団子

私の住む市川市東菅野は戦後しばらくは家々を仕切る垣根がなかった。これは戦時中空襲があった時にどこからでも避難できるようにと、垣根を取り払ったからだという。そのため隣家の庭も通ることが出来、子供たちの絶好の遊び場となっていた。近所の子供たちが集まっては鬼ごっこに、かくれんぼ、馬とびなど年齢の違う子供が一緒になって遊んでいた。自宅の庭をよその子供達が騒ぎながら頻繁に走り通ることなど、今では考えられない。ところがあるひ鬼ごっこをしていて私が鬼になり、足の速い同じ年の高次くんを、やっと一軒の家の袋小路に追い込んだ。捕まえる瞬間「あれ!」彼はとんでもない行動にでたのだ。

「ごめんください!」突然他人の家の勝手口を開けると、土足のまま家の中に上がりこみ、座敷を通過して玄関から逃げ出てしまったのだ。とっさの事で家主もあっけに取られ、ただ見ているだけだった。私もびっくりして立ちすくんでいると、家主が出てきて「伸ちゃん、今の子だあれ!」と私に聞いてきた。「全くしょうがない子ね!」と家主は怒っていたが、私はその場を離れるとおかしくて、笑いながらまた高次君を捜し追いかけ回したのである。実は彼の家は母子家庭らしく、お父さんを見かけたことがなかった。そのため彼の家ではお母さん、小学5年生のお兄さん、2年生の彼との三人で新聞配達をしながら生活を営んでいた。そのため夕刊の時刻になると彼は遊びから抜け出た。

このような状態だったので何処の家も勝手に覗くことが出来た。隣のブロックでは初老の夫婦が家で団子を作っていて近隣の店に卸していた。開け放たれた窓から中を覗くと、天井からは蝿取り紙がいくつもぶら下がっいる。アンコの甘い香りが外にも漂い食欲をさそう。作りたての団子は箱に並び旨そうだ。「あれー、なんだ黒いアンコが微妙に動く」ハッとしてよく見ると、黒いアンコの上にはところどころに銀蝿が。「マジかよー!」覆いをするでもなく子供ながらにも心配になった。当時は衛生観念や冷凍設備などもなく、赤痢や疫痢で亡くなる子供も多くいたのだ。それからこのことを親にも告げ、卸先のパン屋では団子は絶対に買うまいと思った。

ヤマザキパンでなく山口パンと呼ばれたそのパン屋。地元創業の山崎パンが力を増すとしばらくして廃業した。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

 

「あさりー、しじみー、えー」とアサリやシジミを商う声。昭和もまだ20年代の後半、私の住む市川市菅野には早朝よく貝売りがやって来て、その声で起こされることもあった。しかしその口上はどう聞いても「あっさりー、死んじめー」と聞こえるのだ。そのため子供たちは親に怒られたりすると「あっさりー、死んじめー」などと言って悪たれをついたりする。その当時市川市の海岸など、東京湾の奥は遠浅の干潟が続きハマグリやアサリなどの貝がたくさん採れた。とくに千葉県側の浦安から木更津までの沿岸は小さな漁港が点在し、海苔の養殖や貝類の採取などで生計を立てる漁師も多く住んでいた。そこで貝類などは男が直接自転車に積み住宅地に売りに来る。

貝い売りを呼びとめ鍋を差し出すと、四角い一升マスを取り出しそこに満たす。アサリなど安かったので多分一杯2,30円位だったと思う。そのため今よりも貝の吸い物を飲む機会はずっと多かった。貝は主婦がまだ味噌汁を作る前の早朝に良く売れた。そこで貝売りは明け方にやってきて、朝食時間を過ぎるころに帰って行った。市川市周辺の台地には貝塚が多く、少し掘るだけで貝の欠けらがいくらでも出てくる。縄文よりこの地に住む人々は、それだけ多くの貝を常食してきたのであろう。しかし半世紀前に、この貝の沢山採れる東京湾の干潟はほとんどが埋め立てられ、工場や宅地になっていく。漁港も消え漁師も転業して、昔の面影など全くない!

