キュウリ

姉や親友に見送られ一人客船のタラップを上がっていった。急いで荷物を船室に置きデッキに立つと五月の風が心地よい。岸壁で見送る人たちにテープを投げ大声で言葉を交わす。しばらくすると船は汽笛を合図に横浜の埠頭を少しずつ離れて行く。お互いを結んでいた五色のテープがプツプツ切れ海面に落ちる。エンジンの音がしだいに大きくなり船は速度をあげた。岸壁で手を振る人々の顔がどんどん小さくなり、やがて視界から完全に霞んで見えなくなった。これからの行程を考えると不安感もよぎるが、デッキの手すりに寄りかかり前方に視線を向ける。

しばらくすると船は東京湾を出て房総半島を左に見ながら北に進路をとる。これからまずソ連のナホトカまでの二泊三日の船旅だ。今から半世紀ほど前、ヨーロッパへ行くにはアラスカのアンカッレジ経由の飛行機か、一部シベリヤ鉄道を利用するソ連経由か、二通りのルートがあった。ただ飛行機は値段が高い、当時で片道28万円。一方ソ連経由は13万で料金は安いが時間がかかる。でも若者の多くはソ連経由を選んでいた。そして三日後ナホトカ港に着いたあとシベリヤ鉄道に乗り換え、丸一日列車に揺られハバロフスクに到着した。ここからモスクはまではシベリヤ鉄道では二週間かかり逆に割高になるので、飛行機に乗り換える。ソビエトは広い、同じ国内なのに飛行機でも8時間もかかる。

やっとモスクワに到着し、ここで必ず一泊する。そのころのソ連は外貨が不足していたので、旅行者に物を買わせて外貨を落とさせる。ソ連では商品の質が悪く買う物がない。それどころか逆に街を歩いていると、大人や子供がすぐに近づいてきた。子供達はチューインガムをせがむが、共産主義のソ連ではチューインガムは噛んで捨てるので資本主義的と考え生産しないと聞いた。でも彼らはくれとは決して言わない。レーニンやスターリンのバッチを示し、これと交換しようと言ってくる。でも私はあいにくチューインガムを持っていなかった。そのて男性はセイコウの時計かジーンズを売れといい。女性はシームレスストッキングを欲しがった。

モスクワ広場を一回りした後近くのホテルに戻り、夕食をとりに階下のレストランに下りていった。テーブルにつくとじきに食事が運ばれてきたが、メニューはボルシチにあまり大きくないステーキとパン、それに薄く切っただけのキュウリのドレッシングのサラダだ。セットメニューだからこんなもんか?食べ始めると隣のロシア人が片言の英語で話しかけてきた。キュウリを指差し「これ美味いんだぞー、あんた日本で食べたことあるか」と聞いてきた。「はあ!」あっけにとられたが、意味を察し無いと答える。「そうだろう、こんな美味いものが日本にあるわけないよなあ」とご満悦であった。ガイドに聞くとソ連は寒くキュウリはないらしい。黒海沿岸のごく一部の地域でしか栽培できず、超高級品で当時でも一本400円位だという。

今日の写真は、超高級品のキュウリの漬物と少々のキュウリもみのセットですか?(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

カッパ巻き

河童と言えばすぐにキュウリのカッパ巻きが頭に浮かぶ。でもこのカッパ巻き昔は寿司ネタには無かった。子供のころ海苔巻きといえばカンピョウ巻きが主であったが、最近ではカンピョウを巻いた海苔巻きを出す寿司屋は少ない。私は小学生までは刺身が苦手で、カンピョウの海苔巻きと卵焼きだけのニギリをたのんでいた。代わりに巻き寿司で増えてきたのが簡単なカッパ巻きである。安い寿司の代表でランチのニギリなどを頼むと、必ず腹の足しにと添えられる。カッパ巻きが登場したのは、戦後食材不足の時代に東京の八幡寿司という寿司屋が最初で、何か巻くものはないかと始めたのが徐々に広まったらしい。

