

「おれ今朝、見ちゃったんだよなあ」学校に登校するとこの一番街を出た駅前のバス通りで、菓子屋を商う子息の友人がいう。「俺が早朝店から外に出ると、ゴミ置き場でユエメイの親父が八百屋の出したゴミをあさり、青いネギだけを抜き取っているのを見た。あれまさか刻んでソバに入れてねえよなあ?」という。そう言えば店のテーブルにはいつも器に入った青い刻みネギが置いてあり、サービスで自由にいれることが出来る。「そうか、だからあのネギはタダなのか」そう答えた私はそれからはタダネギはなるべく入れないようにしていた。この店は昭和の時代と共に20年くらい前に閉店したが、このオソバの味は今でも懐かしくもある。

戦後の昭和は良い時代だった。今日より明日はもっと良くなると思えた時代で、平凡な庶民でも夢と希望があったような気がする。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

カボチャ

誰にでも絶対に食べたくない食品は世の中に一つくらいはある。「すいませんお母さん、カボチャだけは勘弁してください!」長女の旦那がまだ彼女のボーイフレンドだった頃、自宅によく遊びに来た。母親が夕食のおかずにカボチャの煮物を作って、義兄に勧めた時のことだった。「戦後食糧難の時代に、カボチャは嫌になるほどたくさん食べたので見るのもやなんです」とはっきりと断った。普通状況を考えればお義理で一つぐらい食べるところを、よほど嫌いなのであろうか「カボチャはもう一生分食べたので、二度と食べないと誓ったんです」と義兄は続けた。彼はそれから今でもカボチャは全く食べないらしい。

戦後しばらくは、我が家の庭でもカボチャを作っていたことがあるという。狭い庭を耕しカボチャの種を巻くと農作業を知らない都会人でも、長く蔓が伸びてひかくてき簡単に収穫できた。でもこの頃のカボチャは和カボチャで、水っぽく非常に不味かった。戦争直後の家庭菜園での人気農産物はトウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモそしてこのカボチャであった。どれもみな今の品種ほど美味くはないが腹の足しになっていた。しかし特にカボチャは時代と共に旨くなってきている。どんどん新しいカボチャが品種改良されると、今では天ぷら、煮物、スープと何でもいける。ただ和カボチャは今でも相変わらず水っぽくて旨くない。しかしゴツゴツしたその形は絵に描くとおもしろい。和カボチャを見ると武者小路実篤の墨で描いた野菜の絵を思い出す。

ところでカボチャの語源は何か?カンボジアから渡来したからカボチャというが、その他ナンキン(南瓜)、唐茄子(とうなす)という呼び名もある。中国の南京から渡来したので南瓜、唐の国の茄子だから唐茄子。いずれの名も南蛮渡来ということだ。しかしカボチャの原産国はジャガイモ、トウモロコシやトマトと同じ新大陸で、メキシコあたりが原産だそうだが詳しくは知らない。また栗のようにホクホクして旨い栗カボチャは、非常に硬く包丁で切るのが大変だ。女房には「カボチャ切ってよ」と頼まれたこともあるが、「俺だって切りたくない」と呟くもしぶしぶ受ける。「いっそうの事、ナタで叩き割ったら」ということで別の名を、ナタカボチャとも言う。今ではカボチャは食いたし怪我は怖し。

先日むかし薪割りに使ったナタを古い道具箱の中から捜してみたが、もうとっくに処分したようで見つからなかった。今ナタを知らない若い人も多く、キャンプ場以外では使用することもないのでは。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

カツ丼

「伸ちゃん、伸ちゃん!ほら見てごらん。永井荷風が歩いてるよ!」突然、一緒に歩いていた母親の声に促された。前方を見ると背の高い男が大またで闊歩して、通りを横切って行く。[永井荷風ってだれだ?」まだ幼児だった私は戸惑ったが、その時の荷風の風体が妙に脳裏に焼きついている。(黒い帽子に丸メガネ、インバネスケープを羽織り、下駄履き、足元からは股引きがチラリと覗いていた)それから学校に通う道で何回か見かけたが、暫くすると彼は自宅の近くから駅近の別の場所に引っ越したと聞いた。今この八幡小学校の前の通りは、荷風通りと名づけられている。

そして小学3年生の頃だったか?学校の校庭に突然たくさんの報道陣の姿が「何があったのだ?」いぶかしげに眺めていると、永井荷風が亡くなったと聞かされた。「なんだ、荷風はあれから八幡小学校の隣に越したのか?」別に興味もなかった。(やんちゃだった私はその後、文学などを読み漁る内向的で本好きの青年になるなどとは、当時は夢にも思わない)この荷風が亡くなった家のすぐ近くの京成八幡駅前に、大黒屋という一軒の割烹料理屋がある。ここに荷風は毎日のようにやってきては、いつも同じ席に座りカツ丼を食べていたと言う。私も何度かこの店に入ってカツ丼を食べてみたが、特に変わった仕立てではなかったようである。

別に荷風にあやかろうとしてる訳ではないが、実は私もカツ丼が大好きだ。蕎麦屋に入ってもザル蕎麦でなく、ついカツ丼を注文したくなる。せっかくカロリー摂取を考え蕎麦屋に入るのに、カツ丼では逆の結果に終わってしまう。じっと我慢するが他の人がカツ丼を食べていると、どうしても視線がそちらに向かってしまう。「だったら、荷風のように毎日カツ丼喰ったら良いじゃん。そんなに長生きしたいのか?」と心の中から私を誘う声がきこえる。「うーん、どうだろう」でもこのあいだ晩年の荷風を見たと思ったら、あっという間に白髪頭に「人生なんてやはり一瞬の幻影だなあ」荷風が通ったこの大黒屋も、つい最近店を閉めた。昭和もどんどんと遠ざかる・・・。

