私には幼児期の記憶が普通の人と比べて非常に多く残っているようだ。なにしろ始めて自分が独りで立った時のことを憶えているくらいなのだ。「伸ちゃん、立った、たった!」と姉に支えられた手を離された瞬間、家族に囃されたことも鮮明に憶えている。でも周りからは「それは幻想」そんなことある分けない!と否定されている。私が2歳の頃だったか?当時まだ殆んどの家庭には内風呂はもちろん近所に銭湯もなく、2,3日おきに1キロ以上も離れた国鉄本八幡駅の南側、行徳街道(当時新道と言っていた)沿いの銭湯まで遠路通っていた。もちろん乳母車など我が家には無い。戦時中鉄製のものは全て武器を作るために供出され、道路には鉄釘一本落ちていなかったので、当然母親におんぶされての銭湯通いだった。

「ここにしっかり掴っているんだよ!」と言い残し母親は銭湯の大きな湯船から離れた。一人でぼんやりお湯に浸かっていたが、なんとなく湯船の淵から手を放した瞬間!くるっと頭から湯の中に回転、溺れそうにもがく私を「あらま、大変!」と近くにいた奥さんが私を急いで引き上げてくれた。「どうもすいません!」と洗い場で体を洗っていた母親がとんで来たが、たった2,3秒のこの出来事が鮮明に記憶に残る。私は自分の体に比べて頭が重かったせいか、よく頭から転がった・・・。「カッターン、ころーん。」4、5歳までは女湯にもよく入っていた。当時の銭湯は洗い場の桶は今のようにプラスッチックではなく、ヒノキの桶が使われていた。そのため桶が床にぶつかる音や転がる音が高い天井に反響、絶え間なく響いた。

そのころ女湯には普通の桶より一回り大きな桶があった。これは女性の髪洗い専門の桶で、髪を洗う女性はこの桶を別料金で借りなければいけない。なぜだと母親に聞くと「女性の髪は長く、湯をたくさん使うから」だと答えた。当然シャンプーやリンスなどもまだなく、女性も固形石鹸で頭も洗っていたのだと思う。日本でシャンプーが定着したのは1960年位からだということだが、最初は一回分ずつ紙の袋に入った粉状のシャンプーだった。それに今では全く考えられないことだが、銭湯にはサンスケ(三助)と呼ばれる下働きの男がおり、女湯にも白い半股引き一つで自由に出入りし、手間賃を払うと女性の背中などを流す不思議な仕事もあった。その後まもなくこの三助は銭湯から消えたが、江戸時代から戦後まで続いたこの奇習、日本の浮世風呂の原点でもある。

火山帯に乗っかる日本列島はいたる所に温泉が湧き出る。最近ではこの温泉目当てに海外からも多くの人もやってくるようになった。裸の付き合いという言葉もあるように誠実を尊ぶ日本人。その原点の一つには皆で裸で入る風呂の文化にあるのかもしれない。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

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