新聞配達

最近若い人の世帯では新聞を取らない家も多いと聞く。今のネット社会では情報の読み方もスマホやパソコンの普及で一律ではなく、新聞を取らなくても日々の情報収集には支障をきたすことは無い。毎朝読む新聞の購入は国により結構異なる。ヨーロッパの都市などでは、新聞は配達方式でなく街のキオスクで買って読む。そのためかつては通勤時間帯の地下鉄に乗ると殆どの人が、車内で新聞を広げて読んでいた。日本と違い特に女性の購読者も目立ったが、今では何処の国でもスマホで情報を取るので、新聞を広げる人は少ないと思う。

「俺、明日から新聞配達をするんだ!」ニコニコしながら友だちが告げる。「本当かよ、すげえ!」中学生になると新聞配達のアルバイトをすることが、流行った時代もあった。当時は中高生のアルバイトなど今のようには簡単には見つからず、新聞配達が唯一手軽なアルバイトである。先輩についておよそ100軒ほどの購読者の家を自転車に乗り順番に憶えていく。最初はこれが結構大変で配り間違えた家があると、店主から怒られたりもしていた。天気の良い日ばかりではない、雨の日や寒い冬の早朝は日の出も遅く暗い道を一人で配る。たいがいは気候の良い時に初め、冬の時期に挫折していた。近所のクラスメートのタカジくんの家はお父さんが死んだので、お母さんと中学の兄さんそれに小学5年のタカジくんの一家で新聞配達をしていた。人より小柄な彼が同級生が遊ぶのを横目に、タスキ掛けに束ねた新聞を配って回る姿も別に不自然ではなかったが、今の時代なら完全に児童虐待である。

アメリカでは小学生の子供が、自転車に乗りながら新聞を庭に放り投げている光景をテレビで目にするが、新聞配達は今だに子供の仕事らしい。日本でも戦後暫くは子供が紐で新聞をタスキ掛けをし束ね、歩いて配達していた姿を見うける事もあったが、小学生の就労は法律で禁止になった・・・。最近では購読者の減少に伴い、新聞販売店も廃業するところが出てきてた。それに新聞を配る配達員も若い人を見かけない。(人手不足でもっと良いアルバイトなどたくさんあるのだろう)本も新聞も読まない!そして電車の中ではいい大人が少年ジャンプなど漫画を読む人も減った。紙媒体による活字文化が消えていく日も近いのか?本好きにとってはちょっと寂しい気もする。

冬の気配も感じる晩秋、少し変わった植木鉢を作ってみた。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

ピッチョウネ

小学生の頃。学校の課外授業の一つで東京見物というバスツアーが企画されたことがある。(烏山の明治牛乳の工場、愛宕山のNHKの放送センター、国会議事堂、それに有楽町にあった朝日新聞社など)新聞社では高速で回る新聞を印刷する輪転機に目を奪われたが、私の関心は当時まだ実際に使っていた伝書鳩による通信手段であった。電話や無線設備など無い僻地取材では新聞記者は鳩をケージにいれ携帯し、書いた記事を鳩の足に括り付け、有楽町の本社まで送っていたのだ。そのために社屋の屋上には大きな鳩小屋が設置されていた・・・。「鳩はなんて利口なんだ!直接飼って観察して見たい」思いは募っていった。

そしてその頃「食用鳩を飼って、大きく育てると高く買ってもらえるらしい?」という噂が伝わってくる。「鳩って食用になるのか?」でも食用鳩を食べる習慣は日本ではほとんど定着せず、この話はいつの間にか消えていった。しかし実際に鳩は世界中の人々に食べられていて、食べない国の方がずっと少ない。伝書鳩も食用鳩も種としては、ほとんど変わらないと言う。特に鳩をよく食べる中国人が日本に来て神社に群がる鳩を見ると、どうして日本人は捕まえて食べないのか?不思議がるというのだ。そういえば最近よく行く浅草寺の境内で、鳩を本気で追いかけまわす中国人の子供を目にすることもある。彼らは食べるために捕まえようとしていたかも・・・。