なんでキュウリをカッパというのかは、一説によると河童が丘に上がると皮膚が乾くのでキュウリを切って肌に貼り付けたことによるそうだが、いずれにしても実在しない生き物なので憶測でしかない。河童が好きなのはキュウリでなく子供の尻子玉(しりごだま)だとむかし父親から聞いた。「絶対に川には入るなよ、河童にしりごだまを抜かれるぞ」釣りに出かけると告げる私に、父親が背後から声をかける。子供ころは私の住む市川にも小川や溜池が多く、子供達のよい遊び場であった。そこで水の中に入ると河童が下から手を伸ばし、お尻の中にある尻子玉を抜くと脅された。尻子玉を抜かれると力が抜け落ち溺れるらしい。実際に川で溺れ死ぬ子も多かった。

この尻子玉は人のお尻の肛門の近くにある架空のタマネギのような形の臓器で、魂の塊であるという。これを抜かれると、体はただの抜け殻になってしまい恐れられた・・・。むかし江戸近くの本所にあった「置いてけ堀」は魚が沢山取れたそうだ。釣りをして取れた魚を持ち帰ろうとすると水中から、「置いてけ!置いてけ!」という声が魚を返すまで聞こえるという。そのまま立ち去ると皆から置いてきぼりを食い、とり残されて出世できないという。この声の主も河童だとされている。父親にはたびたび河童の話を聞かされたが、昔の人はこの様な架空の話しを言い伝えて、子供に危険を知らせたり、魚の枯渇を防いだりしていたのであろう。

カッパといえば黄桜酒造のマスコットになっていた漫画を描いた、清水コン氏を思い出す。(千葉県八千代市勝田台勝田陶人舎)

カービン銃

じっと目の前に置かれたカービン銃を見つめる。ちょっと触ってみようかの衝動にかられるが、「急に奴が戻ってきたらまずい!」車窓の外は真っ暗で時々明かりが後方に飛んでいく以外なにも見えない。今どこを走っているのか分からないが、いずれにしてもドイツ国内のどこかだ。午後2時半にパリ北駅からスエーデン、ストックホルム行きの国際列車に乗り込み、6人部屋のコンパートメントの中で一人ボーっとして過ごした。途中で何人かの人が乗り込んできたがまた降りて行った。フランス国境で簡単な入国審査をすませ列車がドイツにはいり、しばらく進むと初夏の北ヨーロッパの長い陽も落ちだんだん暗くなっていた。

列車が名もない小さな田舎町の駅に止まるり、ぼんやり外を見ていると突然カービン銃を肩に下げ軍服を着たアメリカ人が、コンパートメントのドアを乱暴に開け乗り込んできた。彼は言葉を交わさず軽く会釈し、私の前を通過して対面の窓際の席に座った。列車が走り出しても相変わらず彼は無言でただ暗い外を眺めていたが、その短髪の横顔はどこか若き日のスティーブ・マックインに似てなくもないと思ったりもしていた。すると彼は突然立ち上がり、何も言わずにカービン銃だけを残し座席を離れいったのだ。多分トイレに行くんだろうと最初そう思っていたが、もう一時間余り戻ってこない。「まったくこんな銃など置いていきやがって、どうしようもない奴だ」と銃を眺めていた。

たぶん弾丸は装填されていないのだろうが、銃が目の前に置かれていると非常に不気味だ。じっと見ていると「我々は共産主義革命戦士、資本家と戦う人民解放軍だ、銃を手に戦うぞ!」と全共闘から武力闘争に進んだ赤軍派のアジ演説など変な妄想が次々に頭をよぎる。彼が戻ってこなかったらこの銃はいったいどうなるんだ。スーツケースに隠し,持って逃げるか!とも思うがスーツケースに入る長さではない。するとドアが開きやっと彼が戻ってきた。そして列車が徐々に減速し駅が近づくと、彼は簡単に身支度を整え無言のまま降りて行った。「ああ、よかった、やっとこれで安心して寝られる」明日のことなどを考え座席に横たわったが、今後の事などさっぱり予想できなかった。

これはもう50年近くも前の話だが、先日もアメリカの学校で銃撃事件があり何人かの生徒が死んだ。日本人とアメリカ人では銃に対する意識がかなり違うのだろう。アメリカではこのような軍人の銃に対する行動も、日常的な事なのかもしれないと思うと恐ろしい。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