カツ丼は人気メニューのわりには専門店がない。味噌カツドン、ソースカツド丼とイロイロなカツ丼をセレクトできればカツドンを食べる頻度はますのだが。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

マヨネーズ

マヨラーという言葉を最近よく耳にする様になった。この言葉はご存知のように、何の料理にもマヨネーズをかけて食べる人のことを言うらしい。コンビニの軽食にはサンドイッチを初め、海苔巻きやオニギリにまでマヨネーズが入っていて、よく見て買わないとどれも同じ味になる。昔の感覚では「オニギリにマヨネーズはないでしょう」と思うがこれが結構売れてるようで、マヨニーズの入ってないオニギリの方が種類が少なかった。日本人はいつ頃から、マヨネーズをこのように愛するようになったのか?少なくても我々が子供の頃は、ケッチャップはあったがマヨネーズは余り見かけなかった。私の記憶では60年代の東京オリンピック前後にご飯と味噌汁の朝食からパン食に移行し、ハムやソーセージと生野菜のサラダを合わせるようになってからだと思う。

「冨岡君もうすぐお昼だから、一緒に飯食っていきなよ!」大学を卒業して、一時勤めていた原油輸送会社のタンカーの船長が、積荷の重量検査で船に乗り込んだ私に声をかけてくれた。「ありがとうございます!」と礼を言い小さなタンカーの狭い船室に移動して、何人かの船員と車座に座り世間話などをしながら、小さな厨房で機関長の男性が手早く作る昼食を待っていた。すると出てきましたよ凄い野生的な男の料理が!皿にトマトと粗く切った生野菜、そしてその横には茹で上げただけのスパゲッティーの大盛りがのる。ミートソースの代わりなのか「たっぷりのマヨネーズをかけて食え」という。そして船長が私の皿にわざわざ大量のマヨネーズをかけてくれた。フリーランチなのでありがたく頂いたが、味はご想像におまかせする。でもこれぞ半世紀前の究極のマヨラー料理だった!

マヨネーズはフランスの肉料理用のソースの一種が基だというが、日本では大正14年にキューピーが発売したキューピーマヨネーズが元祖だそうだ。当時は原料のタマゴが高く、はじめは高価で生産量も微量であったらしい。しかし戦後暫くすると徐々にタマゴが安くなり、価格が下がり消費が増えていく。すると需要増を見込んで、1968年に味の素が全卵タイプのマヨネーズで新規参入する。これで競争がいっきに激化し、お互いより旨いもを作るためしのぎを削った。それに容器のチューブも、どんどん便利で使いやすいものに変わっている。でもこのマヨネーズ欧米ではほとんど料理に使っているのを見たことがない。

マヨネーズは日本で独自に進化し、味や用途も別物になった。今後日本の味として世界中に広まる日がくるかも?

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

山椒

工房のお隣さんの庭に何年か前まで山椒の木が一本植わっていたが、ある時突然枯れた。原因は分からないが、山椒の木はなぜか突然枯れることが多いらしい。しかしその木から山椒の実が庭に落ち、小さな実生の木として工房のあちこちで新たに芽を吹いている。山椒はミカンと同じ柑橘類なので、植えてから実を結ぶまで年数がかかる。青虫に食べられることも多く、ほとんどが実をつける前に枯れる。ところでスパイスとしての山椒と、日本人との関わりは非常に古く縄文時代の貝塚からも、山椒の実が貝殻と一緒に出土するという。古来より縄文人も土器に貝や魚などを入れ煮炊きし、薬味に山椒を使用していたのであろううか?

「山椒は小粒でぴりりと辛い」とは体が小さくても才能や力量にあふれ、侮れないと言う意味である。この諺どおり山椒の実は少量でも脂肪分の多い料理に入れると、そのスパイスとしての本来の役割と共に、薬効として新陳代謝を高める働きがある。病気に対する免疫力アップや胃もたれ、冷え性の改善などいろいろな効果が期待できるという。私も山椒の粉を焼き鳥や牛肉料理にも振りかけて使うが、唐辛子より辛味も上品で香りも良く料理の質を高める。「それは驚き、桃の木、山椒の木だねー!」などと驚いたときに昔はよく使ったが、最近ではこの言葉も余り聞かなくなった。この言葉は地口といい語呂あわせで特に深い意味は無いと言う!「それは驚き、桃の木、山椒の木。ブリキ、タヌキにガンモドキ」などと、かってにあとに続けることができるという・・・。

「それは驚き、桃の木、山椒の木。ヒノキにスギノキ、花粉の木」だよな私なら。毎年春になると多くの人が花粉に悩まされる。戦前に杉の木がたくさん植えられた日本の山々は、そのご杉は木材として利用されずにほったらかしになった。(お山の杉の子の歌を歌って、戦前に皆で一生懸命お国のためにと植えた杉の子は、70年経過して大きくなったら全くの疫病神)当時の人々が後世のためにと、汗水たらし頑張った自分達の行為が、その子孫には迷惑千万である。もし彼らが聞いたら「これは驚き、桃の木、山椒の木だね」いま日本の林業は衰退し崩壊寸前になっている。熱帯雨林の伐採をともなう洋材の輸入などをやめて、日本の杉材を伐採しパルプとしての使用を高めれば、花粉症に悩む人も減ると思う。

少し変わった写真の植木鉢を作り、実生の山椒の苗を移植してみた。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

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