断捨離

少しまえ断捨離や終活という、中高年に向けた言葉が流行った。そしてこれらの事が書かれた本も多く出版されて、我々団塊の世代でも話題になる。これに影響されてか、長年続いていた年賀状もプッツリと来なくなった人も何人かいるが仕事の付き合いなど、退職すれば縁がなくなるので別にかまわない・・・。もともと断捨離とはヨガの用語で「断行、捨行、離行」から生まれた言葉、必要の無いものを断つこと、捨てること、離れることであるという。いわゆる整理整頓でこれは非常に良いと思う。また終活とは人生の終わりに備えるための活動で、前もって自ら死を意識して心構えや準備をすることだと聞く。

ただこれらの行動は早過ぎると、社会から孤立し後ろ向きに生きていく行為へと繋がりやすい。断捨離とは物に対する行為だけではない。中高年にとってもっと重要なのは頭の中の断捨離だ!時代に合わない古い考えや既成概念をすて、新しい情報や思想を取り込むスペースを、頭の中に作るという作業である。古い考えで満たされていると、新しい考えや価値観などを取り込むスペースが無い。現代は歴史上かつてない、凄く面白い時代に差し掛かってきた。いま好奇心や行動力を止める事は花火大会に行って、スターマイン連発のクライマックスを見ずに帰るようなもの!せっかくこの時代に生まれてきた意味が無い。日々のテクノロジーの進歩は凄まじい。柔軟な脳を取り戻し、少し自ら背伸びをしてでも時代についていく努力が必要ではないのか。

「ピー、口笛を吹くと何処からともなく、愛馬が駆け寄ってくる!」むかし見た怪傑ゾロのお馴染みのシーンだが、こんな馬を所有していたら便利だなあとテレビにしがみついて見ていた。でももう何年かするとスマホで呼べば、愛車が風を切って颯爽と現れる日もくるかもしれない。家に帰ると昨日で切れていたはずのビールが届いている。冷蔵庫が欠品をチェックして通販に発注してくれたのだ・・・。時代についていく努力をしないと、直ぐに振り落とされて過去の中に沈む。でも現役世代と違って記憶力の衰えた我々にも、プライオリティー(優先事項)がある。「それは充分な時間だ!」この時間を充当し繰り返し学習すれば、エキサイティングな人生が待っている。

認知症の予防には、EPAやDHAが多く含まれる青魚を食べると良いらしい。その他、ウナギや真鯛もよいと聞く。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

秋晴れの9月下旬、小学3年生の遠足では京成電車に乗り佐倉市の臼井まで、栗拾いに出かけたことがある。当時の成田線は津田沼を過ぎると人家もまばらで、林や畑の田園風景がダラダラと広がっていた。その頃の臼井駅は今より佐倉側に500メートル程先にあり、印旛沼も干拓する前で直ぐ側に眺めることができた。駅を降り向かいの木々に覆われた丘に登っていくと、上には落ち葉の引きつめられた少し開けた場所がある。まさかこんな所で栗を拾うのか?疑問に思い頭上を見上げても、そこには苗木の細い栗の木があるだけである。そして先生の合図で子供たちが一斉に、落ち葉の上に落ちている栗を拾い集めた。

「なんだよ、こんなの有りかよ」誰かが撒いたイガの無いバラ栗を、ただ集めるだけで子供騙しもいいとこだ。せっかくイガから栗をはずす道具まで持参してきたのに!と呟くも周りの友だちは別に気にしている様子も無く、喜んで落ちている栗を集める。栗拾いはあの棘のあるイガから栗を外すのが面白い、ただ落ちてる栗を拾い集めるだけなら幼児でもできる。ばかばかしいと思いながらも持ってきた小さな袋に詰め込んだ。私は栗が好きで秋になると自宅から少し遠出し、宮久保の丘にある私有地の森にも勝手に入り込み、ヤマ栗を採取したので栗の事なら詳しい。どうみてもその撒かれた栗は小粒で、売り物になるような大きさではないようだった。