流行

「来シーズンのスカート丈はミモレです」などとパリコレのファッション情報がマスコミにのると、来年流行るブーツはショートなのかロングなのかが検討され、私のいた靴業界でもそれに向けて生産準備をしたりした。しかし最近ファッションに対する人々の意識が急速に変わってきている。以前のように今シーズンに何が流行るのかなどの話題がほとんど出てこない。流行に興味が無くなったのか、それとも時間やお金に余裕がなくなったのか?原因は様々であろうが女性が衣料に支出を控えるようになったのは事実である。改革開放のあと賃金の安い中国に生産拠点を移すと安く衣料品が輸入され、国内の縫製工場などのほとんどが廃業して行った。すると海外で生産するユニクロなどのファストファッションが大きく台頭してきて、そこそこ質の良い衣料品が廉価で買えるようになった。

以前は大手繊維メーカーでも新しく開発した特殊な繊維などは、まずは知名度のあるブランドメーカーに供給され、高い値段で売る戦略をとっていた。しかし近年ではヒートテック、エアリズムのように東レが新製品を最初からユニクロと提携し、安価で大量に市場投入するようになってきている。消費者の立場では大歓迎だが、良いものを丁寧に作ってきたブランドメーカーには死活問題になった。大手同士が組んで今までにない新しい機能の服などを大量に安価で売ったら、それ以下の一般企業の生きる道は殆どないといってよい。

このようにアパレル市場は一部の欧米の有名ブランド品を除くと、どんどん寡占化され何社かのザラ、ユニクロ、ギャップなどのグローバル企業に独占されつつある。メルカリなどを利用して中古品を安くネットで探したり、服にお金をかけないが、皆と同じものを着ることに抵抗を感じる若い人は、古着を自分でリメイクしてオシャレを楽しんでいるという。先日あるデパートで古着のコーナーを新設したと聞いて驚いた。デパートで古着を売るようになったらもうアパレル業界も終焉である。デパートは江戸時代から女性の着物を売ることで売り上げを伸ばしてきたが、女性がアパレルから関心が薄れると衰退するいっぽうである。

何年か前まではバレーシューズと証して、カッターシューズが流行ったこともあったが、今では婦人靴も新たなトレンドも見当たらない。写真は自作の陶器の靴です。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

御御御付け

我が家では子供の頃、味噌汁のことを御御御付け(おみおつけ)、あるいは御付け、(おつけ)とよんでいた。あるとき母に味噌汁と言ったら、江戸では味噌汁とは言わない(おみおつけ)と言いなさいと注意されたことがあった。母が言うには味噌汁では田舎臭くイメージがおいしそうでないし、濁った感じなので江戸っ子には粋でないと言うのだ。母親は亡くなるまで味噌汁という言葉を使わなかったが、我々の代になるといつ日か、一般的に使われ始めた味噌汁という呼び名に変わってしまった。千昌夫の「かあちゃんの味噌する飲みでえなあ!」のあの言葉で決定的に東北文化に侵略されていったのか、今ではオミオツケと呼ぶ人は少ないようである。

ところで我が家では昔、アサリ戦争というのが勃発したことがあった。我々夫婦は結婚してしばらくは離れて生活していたが、両親が歳とってきたので同居を始めた頃の話し。私が仕事から帰ってくると妻が不機嫌な顔をしてこう私に言った。「こんや、夕食にアサリの味噌汁を出したら、おかあさんに注意されたのよ。アサリは味噌汁でなくお澄ましでしょう、あんたこんなことも知らないの?」と言われたというのだ。確かに我が家ではシジミは味噌汁、アサリ、ハマグリはお澄ましと決まっていてアサリの味噌汁など飲んだことがない。

一方妻の家ではシジミ、アサリは味噌汁、ハマグリはお澄ましだったという。私の母親が言うにはシジミは川でとれる。生臭いので味噌仕立て、アサリ、ハマグリは海でとれるのでお澄まし、これ江戸の常識だと言うのだが、妻も負けてない「私の母は東京生まれで家業はそこそこのグレード料理屋、そこで育った母がそんなこと知らない分けがない」と一歩も引かなかった。そのた味噌汁に入れる味噌なども地方により大きく異なるので、旦那の出身地が白味噌で奥さんが八丁味噌ではどちらかに不満がでる。皆さんのご家庭ではいかがでしょうか?私はどちらでも良いが、今ではもちろんアサリは味噌仕立てでいただいています。

朝食が和食の時代、味噌汁は毎日飲んでいたのでこだわりがあったが、一ヶ月に数度ではそのこだわれも薄れる。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

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