牛鍋

「やだーこれ牛肉?気持ちが悪いから早く捨ててらっしゃい!」これは父親に聞いた話だが、明治末期に私の父は両親、兄弟、祖母の8人で浅草寺雷門前のしもた屋で暮らしていたという。その浅草では当時牛鍋を食べることが庶民の間でも流行り始めていて、時々出入り職人から牛肉の差し入れがあったという。しかし祖母は安政の生まれだ。四足など牛肉は人間の食べ物ではないと思ってる。「ありがとう御座います」と笑顔でその土産を受け取るが、客が帰ると母親を呼びつけ直ぐに処分するよう命じたという。しかしもったいないと感じた母親は捨てたふりをし、密かに醤油と砂糖で煮付けた牛肉を甕に入れ床下に隠したという。

「竹ちゃん、ちょとおいで!」小声で母親から手招きされる。「なんだろう?」といぶかしげに台所に入っていくと、「おばあちゃんには絶対に言っちゃだめだよ!」とくぎを刺された。すると母親は床下貯蔵庫の板をはずし、隠していた甕をゆっくり取り出したという。そして「ほーら、手を出してごらん」と牛肉一切れが手のひらに乗せた。促されるままに恐る恐る口に運ぶと、「がーん、何だこれ!」芳醇なその香りと味に仰天だ。「これが牛肉か?」初めての牛肉の味にとりこになり、それは一生忘れられない瞬間となったという。それいらい父親は牛鍋の虜になり、老齢までつづくのである。

牛鍋好きの父親はわが家でも良くすき焼きをした。すると鍋奉行はいつも食通だった父親の仕事だ!醤油と砂糖の分量などにも何かとうるさい。牛肉はわざわざ浅草まで誰かが買いに出向き、チンヤやマツキの牛肉専門店でないと気に入らなかった。私も浅草に仕事場があり通勤していたので、たのまれてマツキで牛肉の買って帰ったこともある。当時でも地元の肉屋では旨い牛肉がないと父親は言っていたが、その地元肉屋も今ではほとんどが店を閉じ、最近ではスーパーの肉売り場でのラベル表示の判断や見た目で牛肉を買う!現在全ての分野で専門店が消えて行き、人々のこだわりも希薄になる。「適当でいいや」とあまりコダワリもなくなり食文化の平準化が進すむと、日本人の味覚も退化する!

新年の豊洲の初せりでは、大間産の巨大なマグロに3億3千万の値段が付き話題となった。でもこの光景が海外のテレビでもニュースとして放映されていたので、確かに宣伝費とみれば安いのかもしれない!

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

海苔弁当

「ぷーんと香りが漂う!」授業も4時間目になると腹が減る。私がまだ小学校にかよっていた当時、寒い冬には教室の暖房は鉄の鋳物のダルマストーブが使われていた。今では全く見ないダルマストーブとは、その名のとうり丸い形をした石炭やコークスをくべる旧式のストーブだ。子供が近寄ると危険なので回りには金網の張られたフェンスが置かれていた。そしてこのフェンスにはお弁当を温める棚がついていて、希望者は弁当をそこに乗せ暖めることができた。しかし昼が近づくと温まった弁当から臭いが漂ってくる。私の嫌いだったタクワンや魚の臭いもして、なんとく弁当の中身が想像できた。でも腹も減ってきて正午のベルが待ちどうしく、気も散って授業などは聞いていなかった。

そして当時弁当の定番はやはり海苔弁だ!弁当のご飯の上に醤油をつけた海苔がベッタリと乗っかる。でもこの海苔弁には欠点がある。逆さまになると蓋のほうに海苔が付いてしまい剥がすのに往生した。そのために二段に飯をつめ真ん中に海苔を挟むなど、いろいろ各自が工夫をしていた。いずれにしても今の子の綺麗で可愛いキャラ弁当などはない。ご飯の上に鮭の切り身や鰺の干物がベッタリと載ってたり、美的センスのないユニークな弁当も多かった。私も小学生の低学年の頃は、ドカベン型の小さな金色のアルマイトの弁当箱であったが、高学年にもなると新しい弁当箱も登場する。ブック弁当という名の弁当箱は本のように幅広で薄め!おかずとご飯の間に仕切りもあってカッコイイので、あっという間にクラスに広まった。

