イワシ寿司

最近ここ私の住む千葉県の北西部では、夏場夕立が降ることが少なくなってきたような気がする。空にはあの夏特有の巨大な入道雲もあまり見ることがない。高い建物が増えて空が小さくなり、見通しが悪くなったことが原因かもしれない。冷房の無い昔も夏は暑かったが、夕方になると大体スコールのような夕立が毎日のようにあった。しかし最近では近くで雷鳴の轟きなども聞かない。挨拶の中で「一雨来ると良いですね」などという会話もよく交わしたが、一雨来るような雲行きには真夏なることがなく、ただただカンカン照りで熱風が漂う。たぶん最近は温暖化によりかつてのように、上空に北から寒気が下りてくる頻度が減ってきたためではないかと、勝手に推測している。

「今朝は朝顔が三輪咲いた」5月に生徒さんから頂いて撒いた朝顔の種が順調に発芽し楽しみに眺めていたが、やっとブルーの花をつけた。朝顔は早朝咲き日が照るとしおれるので朝型の私のライフスタイルにはぴったらだ。昔は何処の家庭の庭にも朝顔を初め、ヒマワリ、カンナ、グラジョウラス、ダリヤ、オシロイバナなどの夏咲く草花がたくさん植えられていた。しかし最近これらの草花をほとんど見ることがない。どの家の庭も空き地はコンクリで固められ駐車場になっていて、草花を植えるスペースなど設けない。湿った土の部分が少なく気化熱で温度が下がることも無いので、照り返しでますます気温が上昇するばかりだ。以前は夕方スコールがなければ必ず草木に水遣りをすると、体感温度が多少下がった。

私はオシロイバナがなぜか好きだった。オシロイバナは花が咲いた後に黒い小さな種をつける。その種を潰すと中から白い粉が出てきて、これを取り出し顔に塗るなどして遊んでいたが、このオシロイバナの白い粉にはトリゴネリンという毒があるそうで、誤って口に入れると嘔吐、腹痛、下痢などを引き起こすと言う。「ああ良かった!」あのオシロイバナの種は蕎麦の実に似ていて、なんとなく食べられそうだった。そんなこと当時の大人は誰も教えてくれなかったので、どんな味か一度くらい試したことがあったかもしれない。たぶん食べてみれば毒のある成分は苦いので吐き出したであろうが?まだ冷蔵庫も賞味期限もない時代、食べ物が傷んでいるかどうか主婦は見た目、臭い、味で判断していた。

今は凄い時代だ。先日鮨屋に行ったら、あの足の早い鰯の寿司がこの暑い夏の盛りに注文できる。全く子供の頃には考えられない流通機構である。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

カプッチョ

イタリア山間部にある多くの地方都市は丘の上に築かれている。私の住んでいたペルージアも同様での200メートル位の高度があった。授業が終わりその街のセンター街を歩いていると、バール(カフェ)の外の椅子に腰掛けている数人の男達が手招きをする。見るとクラスメートのアラブ人ご一行だ?「チャオ!」と挨拶して近づき握手をすると、お前も座って何か飲めよという。カプチーノを頼んだが、まだお互いイタリア語は流暢でないので細かい話は出来ない。こんな時は「ボンジョールノ」はアラビア語で何と言うのだ!とか聞くと結構場が持てる。サラームだ「サラームか?日本語ではこんにちはだ」こんにちはか?皆が口々に言う。「ボナセーラ(こんばんは)」は何というのだ「サラーム」だ。これもサラームか?

おはようがざいますは?「サラーム」おやすみなさいは?[サラーム」さようならは?サラーム。行ってきますも「サラーム」ただいまも、ごめんくださいも、みんなサラームか?そうだ!(サラームとは平安という意味で、あなたに平安あれ!)アッラー(神)を称える言葉という。これは便利言葉だ!それからアラブ人に会うといつでもサラームと挨拶する事にした。そして次にアラビア文字で冨岡はどう書くのか?ノートを取り出し書いてもらうと、右から左にミミズが這うような横書きで、書きづらそう!ムハンマドは日本文字ではどう書くのか?と聞くのでとりあえずカタカナで書き、他の人にも順番に名前を聞きいて続けた。そしてお互いに笑いながら書き方の練習を始める。

