サツマアゲ

大きな石臼の中で杵がゴロゴロ音を立てて回転している。先ほど丸ごと投げ込まれた魚がみるみる細かく潰れて、ペースト状になっていく・・・。じっと見つめていると「はーい、お待ちどうさま」おばさんの声に呼ばれた。新聞紙で作られた紙袋のサツマアゲを受け取ると、揚げたてはまだ熱い。袋に染み出てくる油を気にしながら、急いで自宅に帰る。私が子供の頃、家の近くに「網虎」というサツマアゲ屋があった。ここではサツマアゲを手作りしていて、昼食のおかずにとよくお使い行っていた。特に小さな丸いカレーボールが大好きで喜んで食べていた記憶がある。しかしこのサツマアゲ屋しばらくすると繁盛していたのに店をしめた。最近ではこのサツマアゲ、オデン種でしかお目にかからないがサツマアゲも揚げたてにまさるものはない。

「伸ちゃんー、落ちたぞ!」昼食中に突然のえー坊の声だ。「すぐ行くー!」急いで飯をかきこみ外に飛び出す。道に出て見ると遠くでオート三輪が泥にはまり動けないでいる!この頃、我が家の前の8メートル道路の中央にはドブ川が流れていて、左右の側道は2メートル位しかない。おまけに砂利道で梅雨時など雨がたくさん降るとぬかるむ。ここをオート三輪が通り、脱輪してドブ川に落ちそうになるのだ。するとここからが我々ガキどもの出番だ。「危ないから退いてろ!」のおじさんの声を制して、オート三輪に近づく。何度もこの光景を見ているので、脱出の方法はおじさんよりも熟知している。

「まず、滑り止めに後輪の下に砂利を敷かなくてはだめだよ」道から砂利をかき集める。再度エンジンかけ試してみるが、後輪が滑って状況は変わらない。「それでは道板を車輪下にかおう」シャベルで後輪の前のドロを除き、探してきた板をかう。またエンジンをかけると、なんとかなりそうだ「あとは、皆でふっちゃげよう!」(持ち上げる、知らないうちに土方言葉なっている)通る人を呼びとめ皆で後ろから押すと、ようやくオート三輪は泥穴から抜け出した。そしておじさんは笑顔で去って行くが、この救出劇が面白くてたまらなかった。オート三輪が通るとドロにはまるのを密かに期待して見ていた。

手作りサツマアゲ屋は船橋駅前に大きな繁盛店があって、何回かわざわざ買いに行ったこともあるが、京成の船橋駅高架工事と共に店を閉めた。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

菜っ葉

「わー、すげえ!あんなに荷物いっぱい、担げるのか・・・?」かつて京成八幡駅から9時頃ローカル電車に乗ると、一番後ろの車両は一般人が乗車できない行商専用車両であった。成田方面から来る農家のおばさん達が、野菜やオモチ等を大きな籠やダンボールに詰めて東京方面に行商に行く。仕切られたカーテンの隙間から後部車両を覗くと、歓談しながら飲食したりとても楽しそうだ。電車が江戸川を越え東京都に入ると、それぞれ停車駅ごとに身支度を整えた数人が重い荷物を担ぎ徐々に降りていく。それにしても凄い荷物の量だ。体重50キロ位のオバアチャンが自分の体重の重さはあるだろう、荷物を担ぎ上げて平気で歩いていく。

オバアチャン達のテリトリーはほぼ決まっていて、それぞれ馴染の客がいるらしい。この行商は関東大震災の後から始まったらしく、もうかなりの歴史があるようだ。焼け野原の都心にモンペをはいて割烹着をつけ野菜を背負い届ける。この重要な役目はそれから数世代継承されてきた。車のまだほとんどない当時はこの京成電車が唯一の輸送手段であったのだ。宅配などが発達し必要性が減ってもオバアチャン達はずっと野菜を運び続けていた。でも最近気がつくと見かけないので、調べて見たら5年前に廃止されたらしい。「非常に残念だ、あれは千葉のローカル文化だったのになあ」はたから見ているとオバアチャン達は大変で可哀そうだと思っていたが、人との触れ合いを本人達は意外と楽しんでいたようだ。でもさすがに皆さん歳をとり、後継者などもいるわけがない。