われわれが小学校卒業間際になると急激に世の中が変わり始める。都内に遅れて八幡小でもやっと完全給食となり、お弁当を持参せずによくなった。このとき初めてのメニューをなんとなく憶えている。確か?丸いパンが2個、鯨肉の竜田揚げ、炒めた野菜、みかん一個に、八千代牛乳一本。「へー、脱脂粉乳でなく、給食に牛乳一本つくのか!」これには驚いた。テレビや電気冷蔵庫、洗濯機なども各家庭に普及し始め、日本もだんだん豊かになってきらしい。これでやっとあの脱脂粉乳から開放されるのか?どの顔も笑顔だった。そして校庭の隅にはプールの工事も始まり横目で見ながら帰宅するも、完成は卒業の翌年であった。

たまにテレビなどで今の小学校の給食をみると豪華なので驚く!今日本の給食は栄養バランスなどもよく考えられており、海外でも非常に注目されているという。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

ネギマ

毎年新年になると築地の市場では初競りが行われ、いつもあのスリムでハンサムな回転寿司の大将がマグロを高額で競り落とすのが恒例になっている。去年築地市場は色々課題を抱えながらもやっと豊洲に移っていった。新市場での初競は特に御祝儀相場となり、一本の大マグロに数千万から憶の値段がつくことがある。バカらしいと思うが、マスメディアのニュースに乗るので宣伝費と考えれば安いともおもう。でも従業員からすれば「その金ボーナスに回してよ」などと言いたくもなる。マグロといえば先日、居酒屋で久しぶりにネギマを食べた。ところがこれが全く旨くない!子供の頃、母親が作ってくれたあのネギマとは全く別物で、油分が無くパサパサだ。どうせ安いキハダマグロのブツなどを使っているのであろうか?

私の子供の頃のネギマはとても旨かった!当時マグロはたくさん水揚げされ値段も安く、我が家のネギマには本マグロのオオトロが使われていたのだ!その頃オオトロは刺身のネタでなく、主に煮物用として売られていたようである。冷凍技術の良くない時代オオトロは赤身よりも傷みが早く、刺身に向かなかったのかも?でも脂肪分の多い大トロは油っこく、当時の人には好まれなかったのも確かだ!マグロは赤身が上等で腹にいくほど味が下品だと親からも聞いたことがある。でも大トロをネギと煮るネギマは実に旨い!身が柔らかで油分が多く口の中でとろける。しかし子供の頃あんなに旨かったネギマだが、その後歳を重ねる程にだんだんまずくなる。

時代が進むと日本人の味覚が変わり始め、肉食の頻度の増加などから徐々に脂肪分の多い食品を好むようになる。するとマグロも赤身よりトロのほうが人気が出てきて、赤身との価値が逆転する。それとともにオオトロの安い煮物用ブツなどは魚屋の店頭から消えてていった。母親に「最近作るネギマ旨くない」と文句を言ったら、「そうね、昔みたいな脂の乗ったブツが売ってないのよ!」との返答だ。最近あの頃のオオトロで作ったネギマを食べたいと思うこともある。でも本マグロのオオトロなど高額だ。するとオオトロで作るネギマは今後も食べる機会は無いかも?戦後食糧難の頃わが国の漁船は太平洋のいたる所へ、マグロを捕獲に出かけた。するとあの第5福竜丸がビキニ島近海でフランスの核実験に巻き込まれ、放射能を浴びたマグロは原子マグロと呼ばれ話題となった。

わが家では床の間の花活けも私の仕事。後ろの地味な掛け軸は矢野橋村作です。今年は喪中なので新年の挨拶は省略します。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

飽食

私は週に4,5日は早朝6時半には自宅を出て工房に向かう。暮れも押し迫ったまだ薄暗い住宅街の道は人通りも少ない。「カアー、カー!」するとゴミ集積場には、もう2,3匹のカラスがゴミ袋を口ばしで探り仕事開始!一生懸命ゴミ袋を破こうとしている。私が立ち止まり一瞥するとカラスも首をかしげ睨み返すが、とりあえず身を翻し高い所に退避する。「この野郎、全くしょうがねえなあ!」とつぶやきゴミ置き場を通り過ぎ後方を振り向くと、素早く降りてきて直ぐに仕事を再開。旨そうな残飯を引きずり出す・・・。今の家庭からは大量の食べ残しの生ゴミが出る。そのうえ食品を扱うコンビニやスーパーからは、賞味期限の切れた食品も大半が処分されるというが、真にもったいない話でもある。