「へーえ、こんな所にレストランがあるのか?」かつてイタリア在住時、ペルージアの郊外に趣のあるレストランがあるとの情報を聞き、友達と行って見ることにした。ブドウ畑の続く田舎道を車でいくと、大きなオリーブの木に囲まれた林の中に、ひっそりとそのレストランはあった。外から見るとまるで田舎家だが中に入ると、高級レストランの設えだ。客がまばらだったので、促されて奥の窓側のテーブルに着席した。そしてメニューを見ながらボーイにこの店のお勧めを聞くと、鳩のグリルだという。お勧めを頼み待っていると丸ごと一羽のローストがでてきた。チキンよりずっと小ぶりなので、一人前にはちょうどよい。

海外のレストランでボーイに「何がお勧めですか?」と言わずに「何が美味しいですか?」と聞くと「全部だ、当店は不味い物は提供しません!」と一蹴される事があった。鳩は英語でピジョン、イタリア語ではピッチョウネという。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

英語

「知らない国の人と友だちになりたい!」と思っていた私は若い頃、英語、イタリア語、フランス語などを熱心に勉強してみたがどれも上手く収得できなかった。やっとどうにか英語と、イタリア語の日常会話が出来る程度である。我々が中高生の頃、学校の英語教育はひどかった。英語の教師がまともに英語を話せず、間違った発音で生徒を指導していた。そこで不満を感じた私はネイティブ英語を学びたいと、御茶ノ水のアテネフランセまでわざわざ帰宅後に通い始めた。御茶ノ水駅を降りアテネフランセまで行く駿河台には、マロニエ通りと名付けられた通りがある。当時この通りは植えられたばかりであるが、マロニエの街路樹が続き眼下には神田の家並み望めた、なんとなくパリのモンマルトルの丘が夢想出来た。

「What’s news! なにかニュースない!] とこの言葉からアメリカ人教師の授業が始まる。すると我々高校生を差し置いて一緒に学習していた中学生の男の子が、今日の出来事などをすらすらと英語で述べた。これにはカルチャーショックを受ける。もっと直接ネイティブの英語を聞かないとだめだ!そして聞き始めたのが米軍基地からのラジオ極東放送FENである。でもこのFENもほとんどの時間音楽が流れていて雑音も入り、ニュースは一時間の内たった5分だけだ。仕方がないのでやっと買ってもらった、テープレコーダーに録音し繰り返し聞いた。(この頃はまだテープレコーダーは大きく高価で、巻き戻しもめんどうだった)

「タタタ、ター!ブレーキング・ニュース。」と毎朝見ているCNNのテレビ画面からは臨時ニュースが飛び込んできた。またトランプ大統領スキャンダルが発覚・・・。しかし今の時代は凄い!わざわざアメリカに留学などしなくても、茶の間で居ながらにしてアメリカのテレビ放送が、鮮明な画面と音声で同時に見られる。私が若い頃には全く考えられなっかった!私はこれを「お茶の間留学」と呼び毎朝楽しんでいる。時代を生き抜くには英語の習得も必要で、隣にいつ外国人が越してくるかもしれないし、孫が外国人と結婚しないとも限らない。しかし一方では自動翻訳機の進歩も早く、数秒で言葉を自国語に翻訳するという。すると英語など習う必要もなくなるかも・・・?

けや木の寄せ植えもこの様に黄色に色づき、秋の深まりを感じる。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

焼き芋

今年の夏は世界中いたる所で記録的な猛暑で、いよいよ温暖化の問題を先送りに出来ない状況が差し迫ってきている。特にカルフォルニアやリベリア半島のスペインでは、野火による火災で重大な被害をもたらしていた。日本は幸いなことに温度が上がっても湿度も高いので自然発火が今のところ起こらない。しかし湿度が低く乾燥している地域では、40度近くにもなるといたる所で野火が発生し、消防による消火活動など焼け石に水となる。ロスアンゼルスの近郊の森林に囲まれた住宅地では、毎年定期的に森林火災に悩まされており、家を失う人も多くいる。でもトランプ大統領は炭酸ガス削減など全く関心がない!