京成電車はこの通称「菜っ葉電車」のおかげで、千葉の田舎電車とからかわれて来た。でも菜っ葉電車がなくなって、その泥臭いイメージが変わるのであろうか?しかし最近特急電車に乗ると大きな荷物の菜っ葉オバアチャンは消え、成田空港から都心へ向かう大きなスーツケースを引きずる、たくさんの外国人で混む国際列車だ。千葉県生まれで千葉県育ちの私としては、「落花生と酪農の田舎ちゃん!」この千葉県民のイメージ、好きだったのになあ・・・。交通機関や情報伝達網が整備され全国的に時間差や地域差がなくなっていくと、何処に行っても変わらない。それでは全く面白くない。東京都の隣に位置するが「チバの女がチチ搾り!」といわれ、酪農県の田舎者と馬鹿にされるぐらいのローカル性、大切にしたいですよね!

子供の頃、我が家には近くの農家のおばさんが、リヤカーを引き野菜の行商に来ていた。ところが周辺が宅地開発されると皆さん金持ちになり、離農していった。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

初鰹

「目に青葉山ホトトギス初鰹」これは江戸時代の俳人・山口素堂の俳句で正確には「目には青葉・・・」だそうで季語が三つも入っている、この俳句はかなりイレギュラーであるという。黒潮に乗り関東南岸を素早く通過するカツオの群れは、捕獲が難しく江戸時代は大変高価であったそうだ。江戸っ子は勝魚(かつうお)と縁起を担ぎ「妻子を質に入れても喰え」と非常に珍重したそうである。しかしこの初鰹を私はあまり好きではない。カツオの臭みと、油の無いさっぱりした味覚には魅力を感じない。昔の人は肉など食べなかったので脂分を嫌っていたらしい。当時はマグロも赤身が人気で油濃いトロは味が卑しいとされていたという。しかし現代人の我々は味覚が違う。

カツオも秋風の吹く頃、餌の豊富な北の海から丸々太って産卵のために南の海に戻る、下り鰹は旨い!トロの様なピンク色の身と、ネットリと油がのったその食感と味は、トロ好きにはたまらない。いぜん初鰹一匹を市場から買ってきて自分でさばいたことがある。カツオは大きいので捌くのが難しい。良く切れる出刃包丁でうまく捌かないと身がグチャグチャになり残念な結果に終わる。三枚におろしたら、刺身にする前に腹の部分にいるアニサキスという寄生虫の確認が大切だ!鯖、鰹、イカなどにはアニサキスと呼ばれる2センチ位の白い小さな線虫が寄生する。潜る力が非常に強いので人間の胃壁なども突き破る!イカは光にかざすとアニサキスの確認ができるが、丸まっていると分からないこともある。でも冷凍ものは死んでいるで大丈夫らしい。

[先日、何もなかった?」一緒に酒を飲んだ友達から数日後に連絡が入った。「大変だったんだよ」彼は続けた「あの日家に帰ると腹が痛くて七転八倒、急いで医者に行いったが先生に、何か青魚の刺身食べたでしょう?」と聞かれたという。「シメサバを食べた」と告げると。「原因はそれだな」と言い、薬を処方され飲んだらじきに回復したといっていた。そういえばあのシメサバ、酢の浸かりが浅く生のような状態であった。一言注意してあげればよかった。「良く噛んだ方がいいよと!」私はアニサキスのいそうな刺身は良く噛んで食べる・・・。これ刺身好きの常識!噛んでかみ殺せば別に飲み込んでも問題ない。料理人も良く見ているがたまには見逃すこともある。

鰹の刺身は生が良いのか?ワラを燃やし火で炙り皮に焦げ目をつけるか、二択であるが私は後者を選ぶ。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

乾物

最近、乾物屋という名の店がほとんど無くなった。しかし市川駅近くの千葉街道沿いには「湯浅」という名の乾物屋が今も健在で残っている。ところがこの店一軒の店でありながら真ん中に仕切りがあり、実際には二つの店に分割されている。相続で二等分した結果このような形態になったらしい。乾物屋の多くがその後スーパーマーケットやコンビニに変わってしまったが、我々の子供時代には乾物屋がまだあちこちにあった。乾物とはまさしく乾燥させた食材を売る店で、冷凍設備の無い時代、食品の多くは腐敗を防ぐため天日で干したり乾燥させて保存した。たとえば切り干し大根、干しワカメ、干し昆布、凍り豆腐、干し芋、スルメ、椎茸、鰺や秋刀魚の干物、鰯の丸干し等々本当にたくさんある。このような干物を専門に商う店を乾物屋と呼んでいた。