ここで昭和20年代の頃を少し振り返ってみると、当時は生ゴミなどの問題はほとんど存在しなかった!食糧難で食べを残す程の食材が簡単に手に入らない。そこで必然的に食料は全て余すとこなく食べつくす。蒸かしたサツマイモの皮まで拾って食べていた子もいたくらいで、生ゴミとして出るのは卵の殻、茶ガラ、みかんの皮や種、などごく少量だった。行政もゴミの収集車などあるわけないので収集は行わない。わずかな生ゴミは自宅の庭のすみに穴を掘って埋めていた。するとこれが庭木の飼料にもなる。再生できない汚れた紙類などは庭で燃やすが、プラスチック製品などはまだ世の中に存在しなかったので環境問題もない。

「クズーい、お払い!」と言いながら、リヤカーを引き時々クズ屋がやって来る。これは今で言う資源ごみの民間回収業者だ。物資の乏しい時代、金になりそうな鉄や銅などの金属、新聞や本などの紙類、ビンなどのガラス等とりあえず再生できるものは何でも買っていく。値段は重さで決め、今では全く見なくなった分銅のついた天秤量りで物を吊るして量った。20、30円単位の売値だがこれが結構子供の小遣い稼ぎになる。だから当時は舗装されていない道を裸足で歩いても怪我の心配も無い!鉄くずなどは釘一本落ちてなかった。それから時代も過ぎ昭和30年ぐらいになると、各戸にゴミ箱が供えられるようになり、行政がゴミを収集を始める。でもビニールゴミ袋の登場にはそれからまだ暫くの時間がかかった。

今年も明日は大晦日、これが本年最後のブログとなります。今年もご愛読ありがとうございました。では皆さん来年も宜しく、良いお年を!写真は自宅にある1世紀位前のノリタケ(日本陶器株式会社)輸出用の絵皿です。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・富岡伸一)

 

 

コーヒー牛乳

「そういえば、自分が始めてコーヒーを飲んだのはいくつの時だったけ!」と急に思い立ち記憶をたどることにしてみた。歳を重ねてくるとだんだん朝起きるのがはやくなる。早朝2時半にもなると自然と目覚める。布団の中でグズグズしていても時間が貴重なので着替えをし、階下の居間に降りていく。そしてテーブルの前に置かれた椅子に腰かけとりあえずテレビスイッチをつける。そしてここでお湯を沸かしまずはブレークタイム、必ず熱いコーヒーをコップに注ぐ。さてと当然戦後暫くはコーヒーなどの嗜好品は、外貨の無い日本では通常輸入されるはずも無く、戦前を知らない我々子供達はその存在すら知らなかったはずだ。

昭和30年前半まではどこの家庭でも内風呂などはほとんど無く、多くの人が銭湯に通っていた。そして小学生の3,4年生にもなると銭湯へは親とは別に行く事が多くなる。夕方遊び疲れて帰宅すると「体が汚れているから先に風呂に行って来い!」との指示がでる。そこで親から貰った小銭を握り締め、手ぬぐいを肩にかけ近所の友達を誘い銭湯に繰り出す。ところが当時の銭湯は湯船のお湯の温度が非常に熱い、たぶん45度位あったと思う。でも年寄りは皆熱い風呂が好きで、子供が水を出し温度を下げると必ず怒られる。仕方が無いので我慢をして入るのだが、お尻がビリビリして直ぐに飛び出す。何回か繰り返すと慣れてきてどうにか湯船に浸かることができた。

でも時には年寄りが風呂場から上がり消えることがある。するとそこからが我々の出番だ。水をどんどん出し温度を下げて泳ぎ回る。当時の銭湯の浴槽は熱く湯船が深い大人専用と、浅い一般用の二つあり、その仕切りの部分には下に穴が開いていた。そこでこの穴を潜って通過するのを競い合う!または木の桶を逆さにして湯船に浮かべ浮き輪代わりにする・・・。盛り上がってきた頃にガラス戸を開ける音、大人が入ってきて怒られて終了した。体を洗い脱衣場に上がると、いつも飲み物を売っているガラスケースに目を移す。すると今日は見慣れない茶色の牛乳が棚に置かれている。「何だこれ!」番台のおばさんに聞くと新発売のコーヒー牛乳だという。そこで興味津々一本15円のコーヒー牛乳を買ってみた。紙のふたをキリで開け、ゴックンと一口飲んだ瞬間ほろ苦く甘い味が口の中に広がった!

これが私とコーヒーとの最初の出会いだと記憶する。しかしインスタントコーヒーのない時代本格的にコーヒーを飲むようになったのは、忍んで喫茶店に出入りするようになった高校時代からである。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

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