そういえば最近あの石像を全く見かけない。子供のころ近所のお金持ちの家などに遊びに行くと、必ずこの石像が玄関脇などに立っていたのだ。「なんだか分かりますか?」少年が薪を背負い、本を読みながら歩く姿のあの像ですよ。「正解です。二宮尊徳像ですよね!」戦後暫くはまだあんなに人気のあった尊徳像がいつ日か、こつ然と消えて久しい。「ホラこの子を見てみな!薪を背負いながらでも一生懸命勉強し立派な人になったんだよ。お前も少しは見習って勉強しなさい!」などと石像に目をやり母親にたしなめられた経験を持つ男子は、私以外でもいるのではないかと思う。戦前修身の模範的人物とされてきた尊徳は貧農生まれだが、身分制度の厳しかった時代に幕府の要職まで昇りついた偉人である。
近頃一人鍋という言葉があるらしい。なんでも一人で居酒屋などに入り鍋をつつくというのだ。「何から入れるかな?」自ら具の投入の順番などにこだわり、静かに頂く鍋の味は誰気兼ねなく最高なのだというのだが、私にはこの感覚が理解できない。鍋奉行という言葉があるように、鍋は何人かで取り分けて食べるほうがよろしい。でも大家族から核家族そして現代の単身住まいの選択へと、生活様式が変化すると人との係わりを煩わしいく感じる人も多くいる・・・。むかしは一人でのんきに暮らす事など基本的には許されなかった。親も貧しく兄弟も多い、すると家計を支え努力することが必然であった。自分が頑張らなければ家族が飢える。結果立身出世の願望を強く抱いた二宮尊徳のような人が世に出た。
立身出世とは?社会的に高い地位について名声を得ることと辞書には書いてある。ところが最近の若い人は出世など全く問題にしていないようだ。飽食の時代に育った人たちは貧しい家族を支える必要もない。気楽な仕事を選択し、高給でもストレスのかかる仕事を嫌う。私はポジティブな人生とは、常に自分に負荷をかけて生活することだと思っている。むかしは「若いうちの苦労は買ってでもしろ」とよく言われた。考えて見れば親が裕福で負荷のかからない家庭で育った人は気の毒だ。何も背負う物が無いので心の筋力も付かない。いっぽう家に帰れば腹を空かした弟達が待っていて「兄ちゃん、腹減ったよ」など呟けば、「よーし、待ってろ」とパワー全開になる!
良い親の定義も難しい。「自分たちのことは。何も心配いらないよ!」と負担をかけないか「あなただけが頼りだよ!」と子供に期待するか?いずれにしても尊徳の時代と違って、今の若い人たちの問題は背負う薪が殆んどないことである。(以前鍋の蓋が割れたので、蓋だけ作りました。勝田陶人舎。冨岡伸一)
約40年前、私は独身時代に小田原に2年間住んでいました。アパートの一室で「一人鍋」を食べ、小田原城内の「報徳二宮神社」も歩いて行ける所で営業の仕事をし、売り上げ成績・顧客獲得競争の只中にありました。今思えばいわゆる「立身出世」を目指しての副店長の時代でもありました。
「立身出世」は「立身」も「出世」も共に社会的に高い地位につくことで、同じ意味の違う言葉を繰り返した四字熟語。それほど凄い言葉ということでしょう。特に「出世」は、もともと仏教用語の「出世間」が語源で、修業のため仏道に入る人を「出世者」と呼んだそうです。僧侶が高い地位に昇ることが早かったため、後からそちらの意味として「出世」を使いだしたそうです。僧侶も世間からなかなか離れられない「梵夫の身」ということでしょうか。
江戸時代の二宮尊徳から明治時代の修身教育で育ったかつての日本人にとっては、「立身出世」をするための大きなエネルギーとして、親・子供の家族や家名、そして「お国のため」という「利他」が中心にあり、現代の個人主義での「自利」中心のエネルギーでは、個人も企業も厳しい競争社会の中での「立身出世」にはパワー不足で戦意喪失なのかもしれません。
そうですか。八木さんが一人鍋をねえ。私はイタリア以外一人で生活をしたことがないので、個食の経験があまりありません。ですからいまだに飲食店に一人で入るのも苦手です。以前テレビ番組で大田和彦さんの日本居酒屋紀行という番組がありました。日本各地の名物居酒屋を一人で巡る番組でしたが、好きでよく見ていました。金と暇があったら真似をして見たいと思うことしきり、でも実際には番組を見ながら一人晩酌のほうがよいかな。確かに日本人のメンタルとしては自利よりも利他のほうがパワーが出ると思います。戦前はお国のためにと沢山の若者が命をささげた、今だに日本人の中に潜むこのメンタルは変わらないのでは?ところが我欲のまさる大陸の人間は自利のほうがまさるので、共産党に変わってどんな政権になろうとも汚職や権力闘争が静まることはたぶんない。我が家でも父の弟が硫黄島で玉砕、近日中に靖国に詣でねば!