「お芋上手く焼けたかなあ?」子供のころ秋になり木の葉が枯れて落ちると箒でかき集め、焚き火をして直接落ち葉を燃やしていた。そこで灰の中にサツマイモを投入し、暫く待つと焼き芋ができる。アルミホイルなどもまだ無い時代で芋を直接火にくべるので、外側は墨のように黒くなる。でも中はホクホクで、蒸かし芋より格段に旨かった・・・。最近日本では排ガス規制が厳しく実行され、焚き火はしない。むかしは秋になり電車で郊外を走ると、あちこちの田んぼで稲ワラを焼く風景を確認できたが、今では見ることもほとんどない。風のない夕方、稲を刈り取った田んぼで焼かれる真直ぐに立ち上る煙を見ていると、なんとなく郷愁をかんじたものだ。

近年行政の指導もあり焚き火は簡単には出来ない。田んぼの稲ワラも収穫と同時に、コンバインで細かく切り刻んで肥料に撒いている。でも我々日本人が皆で努力して二酸化炭素の削減に励んでも、広大な森林火災が多くの場所で発生すれば焼け石に水!どんどん温暖化に拍車が掛かり負のスパイラルに陥る・・・。かつて青春時代に近くの歯科大学の文化祭に行ったことがあった。祭りのフィナーレにグランドの真ん中でキャンプファイヤーを焚き、皆でフォークダンスを踊っていたら、消防自動車がサイレンを鳴らし駆けつけてきて、騒ぎになったことがあった。今はキャンプファイヤーなども全く過去の思い出である。

焼き芋にはこの器でどうだろうか?(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

コイン

「伸ちゃん、50銭玉明日からは使えないよ!」と駄菓子屋のオバサンに言われた。まだ三歳ぐらいの幼児の時だったと思う。この日偶然道で拾った50銭玉をにぎって、駄菓子屋に駆け込んだ私にオバサンが笑顔で飴玉一つを手渡してくれた。まだ昭和20年代の中ごろで、戦災の傷跡が色濃く残っていた。新券など紙幣の発行も余り無かったのか、どのお札もシワクシャのボロボロだった。そのころ1円、5円、10円、50円、百円とお金の殆どがお札で、1円と5円玉は穴の開いてない黄銅貨が併用され流通していた。そして昭和26年朝鮮戦争が始まった頃に、ピカピカ銅色に光り輝く新しい今の十円玉が登場する。親からこの十円を小遣いで受けとたった時は嬉しくて、今でもはっきりと記憶にある。

その後暫くすると穴の開いた5円玉、アルミの1円玉、最初の大きい50円玉と硬貨がどんどん新しく出てきて、紙幣が廃止されていく。そして昭和32年に百円玉が銀貨で登場すると、それより大きかった50円玉が穴の開いた小さな硬貨に変わる。そして百円玉も今の白銅貨に変更され、五百円玉も登場し今のコインの形態が整う・・・。現在日本には毎年沢山の外国人が観光で来日するようになった。キャッシュレスを推進しないと余った小額のコインは持ち帰るので、飛行場などで回収しないとコイン不足になる。私が以前イタリアにいた頃イタリアはすでに観光立国で、訪れた外国人がコインを持ち帰り小銭がいつも足りない。そこで飴玉をコイン代わりに手渡されたことが度々あった・・・。

そして現代になると、昨年突然ビットコインへの不正アクセス問題が発生してニュースになる。「ビットコイン(仮想通貨)って一体なんだ!」なんでもネット上で流通している実態の無いお金だそうで、これで物が買えるというのだがそのシステムがよく分からない・・・。しかし偽札の横行するお隣中国では、日本より一足先にスマホによる電子決済が進み、現金を受け取らない小売店も多いと聞く。中国など行きたくもないので私にはどうでも良いが、我々の世代には便利になっているのか、不便になっているのか?(最近あまり車に乗らない私はセルフでのガソリンの入れ方も知らないし、スーパーでのレジにも戸惑う。)やがて近い将来現金は確実になくなるらしい!

銀杏の盆栽が今年も黄色に色づいた。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

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