納豆

納豆は健康食品で体に良いというので、我が家でも子供の頃から朝食に食べることが多かった。「なっと、なっとー、納豆」の掛け声と共に毎朝納豆売りが街に売りにくる。その声につられ小銭を持って私が外に飛び出し納豆を買う。母親は朝食の支度で忙しいので、この程度の買い物は子供の役目だった。「納豆2つ!」と呼び止めるとお兄さんは自転車を止め、荷台に乗せられた木箱から納豆を取り出す。とうじ納豆はまだ紙のように木を薄く削った、キョウギに包まれていて三角の形をしていた。その隙間から黄色い洋辛子を塗って手渡される。値段は一個15円だったか正確には忘れた。納豆の売り子は貧しい家計支える少年が多く、学生服を着ている子もいた。

納豆は近年鮨屋でも使われるようになり、納豆巻きは、かっぱ巻きと共に、コンビニや回転寿司の定番メニューになっている。私が子供の頃にはなかった、納豆の手巻き寿司を初めて食べたのは、浅草の今戸にある「金太楼」という名の鮨屋である。当時この店はカウンターに座りお好みで寿司を食べても、比較的明朗会計で人気があった。その後あちこちに出店し寿司の大衆化のさきがけとなったが、あとから登場の回転寿司に市場を奪われていく。納豆巻きなどの手巻き寿司を初めて考案したのは、多分この金太楼ではないかと私は思っている。この店は当時としては画期的な新しい寿司があった。それまで巻き寿司は、マキスで硬く巻いていて包丁で切る。あんな手巻き寿司はそれまで見たこともなかった。

「ちょっと、ネギトロ巻いてくれる」それから数年後に行きつけの神戸の「白浜」という江戸前寿司屋で言ってみた。「なんですかそれ、また冗談?」と笑みを浮かべて店主が答える。神戸の江戸前寿司屋なので江戸前の本場浅草からくる私には一目置いていた。「ネギトロ巻きはいま東京で流行り始めているんだよ」と作り方を教える(金太楼ではマグロの骨や皮にこびりついた肉を、もったいないのでスプーンでこそげ取り、サービスで安く提供しいた)それではと店主は頼んでもいないのに、わざわざオオトロを細かく叩いて作り差し出した。「え、冗談でしょう」と今度は私が思ったが後の祭り!旨かったがえらく高いネギトロ巻きを食べさせられた記憶がある。

その後、手巻き寿司のネギトロや納豆巻きは爆発的に全国に広まって、大衆寿司の不動の地位を固める。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

列車

「待って、待って・・・!」と走り始めた列車に向かって、女性が手を振りながら必死な形相でホームを走って追いかけてくる。客室の通路に立ち外を見た瞬間「嘘だろう、まさか!」。「大変だー彼女ホームに下りたのかよ」一同騒然となり「どうしよう、彼女初めてだろう」。「そうだよ」だからあれほど列車に一度乗ったらホームに絶対に降りるな!と言ったのに「しょうがないなあ」。「やっちまったか!」次の列車でなんとかフィレンッエまで追いかけて来るだろう?ミラノ駅はどんどんと遠くなりあきらめて席に着いた。しかし彼女の形相を目撃した私は、事の重大さを考えつつもおかしくて笑い転げそうな自分を感じていた。

イタリアでは日本と違って、列車出発のアナウンスや合図などは全く無い。笛一つ吹かないのだ。いきなり「ガッタン!」と走り出す。時間も正確でないので時計など確認してもだめ、五分十分の遅れはあたりまえ。出発の合図がないので列車に乗ったら、買い物など思いついても絶対にホームに降りないのが、暗黙のルールなのだ。旅なれた人はみな承知だが、初めての人は日本の感覚でいる。そのため一緒に行動するグループの人には事前に知らせておくが魔が差したのだろう。彼女はホームに降りてしまった。今のようにスマホでの通信手段もない頃で連絡の取りようが無かった。

列車が次の目的地フィレンッエに着くと、同行者には先にホテルに向かってもらい、私一人残って駅で待つことにした。そして二時間後に無事に次の特急で彼女が到着し事なきをえた。「どうやって来たの?」の問いかけに、この一部始終を見ていた駅員が、言葉が話せない彼女を次の列車に案内してくれたそうで、助かったと言っていた。「どうして降りっちゃたのよ」と聞くと、彼女の弁明が面白いかった「旅の思い出にと思い、先頭車両の写真を撮りに出た。ホームの端まで行ってカメラを構えファインダーを覗き込む。ピントを合わせたが、なかなかピントが合わない。あれおかしいなあ、目の錯覚か?と思った瞬間。全身の血の気が引いたとか、列車が遠ざかっていく!走って追いかけたが間に合わなかった」