「この野郎・・・!」突然遠くからの声にビックリして木から飛び降り、友だち数人と一目散に逃げる。でもおじさんも必死で追いかけてくるが、道は直ぐに切り立った崖につきあったった。まずい後ろからは叔父さん、前はガケ絶体絶命だ!捕まったらヤバイ20メートルの崖を降りるしかない。掴む物もほとんど無い崖を後ろ向きに下り、後はなんとか滑り降りた。見上げると叔父さんはあきらめて立ち去っていった。胸をなでおろすも、皆な擦り傷だらけだった。戦後暫くすると市川の田畑は宅地開発が始まり、あちこちの丘が切り崩されて土が埋め立てに使われる。そのためこの様な危険な崖も多く存在した。直ぐ後にこの近くの崖で同級生が3人生き埋めになって亡くなると、学校から崖には絶対に近づくなという通達がでた。

塀のない私有地の森に入り込み9歳の子供がヤマ栗を採取し、おじさんに追いかけられて崖から飛び降り死んだとする。でも当時の感覚では子供が悪く、裁判にもならなかっただろう。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

百寿

センテナリアン(百寿者)という言葉を最近よく耳にするようになった。我々団塊の世代があと30年生きる確立はどんどん高くなってきている。医療技術の劇的な進歩、運動や食べ物に対する留意など、時代が進むにつれて平均余命がどんどん伸ばされていく。私が生まれた戦争直後に、我々世代に与えられた平均余命などせいぜい5,60歳だったと思う。そのころの感覚では既にとっくに私も死んでいる歳になっている。長生きするのも悪くない、ただ人生は内容の濃さも問題だ。なんとなく長いが中身の薄い人生では昔よく食べたノシ烏賊のように、同じ密度のものがただ引き伸ばされた状態である。「細く長く」の素麺がよいのか、「太く短く」のホウトウが良いのかは人それぞれである。

このような時代になると、若いときに人生70年として立てた人生設計などは何の役にもたたない。むかしは55歳で退職し15年の年金暮らしで悠々自適であった。国の年金制度もせいぜいこの位の見積もりなので多くの人が百歳まで生きたら、常識的に考えて40年も年金を受け続けることは不可能であると思う。すると今後は80歳まで働くことが理想になるが、現状では70歳以上ではどこも使ってはくれない。個人事業主になって何かを起業してはどうか?でも肉体労働も頭脳労働も新規には出来ないとなると、職業の選択肢はかなり限られる。私は今は年金暮らしというより、努力してるが新しい仕事を探すが見つからず、しかたなく現在失業中というスタンスでいる。

また長く働くのも大切だが一箇所で仕事をすると、人はどしても自分のいる組織や会社にしがみつき事なかれ主義を通すか、または反対勢力を排除しているとそれがパワハラに繋がる。そしていつも若い人たちがその犠牲となり離職率が高まる。古参の年長者が権力の座に長く留まっている組織では、変化の激しい時代に素早く対応できない。社会の進みは日進月歩で、誰でも職種や組織を何度も大きく変える覚悟が必要だ。いよいよ個々人の柔軟な考えや適用力が問われる、サバイバルの時代になってきた!(強い者や、賢い者が生き残って来たわけではない。環境の変化に素早く対応出来た者だけが生き残ってきた。進化論のダーウィンの言葉である)

百歳になると行政から銀杯が送られたそうだが、最近は人数が増えて銀メッキに変わったという。我々の時代には当然この制度も廃止になってる。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

茄子

(秋茄子は嫁に食わすな!)この言葉があるくらいなのでナスの旬は秋なのか?しかしこの意味には色々あり、単純に秋茄子は旨いので嫁には食わせない。またはナスは体を冷やすので嫁には食わせない。そしてナスは種が少なく子宝に恵まれないなどイロイロあるそうだ。我々の子供の頃はナスは夏場、ヌカ漬けや味噌汁の具として毎日のように食卓にあがっていた。そのころは殆んどの野菜が露地栽培で、各々の野菜は旬にしか市場には出回ってなかった。ナスはインドが原産国で奈良時代に中国を通して日本にやってきたという。でもその94パーセントは水分であるが、カリウムが多く含まれていて体の熱を逃がす効果があるという。子どもの頃は何処の家庭でもヌカドコがあり、主婦が木の樽に入ったヌカ味噌をかき回して、腐らないようにいつも管理していた。

