「梅は咲いたか桜はまだかいな、柳やなよなよ風しだい、山吹や浮気で、トテチリツン、色ばっかりしょがいな・・・」。寒い日が続くが部屋の二階から、道路を隔てた隣家の庭を見ると、梅の木に花がちらほらほころび始めている。梅の花を見ると浮かれてついこの唄を口ずさんでしまった。我が家では両親や妻の母親も小唄が好きで、宴があるとよく三味線を持ち出し、今のカラオケのように順番に小唄を歌っていた。むかし父が私に「お前も将来お座敷に行くこともあるだろうから、無粋にならぬように小唄を最低でも三曲は憶えろ」と言われて覚えたのが(虫の音、お伊勢参り、腹の立つとき)である。小唄を憶えて準備万端整っていたが、この歳になっても今だにお座敷への誘いがなく残念である。

私の父親は明治38年生まれで16歳の時の祖父をなくすと、直ぐに家業を引き継ぐことになった。当時我が家は日本橋三越の呉服誂え方の出入り業者として刺繍業を営んでいたため、職人さんやお弟子さんなど十数人をかかえていたという。そのため最初は職人さんも言うことを聞かず大変だったらしいが、商売が軌道に乗ると、金が自由に使えたのでお座敷遊び始める。そこで習い始めたのが日本舞踊と小唄だという。歌舞伎も好きで演目が変わるごとに三越から入場券が自動的で回ってくるので見に通っていた。だから芸事には精通している。戦後も姉達を連れ歌舞伎座には時々見に行っていたが、私が同行したのは数度きりである。

以前は私の仕事場があった浅草の観音裏にも料亭はそこそこあったが、最近ではマンションなどに建て替えられている。しかし浅草見番(芸者衆の取次ぎ場所)では、着物ショーなどを外国人観光客に見せるお座敷芸として、存続を模索しているようである。またデザイン事務所のあった浅草今戸から桜橋を渡るとすぐの界隈には向島の料亭街があり、向島見番の前を通ると三味線を稽古する音色が響いたが、近くにスカイツリーが出来た最近では様変わりし、どうなっているのかは分からない。街と一緒に伝統的な唄や踊りのお座敷文化まで消えていくのは、日本人として寂しい気がする。

写真は抹茶を飲むときに干菓子を乗せる梅の絵の小皿。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)