写真は列車の切符。イタリアの列車の駅には改札が無く、精算は車両内で車掌が行なう。切符は回収しないので集めておいたものです。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

キュウリ

姉や親友に見送られ一人客船のタラップを上がっていった。急いで荷物を船室に置きデッキに立つと五月の風が心地よい。岸壁で見送る人たちにテープを投げ大声で言葉を交わす。しばらくすると船は汽笛を合図に横浜の埠頭を少しずつ離れて行く。お互いを結んでいた五色のテープがプツプツ切れ海面に落ちる。エンジンの音がしだいに大きくなり船は速度をあげた。岸壁で手を振る人々の顔がどんどん小さくなり、やがて視界から完全に霞んで見えなくなった。これからの行程を考えると不安感もよぎるが、デッキの手すりに寄りかかり前方に視線を向ける。

しばらくすると船は東京湾を出て房総半島を左に見ながら北に進路をとる。これからまずソ連のナホトカまでの二泊三日の船旅だ。今から半世紀ほど前、ヨーロッパへ行くにはアラスカのアンカッレジ経由の飛行機か、一部シベリヤ鉄道を利用するソ連経由か、二通りのルートがあった。ただ飛行機は値段が高い、当時で片道28万円。一方ソ連経由は13万で料金は安いが時間がかかる。でも若者の多くはソ連経由を選んでいた。そして三日後ナホトカ港に着いたあとシベリヤ鉄道に乗り換え、丸一日列車に揺られハバロフスクに到着した。ここからモスクはまではシベリヤ鉄道では二週間かかり逆に割高になるので、飛行機に乗り換える。ソビエトは広い、同じ国内なのに飛行機でも8時間もかかる。

やっとモスクワに到着し、ここで必ず一泊する。そのころのソ連は外貨が不足していたので、旅行者に物を買わせて外貨を落とさせる。ソ連では商品の質が悪く買う物がない。それどころか逆に街を歩いていると、大人や子供がすぐに近づいてきた。子供達はチューインガムをせがむが、共産主義のソ連ではチューインガムは噛んで捨てるので資本主義的と考え生産しないと聞いた。でも彼らはくれとは決して言わない。レーニンやスターリンのバッチを示し、これと交換しようと言ってくる。でも私はあいにくチューインガムを持っていなかった。そのて男性はセイコウの時計かジーンズを売れといい。女性はシームレスストッキングを欲しがった。

モスクワ広場を一回りした後近くのホテルに戻り、夕食をとりに階下のレストランに下りていった。テーブルにつくとじきに食事が運ばれてきたが、メニューはボルシチにあまり大きくないステーキとパン、それに薄く切っただけのキュウリのドレッシングのサラダだ。セットメニューだからこんなもんか?食べ始めると隣のロシア人が片言の英語で話しかけてきた。キュウリを指差し「これ美味いんだぞー、あんた日本で食べたことあるか」と聞いてきた。「はあ!」あっけにとられたが、意味を察し無いと答える。「そうだろう、こんな美味いものが日本にあるわけないよなあ」とご満悦であった。ガイドに聞くとソ連は寒くキュウリはないらしい。黒海沿岸のごく一部の地域でしか栽培できず、超高級品で当時でも一本400円位だという。

今日の写真は、超高級品のキュウリの漬物と少々のキュウリもみのセットですか?(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

カッパ巻き

河童と言えばすぐにキュウリのカッパ巻きが頭に浮かぶ。でもこのカッパ巻き昔は寿司ネタには無かった。子供のころ海苔巻きといえばカンピョウ巻きが主であったが、最近ではカンピョウを巻いた海苔巻きを出す寿司屋は少ない。私は小学生までは刺身が苦手で、カンピョウの海苔巻きと卵焼きだけのニギリをたのんでいた。代わりに巻き寿司で増えてきたのが簡単なカッパ巻きである。安い寿司の代表でランチのニギリなどを頼むと、必ず腹の足しにと添えられる。カッパ巻きが登場したのは、戦後食材不足の時代に東京の八幡寿司という寿司屋が最初で、何か巻くものはないかと始めたのが徐々に広まったらしい。