そうこうするうちに頼んだカプチーノ(カップチョとも言う)はすっかり冷めてしまった。カップチョを飲み干し「さあ行くか、いくらかな?」会計しようとすると、彼が払うからお前は払わないでいいと言う。そして全員の勘定をこの一人の男が払った。聞くと彼の家は親が石油関係で富豪だという。ダッチカウント(オランダ方式の割り勘)に対し、アラブカウント(金のある人が一人で全部払う)というのがあるらしい?(金持ちは貧しい人に施す)「グラーツィエ(ありがとう)」彼に礼を言うと、ムハンマドがこれはコーランに書いてある当然の行為!礼なども言う必要ないよと言ったのだが・・・。

基本人種間での思考、感情などはあまり変わらない。でも慣習やマンナーはその民族の宗教、歴史により変わることはよくある。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

スイカ

我々が小学生の高学年の頃、通っていた八幡小学校では夏休みになると毎年臨海学校が企画された。基本的には希望者のみであるが、皆で千葉県内房の海水浴場に二泊三日で水泳訓練に行く。プールと違って海水の海は浮力があり泳ぎやすい。2,3時間も練習すると大体だれでも泳げるようになった。滞在先は鋸山の南側の保田海岸の旅館であるが、当時この内房沿岸には多く小学生が東京などから学校ごとに訪れていた。今と違って鉄道の便が悪い。千葉から先は蒸気機関車で、冷房もなく列車の窓は開け放たれている。トイレもそのまま線路に垂れ流しで、停車してる時は基本トイレは使わない。列車が走り出し窓からあまり顔を出すと、トイレの水が直接かかりあわてて顔を引っ込めた。

当時臨海学校はどこの小学校でも企画され、子供たちは夏を楽しみにしていた。今と違って家族旅行などは余り行かず、学校が主体になりその役目を担っていたのだ。戦前の富国強兵思想のなごりがあってか、ある程度泳げるようになると危険を承知で、少し沖にも連れて行いかれた・・・。少子化で今はどの家庭も子どもが少ない。もし事故でもあると責任問題などが発生し大変なことになる。それから徐々に学校など公は時代の推移と共に、なるべくリスクを避けるようになる。そしていつしか臨海学校も全く行われず、忘れられた行事となっていった。この臨海学校で私は怖い思いをした経験がある。高い波が何度か続けてきた後に、急に強い引き波に押し戻されあっという間に沖に流された。なんとか岸にたどり着いたがもうヘトヘトだった。

「もっと右、右・・・。ちょっと左・・・。そこだー!」と目隠しをされた子に皆で掛け声をかける。水泳の実習のあと必ずあるのがそのころ流行っていた海岸でのスイカ割りである。スイカを10メートル位先に置き、目隠しされた状態で2,3かいその場で回されて、棒を持ってスイカを割りに前進する。皆で当事者に場所を教えるのだが、わざと違う方向などを指示する子もいて、なかなかスイカに当たらない、順番に何回か行ってやっと当たるとスイカは木っ端微塵。それでも割れた欠けらを皆で分けあった。このころのスイカは今のスイカより大きく、値段も安いので食べる頻度もずっと多かったような気がする。

前歯が抜けて生え変わる頃、スイカを食べる時には便利だった。抜けた歯の間からスイカの種を飛ばした。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

戦後暫くはどこの一般家庭にも冷蔵庫がなっかった。昭和の30年代になりまず最初に普及し始めたのが、木製の冷蔵庫である。これはほとんど夏季限定で、上部に氷を入れて冷やすタイプ。そのため毎日氷を入れないと使えない。そこで氷屋から氷を買うことになる。(当時は氷屋という商売があった。)店から氷の塊を自転車の後ろに繋いだリヤカーに乗せて売りに来た。大きな氷を1貫、2貫とその場で注文に応じて切り分け販売する。おじさんが氷を切るのを見ているのが面白かった。歯の荒い大きなノコギリで「シャカ、シャカ」と軽快なリズムで切る。そして途中まで切ると次は歯を逆さまにし、圧力をかけると簡単にパカッと割れた。

