「春高楼の花の宴、巡る盃影さして、千代の松が枝わけいでし、昔の光今いずこ・・・」。毎年この季節になり桜の花が芽吹くと、必ず口ずさむのがこの曲「荒城の月」である。土井晩翠の男性的な歌詞と滝廉太郎の抒情的な旋律の組み合わせは、聞く人の心を強く打つ響きをもつ。ほろ酔い気分で窓の外に目をやり、おぼろ月でも望めれば「ああ、生きててよかった!」と幸せな気分になる。
あまりにも有名なこの曲に、何か論を挟むほどの教養など持ち合わせていないので、ただ漠然と歌詞をたどっていたが、ふと疑問に思ったのが「植うる剣に照りそいし」の意味である。そこでさっそくググってみると「植うる剣」とは霜柱のことで、霜柱に光る月光という事らしい。喜寿を迎えたこの年になって初めて認識したとはねえ。「荒城の月」が好きだなどと語る資格はないかも。
若くしてその才能を発揮した廉太郎の人の心を打つこの美しく抒情的な旋律は彼が結核を患い、人の世のはかなさを強く認識した結果生まれたのではないかと思う。戦前までは一度結核にかかればほぼ完治する見込みはなく、多くの人々の生命を奪っていった。それは神童も例外でなく、彼らも世をはかなんで散った。私の好きな詩人中原中也や原口藤蔵もしかり、夭折した天才の作品にはどこか凄みがある。
現在では思春期の若者が結核などを病んだり徴兵されることは無いので、多感な時期に死を意識することはまれだ。すると生き方がどうしても平坦になり、ただ時に身を任せて流されることになる。そして40歳にもなると慌てて過去を振りるが時はすでに遅し、貴重なエポックのタイムロスは取り戻せない。一度きりの人生で、思春期に死を意識して「哲学」することの重要性を改めて感じる。
「何を信条にこれまで生きてきましたか?」と問われれば、冗談に浪漫と抒情だと答える。別の言葉では夢と微睡でもよい。でもこれはあくまで日常生活が維持できる前提ではある。がんらい怠け者の性格で仕事に根を詰めることなど不向きだが、さすがに実体のない夢追い人で終わるつもりもなかったのにねえ・・・。(荒城の月を聞き今宵も酩酊で暮れた。勝田陶人舎・冨岡伸一)