カメチョロ

今では殆んど見られなくなった物の一つにゲントウ機がある。暗くした部屋に光で一枚の風景などのフィルムを順番に映し出し楽しんでいた。我々の子供の頃は学校にもゲントウ機はあって時々見せられた記憶がある。ゲントウ機の発明は意外に早く15世紀に遡るというが、本格的に日本で流行り始めたのはフィルム使用による明治20年頃からだという。それから暫くするとこの映像が動き始める。活動写真とは英語のモーションピクチャー(動く絵)の直訳である。大正時代の初期は銀座ではなく浅草が東京で一番の歓楽街であった。地下鉄も昭和2年に上野・浅草間が最初に開通し、その後銀座から渋谷方面に伸びていった。当時の浅草ロックには見世物や芝居小屋が立ち並び、たいそう賑やかであったらしい。

浅草寺雷門の前方に住みロック近くの小学校に通っていた私の父は、友達に芝居小屋の経営者や木戸番の子もいて、その親と顔見知りになると、裏から芝居小屋にもぐりこんではタダ見していたそうだ。その父が特に印象に残っているのは、初めて芝居小屋で公開さた活動写真を見た時のことだと言っていた。この内容が今と比べるとまことに単純である。最初に松の木がある海岸の風景が映し出されると、つぎに海の画面に代わる。すると前方から大波がこちらに向かって押し寄せ、ザブンと眼前で崩れる。それに驚いた観客が「オット、ト」と声を出し、一斉に波を避けるしぐさをするというのだ。その観客の行動を見ているのが面白かったと語っていた。初期の活動写真は何のストーリーもなく、波の映像だけの繰り返しで4、5分で終了し、これでも観客は楽しんで帰ったという。

そのほか見世物小屋にも詐欺まがいのネタが多かったらしい。いちばん傑作だったのは、見たこともない大イタチがいるという見せ物だったと言う。呼び込みの誘いでで恐る恐る薄暗い小屋の中に入ると、イタチなど何処にもいない。でもよく見るとただの大きな板に血がべっとり付いている「大板血(オオイタチ)」が立てかけてあるだけだったという。それでも騙されるのを承知で大正時代の人々は金を払い中に入っていたらしい。子供のころそんな父親に連れられ浅草ロックにはよく行った。映画館や見世物小屋が建ち並ぶ裏どうりを歩くと屋台の飲み屋の軒先で、大きな鉄鍋で煮られた「煮込みらしきもの」を見かけた。父親はこれを「カメチョロ」と読んでバカにしたが、あれは一体なんだったのか。

写真は波をイメージした抹茶茶碗です。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

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