「あの女(ひと)はヌカ味噌臭くない!」とは中年女性に対する褒め言葉で、それを言われたら、我々の世代以上の女性は悪い気はしなかったと思う。女が結婚し毎日ヌカ味噌をかき回していると、本当にその臭いが体に移るのかどうかは知らないが、日々の家事や子育てに追われていると、お洒落心も失われて外見をかまわなくなることは確かだ。でも最近では家庭にヌカドコなどもないので臭くなりようもない。それに現代は女性が結婚しても殆んどの人が働く時代!仕事が忙しく料理も惣菜を買って済ますかともあり、ヌカ味噌臭くなっている暇もないのが現状であろか?疲れたキャリヤウーマンの中には「わたしヌカ味噌臭くなってみたい!」などと冗談に言う人もいるのかもしれない。

最近高校時代の同級生とよく居酒屋に行くが、ビールと共にまず最初に頼むのが枝豆と茄子の漬物である。いま家庭ではヌカ漬けはほとんど食べないので、我々同世代はなんとなくヌカ漬けが恋しいようだ。しかしこの茄子の色、お袋が漬けていた昔のナスの色とはかなり違って綺麗だ。何か薬品を使って色止めしてるか、着色しているかだが少し気にはなる。またナスは油を吸うので油を使う料理にはとても合う。天ぷら、パスタ、それに近くの蕎麦屋のメニューにある茄子の冷やしタヌキ。これは半分に切った茄子に、なおかつ縦に細く切れ目を入れ、油て揚げた茄子がトッピングし、梅干一つが入るこの蕎麦屋のオリジナル。日本蕎麦との相性も良ろく結構美味い。

ナスは家庭菜園でも簡単にできるので、キュウリと共にプランタで栽培する人も多い。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

エビフライ

先日(ちび丸子ちゃん)の漫画家サクラ・モモコさんが乳ガンで亡くなった。私の次女も丸子ちゃんの漫画が大ファン!そこでアニメ放送が始まる日曜日の夕方には、娘に付き合って毎週見ていた。サザエさん、ドラえもん、ちび丸子、などこれらの人気漫画はごく一般的で平凡な家庭生活の日常をベースにしている。つい数十年前までは大半の人が、何の疑問も持たずに結婚をし、夫婦分業で家庭生活を営んでいた。サザエさんと丸子の家は三世代同居、のび太の家はとりあず核家族。でもこれらの人気漫画に共通しているのは、母親は専業主婦で家庭にいて、母親と主人公の子供が中心に物語が展開されるという点だ。

でも最近はこの様な家族形態を選ばない人たちが殆んどだ。先進国では家庭を持つということは今では選択肢の一部で、必ずしも一番に優先すべき課題でもなくなってきた。生涯の独身はもちろん、シングルマザー、フルタイムでの夫婦共働きと、家庭生活における母親のあり方も様々だ。そこで現代このような時代にホームドラマを漫画を描くとしたら、どのような家族形態の舞台が選択されるのであろうか?考えて見ると面白い。先日オーストラリアでは同姓婚が正式に認められた。男性同士が婚姻を喜んでキスなどのシーンを見ていると、気持ち悪いと感じるか、微笑ましいと感じるか?その人の主観によると思うのだが、我々世代では法律で認められても、必ずしも理解のある眼差しでは見られないと思う。

「だめー、突然幼児が我々の間に割って入った!」いぜん私が社交ダンススタジオでダンスを男の先生に習っていた時、先生が女役をして一緒に組んで踊っていると、それを見ていた先生の三歳の女児に制止されたことがある。私は苦笑いをして立ち止まったが、やはり三歳の子供でも男同士のダンスなど本能的に違和感があるのだろう。(その子が言うには、お母さんと女の生徒さんなら良いが、お父さんと男の生徒はだめだということだった)いま社交ダンスの映画で(レディ・トゥ・レディ)という女性同士で組んで踊る映画が製作中だという・・・。あの面白かったシャルウィーダンスの映画から20数年、一世代も経過するとダンス映画のスタイルもずいぶん違ってくる。

ちび丸子ちゃんの好物はハンバーグやプリン等たくさんあるが、エビフライも好物だという。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

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