私は乾物が好きだ!特に魚類は太陽にさらし乾燥させると生臭みが消え、イノシンサンも増し旨みが成分が増幅する。特にサンマやアジは開きが旨い!しかし最近スーパーなどで買うヒラキの干物は天日で干さず、ただ乾燥させただけの干物も多い。でもなんとなく香りと味が違う。たまに房総や伊豆のお土産でもらうアジの干物は、むかし食べた干物の香りがする物もある。やはり干物は浜の潮風にさらした天日干しに限るようだ。油の載った干物はグリルの上火でじっくり焼くとうまい。まだグリルの無い時代、七輪の上に網を載せて焼くと落ちた油で魚が黒焦げになり、よく見ていないと大変なことになった。

これも直ぐ上の姉に子供のころ聞いた話だが。姉が市川市の第三中学校に通ってた時の昼食時、いつもユニークな弁当を持ってくる隣の鈴木君を横目で見ると、「あれ、まあ、今日の弁当はまたまた凄い」何だと思いますか?なんとそれは四角い弁当箱のご飯の上に、アジのヒラキが一匹丸ごとベッチャリと乗っている、只それだけだったとか。鈴木君はそのアジを箸で取り出し、横腹からガブリと噛り付く、「ワイルドだどー!」姉は心の中で笑い転げたという。「へー、アジ一匹丸ごとですか。鰻重でなくアジ重も世の中にはあるんですね」よい勉強になりました。当時は子供も多く弁当などに気遣う親もまだあまりいなかった。

写真、片口風のお皿に切干大根の煮物をのせてみたらどうだろう。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

イチゴ

「イチゴにも旬はある」イチゴはいま殆どがハウス栽培され一年中店頭に並んでいるが、私の子供のころは全てが露地栽培でイチゴは5、6月頃の一瞬の果物であった。実は市川は当時、梨と並んでイチゴの主産地でもあったのだ。家の近所の畑でもイチゴがあちこちで栽培されていて、人のいないのを見計らい垣根の下から畑にもぐりこみ、赤く実ったイチゴを何個かツマミ食いしたこともある。イチゴ畑は実をつけ始めるとイチゴの植わる両サイドに稲ワラが敷かれ、イチゴの実が直接土に触れるのを防いでいた。そして出荷シーズンになるとイチゴは20個程が小さな木箱に綺麗に並らべられ、正面に市川イチゴと書かれたラベルが貼られて、市内の八百屋でたくさん販売されていた。

その頃のイチゴは今のイチゴより少し柔らかく酸っぱい!そこでガラスのカップにとり潰して砂糖とミルクをかけるか、甘い練乳をかけて食べた。練乳は小さな缶詰に入っていて、缶きりで穴を開け上から垂らす。赤いイチゴと白い練乳のコントラストは見た目もよく、非常においしかった。「あれ、なぜだろう?ふと気が付くと最近五月になっても市川のイチゴを見かけなくなる」このころ急速に始まった宅地開発による畑の消滅と、温暖な気候などを利用して早めに出荷される、静岡の石垣イチゴなどが出回ってきたことが原因だった。そして徐々にイチゴのハウス栽培が全国的に広まると、イチゴは一年中栽培されるようになり、旬が希薄になっていった。今では私も好きなイチゴのショートケーキなどは年中食べられる。

「あんらー!」イチゴをスプーンで潰そうとした瞬間、器から勢いよく飛びだした。「すいません」とあやまったがテーブルにミルクが飛び散る。この頃こんな経験は誰でも一度や二度はあったと思う。下の丸いスプーンではイチゴは滑って潰しにくかった。そこでしばらくすると誰が考えたのか、下が平らで凸凹した滑りにくい、イチゴ専用のスプーンが登場してくる。我が家でもさっそく購入し長く使っていたが最近見かけない。今のイチゴは甘いので何もかけずにケーキ用のホークでそのまま頂く。そこでほとんど使用しないので処分したようだ。アマオウなどのイチゴは大きく一口では食べられず、数口で食べることもある。

イチゴを潰して砂糖や練乳を加えたらその美しい形もだいなしだ。でもたまにはイチゴに練乳をかけて食べてみたい。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

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