行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しく留まることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
川の流れは常に絶えることがなく、しかも流れ行く川の水は移り変わって絶え間がない。本流に現れる飛沫は一瞬も留まることがなく、現れてはすぐに消えてしまって、また新しく現れるのである。世の中の人々の運命や人々の住みかの移り変わりの激しいことなどは、ちょうど川の流れにもたとえられ、また本流に現れては消え去る飛沫のように、きわめてはかないものである・・・。
これは鎌倉時代に鴨長明が記した「方丈記」冒頭文の抜粋であるが、この意味するところは現代を生きる我々の人生観となんら変わることがない。一言で言えば、鎌倉時代のような飢謹や災害に見舞われた時代であっても、繫栄を極めた今日であっても、人の一生など儚いもので現れては消える泡沫のようであり、そのような短い時間軸の中で、もがき苦しんだりするのが人の世の常であるらしい。でもしょせん泡だ!人の一生にさしたる意味があるわけではなく、何事もあまり真剣に捕らえずに、日々坦々と流れにまかせて暮らせたらよい思う、この頃である。
はかなく消えて行く泡を見ているのが私は好きである。早朝には抹茶碗の中の泡の出来ぐあいを覗き込み、夕暮れにはビールの泡立ちをグラスごしに見つめる。でもその両方の泡立ちを比較すると、ビールの泡のほうがはじけるスピードがじゃっかん早いようだ。ビールは短命で、抹茶は多少長生きであるらしい。ビールは中原中也で抹茶は川端康成か?でもその文学的な功績は泡のごとく簡単に消えることはない。
ステイホームでたいした楽しみもないので、とりあえず泡の立ち方など些細なことに、こだわってみたりしている。でも世の中を見渡せば、世界各国がコロナ支援による紙幣の刷りすぎで、泡と膨れ上がった経済バブルはやがて弾けて、ペチャンコになる日がやって来るかも。(コーヒーを茶筅でたてると写真のようにエスプレッソ。勝田陶人舎・冨岡伸一)