ローストチキン

私がまだ5歳ぐらいの頃であったか?市川市本八幡の映画館に両親に連れていってもらたった事がある。その時代の映画は全てが白黒画像でまだカラーという言葉もなかった。「総天然色!どんな映画なんだろう?」両親も興味があったのであろう、普段はあまり一緒に同行しない夫婦が、その時は私も連れて映画を見に行くことになった。その映画館で初めて放映された総天然色映画は、アメリカの洋画でその美しい画像には感激したが、内容は若い男女のラブロマンスだったと思う。「ええ、なんでアメリカ人はあんなことするのか?」たびたび登場する始めて見るキスシーンには照れくさく、子供ながらに非常に困惑したのをおぼえている。

映画の内容は断片的にしか憶えてないが、まず若い男女が真っ赤なオープンカーに乗り郊外にドライブに行く。車が視界の開けた広い緑の高原に出ると二人は車から降り、木陰に陣取りランチの用意をする。シートの上に腰をおろし持ってきたランチバスケットの蓋を開け食べ物を取り出した。まずはサンドイッチ、[おおー、旨そう!」次に取り出したのが、鶏のモモのローストチキンだった。これの足を持ってガブリとかじりつく、「ううん、もうだめだ完全にノックアウト」状態になった。総天然色なだけに映像が恐ろしくリアルで、空腹を抱えた子供には刺激的である。まだ戦後の食糧難の時代、このシーンは私の脳裏に深く焼きついて離れなかった。

いつか自分もローストチキンの足を持ち、モモを「ガブリ!」と丸カジリしてみたいと思い続けた。でもその夢がかなうのはそれから大分後のことである。時代も進むと日本でもクリスマスなどにはローストチキンのモモが一般家庭でも、一人一本食卓に上がることも珍しくなくなる。自分の子供世代になると始めは喜んでいた鶏のモモもいつしか手に取らなくなり、孫の代では見向きもしない。私が小学生のころ親が結婚式に呼ばれると、引き出物に料理の折り詰めを貰ってくる事もあった。その中にローストチキンも入っていると、喜んで一本のモモを子供達4人で分けあって食べた。でもその時ばかりは、一人っ子がとても羨ましく感じた。

旨い食べもに執着していた幼年期を送ったせいか、何をどこで最初に食べたかの記憶がいろいろある。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

塩鮭

大きな黄銅色のアルマイト製の弁当箱にビッシリ詰まれたご飯の上に、ベッチャリと鮭の切り身が一枚乗っただけの美しい鮭弁当!(アルマイトとはアルミニュームの表面を強くするために陽極酸化皮膜を作る処理という。弁当箱やヤカンに良く使われていた)これはむかしドカベン(土方の弁当)と呼ばれ力仕事をする労働者の定番弁当であった。冷凍設備もろくにないこの頃の塩鮭は、保存のためとても塩が濃い。焼くと鮭の切り身から塩が白く粉を噴く。塩が多いので夏場、鮭をご飯の上に乗せると腐りにくく、同時に塩分も取れるので汗をかく仕事師には最適であったのだ。

「おかあちゃん。これって鱒じゃないの?」そもそも魚嫌いであった私は、油っけの無いパサパサな鮭の切り身が子供のころ食卓に並ぶと、こう言って母親に難癖をつける。当時私の認識では切り身が大きく油の乗っているのが鮭、切り身が小さく油が無いのが鱒と単純に感覚で区分けしていた。(海で取れるのが鮭、淡水の湖や川で取れるのが鱒と思っていた)この言葉を真に受けた母親は翌日魚屋に行くと「昨日の鮭!あんたが鮭だというから買ったのに、これは鱒だと息子が怒っていたよ。だって油が無かったもん」と文句を言う。すると魚屋は「いや、あれは鮭です」と断言したというのだが、鮭と鱒の違いがそもそも良く分からなかった。