かっては総武線船橋駅は本八幡駅よりもずっと海に近く磯の香りがして、駅前通りには沢山の貝を商う露天が連なっていた。人通りも多く大そう賑やかで船橋漁港から来るカスリのモンペに白手拭でホッカブリ、漁師のかみさん達の貝を売る掛け声が通りに響いた。近年では京成電車も高架になり高層ビルも建つと、今ではすっかり都会になっている。でも変貌する船橋のきっかけとなった西武百貨店も、時代の波に押されこの三月で閉店した。向かいにある東部百貨店も先日入店してみると、フロアーのいくつかが家電量販店に衣替えした。すこし寂しい気もするが時代はどんどん変わり、人々の記憶から遠のいていく。

アサリは最近では吸い物でなく、スパゲッティーボンゴレで食べることがほとんどだ、これも時代の変遷なのである。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

魚肉ソーセージ

ソーセージと聞くと魚肉ソーセージを思い浮かべる幼児期もあった。そのころ今の可愛らしい小さなウインナーソーセージなどは、まだ一般の肉屋などでは手に入らず、あったとしても高価だったと思う。その代わり庶民の食べるソーセージは肉の代用品として、蒲鉾と同じように魚肉を加工して作ったソーセージが販売されていた。マルハ、日水、ニチロなどの漁業関連会社の魚肉ソーセージは味に多少の差があって、私はどちらかと言うとニチロが好きだった。少し粗引きで1センチ位に切って油で炒めると、弁当に入れても魚臭さが消えて魚嫌いでもなんとか食べられた。母親には[ソーセージはニチロにしてね!」とお願いしていたが、いずれにしても旨くなく低レベルな味の差である。

先日、工房から自宅に帰る京成電車に乗車したら、あまり品のよくない親父が私の前の席に腰をおろした。すると直ぐに彼はスーパー袋から発泡酒の缶ビールを取り出し飲み始めたが、何口か飲むとビール缶をゆっくりと座席の上に置くので、私は揺れる電車で缶ビールが倒れないか気になって見ていた。すると袋を探り次に取り出したのが、あの懐かしい魚肉ソーセージである。「魚肉ソーセージってまだあったのか?」久しぶりに見るその「ピンクの色っぽい御姿」を拝見していると昔のことが頭をよぎった。彼はそれを両手にとり包装紙をやぶくと、左手でソーセージ握り右手でビール缶を持ち、「ビールをゴックン、ソーセージをパックン」旨そうに何度か繰り返す。

「通勤電車の中で一人宴会ですか」酒と魚の臭いがこちらまで漂ってくる。でも宴は10分程で終わり、缶ビールの空き缶を座席の下に置いたまま、船橋駅で降りていった。さいきん日本人の全体としてのマナーは向上したと思うが、現代人は忙しくてゆっくり食事をとる時間がないのか、むかしとは逆に電車の中での飲食は増えているような気がする。私としてはペットボトルのお水以外、通勤電車での飲食は原則禁止にして欲しい。携帯電話の使用に関しては今だに注意放送がアナウンスされるが、飲食についての放送はほとんど聞いたことがない。通勤電車の中での化粧と飲食は原則禁止にしてほしいものだ。

写真ですが魚肉ソーセージも、このお皿に乗せれば少しは旨そうに見えますかね?はし置きはイカです。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

フルーツポンチ

むかし日本橋三越の6階には大食堂があった。(家業が三越の仕事をしていたので毎週にように通った)当時その食堂には白い円卓がたくさん置かれていて、食事をする多くの人で賑わっていた。和食、中華、洋食、デザートと多くの料理のメニューがあり、何を食べても美味しかった記憶がある。この中でもよく食べたのが、幼児の頃はお子様ランチ、成長するにつれて五目そば、チョコレートパフェ、それに果物好きだった私の大好物フルーツポンチである。透明なガラスのゴブレットに入った各種の果物は彩りもよく、甘い蜜に浸かり輝いていた。それを紺の半そでワンピースに、レースの付いた真白いエプロンをかけた綺麗なお姉さんが、笑顔で運んでくれる。少年時代にしてはちょっと優雅な気分にさせてくれる、お気に入りのひと時であった。