なんでキュウリをカッパというのかは、一説によると河童が丘に上がると皮膚が乾くのでキュウリを切って肌に貼り付けたことによるそうだが、いずれにしても実在しない生き物なので憶測でしかない。河童が好きなのはキュウリでなく子供の尻子玉(しりごだま)だとむかし父親から聞いた。「絶対に川には入るなよ、河童にしりごだまを抜かれるぞ」釣りに出かけると告げる私に、父親が背後から声をかける。子供ころは私の住む市川にも小川や溜池が多く、子供達のよい遊び場であった。そこで水の中に入ると河童が下から手を伸ばし、お尻の中にある尻子玉を抜くと脅された。尻子玉を抜かれると力が抜け落ち溺れるらしい。実際に川で溺れ死ぬ子も多かった。

この尻子玉は人のお尻の肛門の近くにある架空のタマネギのような形の臓器で、魂の塊であるという。これを抜かれると、体はただの抜け殻になってしまい恐れられた・・・。むかし江戸近くの本所にあった「置いてけ堀」は魚が沢山取れたそうだ。釣りをして取れた魚を持ち帰ろうとすると水中から、「置いてけ!置いてけ!」という声が魚を返すまで聞こえるという。そのまま立ち去ると皆から置いてきぼりを食い、とり残されて出世できないという。この声の主も河童だとされている。父親にはたびたび河童の話を聞かされたが、昔の人はこの様な架空の話しを言い伝えて、子供に危険を知らせたり、魚の枯渇を防いだりしていたのであろう。

カッパといえば黄桜酒造のマスコットになっていた漫画を描いた、清水コン氏を思い出す。(千葉県八千代市勝田台勝田陶人舎)

カービン銃

じっと目の前に置かれたカービン銃を見つめる。ちょっと触ってみようかの衝動にかられるが、「急に奴が戻ってきたらまずい!」車窓の外は真っ暗で時々明かりが後方に飛んでいく以外なにも見えない。今どこを走っているのか分からないが、いずれにしてもドイツ国内のどこかだ。午後2時半にパリ北駅からスエーデン、ストックホルム行きの国際列車に乗り込み、6人部屋のコンパートメントの中で一人ボーっとして過ごした。途中で何人かの人が乗り込んできたがまた降りて行った。フランス国境で簡単な入国審査をすませ列車がドイツにはいり、しばらく進むと初夏の北ヨーロッパの長い陽も落ちだんだん暗くなっていた。

列車が名もない小さな田舎町の駅に止まるり、ぼんやり外を見ていると突然カービン銃を肩に下げ軍服を着たアメリカ人が、コンパートメントのドアを乱暴に開け乗り込んできた。彼は言葉を交わさず軽く会釈し、私の前を通過して対面の窓際の席に座った。列車が走り出しても相変わらず彼は無言でただ暗い外を眺めていたが、その短髪の横顔はどこか若き日のスティーブ・マックインに似てなくもないと思ったりもしていた。すると彼は突然立ち上がり、何も言わずにカービン銃だけを残し座席を離れいったのだ。多分トイレに行くんだろうと最初そう思っていたが、もう一時間余り戻ってこない。「まったくこんな銃など置いていきやがって、どうしようもない奴だ」と銃を眺めていた。

たぶん弾丸は装填されていないのだろうが、銃が目の前に置かれていると非常に不気味だ。じっと見ていると「我々は共産主義革命戦士、資本家と戦う人民解放軍だ、銃を手に戦うぞ!」と全共闘から武力闘争に進んだ赤軍派のアジ演説など変な妄想が次々に頭をよぎる。彼が戻ってこなかったらこの銃はいったいどうなるんだ。スーツケースに隠し,持って逃げるか!とも思うがスーツケースに入る長さではない。するとドアが開きやっと彼が戻ってきた。そして列車が徐々に減速し駅が近づくと、彼は簡単に身支度を整え無言のまま降りて行った。「ああ、よかった、やっとこれで安心して寝られる」明日のことなどを考え座席に横たわったが、今後の事などさっぱり予想できなかった。

これはもう50年近くも前の話だが、先日もアメリカの学校で銃撃事件があり何人かの生徒が死んだ。日本人とアメリカ人では銃に対する意識がかなり違うのだろう。アメリカではこのような軍人の銃に対する行動も、日常的な事なのかもしれないと思うと恐ろしい。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

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