今話題の大谷君が大リーグのエンジェルスに移籍して大活躍している。日本人としては嬉しい限りだが、同じチームにトラウト(鱒)という名の好打者がいる。「トラウトか?だったらサーモンという名の人もアメリカにはいるかもしれないな」とかってに想像しながら野球中継を楽しみに見ている。アメリカでは川で取れるのがトラウト、海でがサーモンと呼んでいるというのだが日本では樺太マスなど、海でとれてもマスと呼んでいることもあり明確に分けてはいない。元来サケとマスは種としての違いは無いらしく、ネットで調べてもいまいちはっきりしない。ドカベンといえば水島新司の野球漫画が有名で「週間少年チャンピョン」連載され一時非常に人気があった。

写真の器は工房の会員、橋本美智代さん作。形が面白いので掲載しました。ここに鮭の切り身を乗せたいそうですが、鯛の刺身でも良いのでは?(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

コロッケ

[コロッケ2個、ソースかけてね!」自転車を降りたち寄った肉屋で一個10円のコロッケを買う。あたりは暗くなってきたがこれは夕食前のオヤツだ!中学生のころ通っていた中山法華経寺近くの塾からの帰り道、食べ盛りだった私はコロッケを揚げる臭いのする肉屋の前を素通りできない。家に帰ればじきに夕食だというのに、その時はすきっ腹が我慢できなかった。当時は乾物屋と同様に肉屋もあちこちにあった。そしてその店頭ではどこもコロッケやハムカツなどの揚げ物をあげている。ハムカツはほとんどがパン粉のついたコロモで中のほうにウッスペラなソーセージハムが申し訳程度に挟まっていた。噛むと揚げた硬いコロモで上顎が傷つきそうになる。でもその匂いに吸い寄せられて、つい自転車のブレーキをかけることになるのだ。

受け取った揚げたてのコロッケをその場で食べると実に旨い。しかし中身はほとんどがただの潰したジャガイモだけで、他には何も入っていない。肉かな?と思ったらジャガイモの皮だった。ジャガイモだけの真っ白い中身では格好が付かないので、意図的に小さいジャガイモの皮を色添えに混入させていた。「この野郎、ダマシやがって」とつぶやく。ごく少量の挽肉も入っていたようだが、(砂山で探す、宝探しのようなもの)ほとんど見つけることは不可能である。イモだけなので子供達はコロッケと言わずに「イモッケ」と呼んでいた・・・。今はマックなどのポテトフライが大人気だが、(ポテトフライは世界中の人々が食べている)コロッケもポテトフライも材料はほとんど同じ、揚げたジャガイモを人類は好むということかなあ。

工房に通う帰り道、バス通りの手作りパン屋では度々特売日が開催される。店頭では臨時に唐揚げ、メンチカツ、コロッケなどの揚げ物をイベントで安く売る。通りすがりに好きだったコロッケが目に入ると「50円か、安いなあ」でも他にパンなどは買う気もないし、いい年したジジイが「百円でコロッケ2個とは、とてもカッコわるくて言えねえよ」心の中でつぶやき、通り過ぎるが未練がましく立ち止まり後ろを振り返る。「やっぱ、だめだ!」やめとこう。後ろ髪を引かれる気分だが足早に去った。でもいくつになったら「沽券に関わる」などの思いを棄て、お姉さん[コロッケ二つ!」とかわいらしく言える、素直なジジイになれるのであろうか?

子供の頃に好んで食べたタベモノは年をとっても余り変わらないようである。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

鯨のベーコン

 

「へーえ、こんなに薄っぺらいのが、この枚数で千円もするのか!」思わずつぶやくが迷ったあげく、それを手に持つ籠に放り込む。今夜はこれをツマミに冷酒でも飲むか?鯨のベーコンは最近スーパーでもあまり見かけない。それにしても凄く高い、千円で紙のように薄く小さなベーコンが4,5切れだ。「今では全く高級品になってしまったよなあ」我々が子供の頃、鯨のベーコンは安価で乾物屋で30円も払うと、一人では食べ切れない量たった。黄色く半透明で脂分のあるベーコンはベッコウ色で、真っ赤な食紅で色付けされた淵との色のバランスも良く、美しくさえもあったのだが。姉達や両親も気持ち悪いと食べないので、私はわざわざお金を貰い自分で買いに行っていた。