それから地元の市川中学、高校に進むと、体育先生で石川という名の先生がいた。この先生は大の三越びいきだった。自分の着る物は全て三越で買うといっていたが、大きな事をいうので大風呂敷、またの名を三越と生徒達は影でアダ名していた。クラスの体育の担当ではなかったが、科目の先生が休んで休講になると、自習の監視役としてこの先生が代理でやってくる。別に授業をするわけではないので雑談になるが、この先生は身に着けているものを褒めると喜ぶ。今日は何を褒めるか皆で考えるが、褒めてもらいたい物は仕草を見ていると大体分かる。真っ赤なネクタイしてきて、先ほどから何回か結びの部分に手を当てている。

「先生、そのネクタイいいですねー!また三越で買ったんですか?」と目ざとい生徒がいうと、わが意を得たりと「そうだよ、分かるか」もうニコニコして急に機嫌がよくなる。単純でちょう可愛い!ついでに靴も褒めたりしてあげる。ところがある時、この先生がとんでもない行動に出た・・・。なんと色の濃く着いたアランドロンが「太陽がいっぱい」でかけたようなサングラスをかけて、突然教室の戸をガラリと開け入ってきたのだ!これには生徒達もびっくりで開いた口が塞がらない(巷ではサングラスが流行り始めていた頃で先生も買ったのか?)すかさず生徒が「先生、それも三越ですか?かっこいいですね!」と褒めると、先生は「うん」とうなずきそのサングラスをかけたりはずしたり、日にかざしたりしていた。

写真は工房の佐竹豊さんの作品のゴブレット、これを陶器で作るのは非常に難しいが、焼くのは変形するのでもっと難しいです。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

ハンバーグ

ハンバーグステーキのことを我が家ではむかし父親が、ジャーマンビーフとよんでいた。しかしハンブルグステーキとジャーマンビーフは厳密に言うと違うらしい。ハンバーグは牛と豚の合い挽きで、ジャーマンビーフは100パーセント牛肉であるという。いずれにしてもドイツ人は質実剛健、牛一頭血の一滴まで無駄にしない。そのためドイツのソーセージも個性的で旨いものがたくさんある。内臓や骨にこびりついた肉なども丁寧にかき落とし腸に詰めてたり、丸めたりしてハンバーグやソーセージを作ってきた長い歴史がある。むかしテレビでドイツの田舎農家を取材したとき、農夫との会話でこいつで来年は旨い肉が食えそうだと、牛をなでながら語っていたのにはカルチャーショックをおぼえた。

今でもハンバーグはカレーライスと共に私の好物でもある。ファミレスに入りメニューを見ると今日はカキフライにしようと思うが、気がついてみるとハンバーグを頼んでいる。長年食べても飽きることが無い。私が小学校高学年の頃、母親が仕事で忙しい時には、昼食は近所のスーパーで自分が好きなものを買うことがあった。いつもはウインナーソーセージを買うのだが、ふと見ると隣に新しく出たハンバーグのパテが売っていた。「これ初めてだなあ、今日はハンバーグでもたべるか?」買って帰りそのままパンにはさんで食べた。そのころから新しく開店し始めたスーパーマーケットには、赤いウインナーソーセージを初め肉の加工品などが出回り始め、食生活からも欧米化の波が押し寄せてきた。

しかしその3時間後になって急に腹が痛くなり七転八倒、すぐに医者に駆けつけたが大腸カタルとの診断!三日間苦しむことになる。原因はそのパテが生であったこと。ウインナーは生で食べられたが、このパテはフライパンで焼いて食べるパテであった。母親に「あんたもバカだねー、生のハンバーグなんて食べておいしくなかったでしょう!」と言われたが、自分ではそんなにまずい感じはしなっかたのである。私の味覚も大したことは無いと思った。でもこのこと以来包装紙の注意書きは多少読むようになった。我が家では食通の父親がハンブルグステーキをジャアマンビーフと呼び、挽肉を買ってきて自分で料理した。そしてジャーマンビーフの上には必ず半熟の目玉焼きを乗せてくれたのが印象的であった。

ハンバーグと目玉焼きの組み合わせ、これって本場ドイツでもこんな食べ方するのか?疑問であるが父親が作っていたのだから、大正時代からすでにあったと思う。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

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