そのあと氷を挟む巨大なハサミで切った氷をつかみ客の家に運ぶ。「その時がチャンス!」おじさんが瞬間その場から離れるのを見届けると、遠巻きにしていた子供達がリヤカーに駆け寄り、氷の塊に残る雪のような切りかすを手ですくい取る「冷たくて、気持ちいいー」暑い夏にもこの様に当時の子供達は一瞬の涼を取った。しかしそれから2,3年経過すると、豊かになり始めた日本の家庭に三種の神器と呼ばれた洗濯機、テレビ、電気冷蔵庫が急速に普及し始める。今のように扉がいくつもある大型冷蔵庫ではないが、それでも年中冷たい水も飲めたし、肉や魚も保存できるようになった。

当時テレビではアメリカの人気番組がいろいろ放映される。そのなかの一つに「うちのママは世界一」というホームドラマは毎週見ていた。内容はほとんど覚えてないが、ジェフという少年が学校から家に帰ると、大きな冷蔵庫の扉を開け五合ビンの牛乳を取り出しがぶ飲みする。そのシーンを羨ましく見ていたが、「牛乳のがぶ飲みかー」いつか自分もやってみたいの思いがつのる。何日かの小遣い銭を貯め自宅近くの森永牛乳販売店へ出かけた。憧れの5合ビンの牛乳を抱えて帰ると、部屋に篭って牛乳をゆっくり好きなだけ飲む幸せ!最高と感じたが、案の定そのあと腹を下し母親にしかられた。

そのころアメリカの一般家庭の少年と我々日本のガキとでは月とスッポン!彼らのライフスタイル全てに注目していた。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

 

爆弾オニギリ

ディズニーランドも開園して今年で35周年だという。入園料は徐々に高くなっているが、一向に人気が衰える気配は無い。アジアからも多くの外国人が訪れ、日本観光の人気スポットの一つになっている。まだディズニーランドが出来るまえ千葉県の京成電鉄の沿線には、谷津遊園というこの電鉄会社が運営する遊園地があった。そこにはジェットコースター、観覧車などの乗り物を初め、バラ園やプールなどいろいろな施設があり、ディズニーランドが出来る前までは子供達を連れよく通った。しかし京成が三井不動産と共同でディズニーランドを浦安に開発すると、開園後すぐにこの遊園地は閉鎖されることになる。

「あの彼らが食べている、爆弾のようなあれはいったい何だ!」我々家族が谷津遊園のプールサイドに陣取り弁当を広げていると、隣に座っていた外国人が突然私に話しかけてきた。プールの対岸を指差すので見ると、家族が座って海苔が巻かれた黒いボールのような丸いオニギリを食べている。「ライスボールだよ」と告げると「なぜ黒いのか?」と聞く。「シーグラス、ロールド」だとか適当にいうと理解できなかったようで、なおも不思議そうな顔をして眺めていた。当時の欧米人は日本食など興味も持たず見向きもしなかった。確かにあれは遠くからでは爆弾にしか見えない。黒い色の食べ物は世界中探してもあまり見ない。

時代も変わり現在では、欧米系の人もコンビニのオニギリを食べている光景に出くわすこともある。せんじつ姫路に行く新幹線を京都駅でノゾミからヒカリに乗り換えたら、ドイツ人のツアー客に遭遇した。するとその中の数人がコンビニのオニギリの封を器用に切り、海苔を巻いて旨そうに食べていた。確か欧米人は海草を食べないはずだが、海苔が海草と知っているのか?オニギリもずいぶんと国際的になったもんだと感心した。「この丸いオニギリ、何処から食べれば良いのか?」と姉が若いとき彼氏にオニギリを結ぶと冗談に聞かれたらしい。三角オニギリは神との縁を結ぶ形ということで、正確にはオムスビというらしい。

最近ラーメンを初め日本食を求め、たくさんの外国人が日本を訪れるようになってきている。これからは彼らにもう一歩踏み込んで、和食と和食器のコーディネートの紹介なども、必要なのではないかと思っている。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

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