「なんでそんな物、旨いの?あんたの味覚どうかしてるよ」家に帰り包みを開けると姉達に言われたが、横から取られることもないのでゆっくりと食べた・・・。捕鯨が禁止されて久しい。鯨の取りすぎで個体数が減り絶滅が心配された鯨も、シロナガスクジラ以外は近年、むしろ増えすぎて困る状況でもある。適当に間引かないと子魚を食いつくし漁業にも影響が出るはずだ。しかし捕鯨の解禁とはならず、逆に調査捕鯨すら禁止される状況になっている。鯨はウオッチイングなど、優雅に泳いでいる姿を船で見る観光資源で、食料ではない!との認識も強まり食卓から完全に消えてしまう日も近いのか。

アメリカでも以前は食料としてでなくランプの油に使用するためだけに、太平洋で多くの鯨を殺していた。しかし石油に取って代わると、近年では全面捕鯨禁止を主張する。「鯨を殺して食べるのは残酷で、野蛮だ!」オーストラリアなど鯨を食べる食文化の無い国や、海の無い多くの国々は叫ぶが、「だったら牛や豚は可愛そうじゃないのか?」ということになる。「牛や豚は食べてよいとちゃんと聖書に書いてある、でも鯨は書いてないのでだめだ」まことに勝手な理屈である。それでは仏教の経典には「牛や豚など四足は食べちゃだめだと書いてあるが、鯨は足がなく魚なので食べてもいいと書いてある」と主張してみたらどうか。日本の食をしっかりと支えてきた鯨食の文化、なくならないで欲しい。

最近日本は国際捕鯨委員会からの離脱も検討しているようである。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

ソフトサラミ

列車がゆっくりと国境近くの操車場に入って行く・・・。もう二日間、モスクワからウィーンへ行く国際列車の寝台車の中で缶詰めだ!さすがに疲れてきたが、オーストリアのウイーンまでは、まだ丸一日の行程が残る。寝台車は四人部屋でモスクワから同行の山本君と、祭司服を着た二人のイタリア人神父さんである。食堂車のついてない車内での食事はそれぞれ別で、私はモスクワや途中駅で買ったパン等をかじる。一方神父さんの食事は豪華だ!持参した硬そうな丸パンとチーズやハムなどを切って食べている。なるべく見ないようにしていたが、貧乏そうな日本人の若者達が可哀そうだと思ったのか?その中のソーセージを切り分けてくれた。

「へー、これ最高に旨いねえ」山本君と顔を見合せてニッコリ。なんていう名のソーセージか分からないが、魚肉ソーセージくらいの太さで白っぽい色をしていて、味は柔らかいサラミのようだった。言葉が通じないのでとりあえずグッドだと礼を言った。「しかし何やってんだ、早く出発しようよ」列車の窓から下を覗くと、ソ連とヨーロッパでは軌道の幅が違うらしく、左右から伸びたアームで列車を持ち上げ車台を交換している。「なんでこんな大変なことをするんだろう?」隣にヨーロッパの軌道の列車を横付けして、乗り換えればすむことなのになあ。もう車台を変えるのに3時間もかかっている。

やっと作業は終了したらしく、列車が再び走り始めた。ヨーロッパに入ると徐々に風景が違ってくる。ソ連は平坦な白樺林が何処までも続き、家も少なく変化がまるでなかった。しかしヨーロッパに入ると山間部が多くなり、赤い瓦の家々が点在し、まるで絵葉書を見ているようで美しい・・・!いよいよもうじきウイーンに到着か。気持ちは高まるが、不安感も増してくる。スペインへ行く山本君ともそこでお別れだ。いよいよ見知らぬ土地で、異人種の中での一人旅が始まる!でもウイーンからパリまでは、また列車を乗り換えて丸一日もかかる。

半世紀近く前、ソ連経由でパリに向かった時の思い出。6年後イタリアで生活し、もう一度食べてみたいとあのソーセージ探してみたが、見つけられなかった。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

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