ワイン

「たかがワイン、されどワイン」である。世の中のお酒でワインほどボトル一本の値段に開きのある飲み物はないのではないか。先日友達と工房の帰りにサイゼリアに行きメニューを眺めていると、どの料理も値段がリーズナブル。「なんとデカンタワインの値段が400円程とある」そこで私は好きなピザと赤ワインをたのんだ。通常イタリア人はワインをゴブレットなどでちびちび飲まない。大き目のグラスコップに注ぎ大胆に飲む、それだけワインは彼らにっとっては日常的でカジュアルな安い酒である。日本人は欧州ワインといえばフランス・ボルドー産を連想し、高級品でよく味わって飲むものだと思っている人が多い。

確かにワインの値段はピンキリで幅がある。たまにフレンチなどの高級レストランに行くとワインの注文には悩む。ワインリストを見て頼むのだが、ワイン通でもないので知っている銘柄などほとんどない。赤ワインはポリフェノールを含み健康に良いそうで最近は赤を注文することが多いが、レストランでワインを飲むと酒代が高くつくので困る。酒好きが何人か集まりれば当然ボトル一本ではすまない。何本も注文すると請求が料理代よりも高くなることもあるが、それでいてまだぜんぜん飲み足りない気分で帰る。高いワインボトルは料理の口直しにゆっくりと味わうもので、酔うための酒ではないのだろう。

「しかしサイゼリアのワインのこの味、どこかで飲んだ記憶がよみがえる」かつてイタリアのペルージアという町で語学研修を受けていた頃、休日に車で友人と郊外にドライブにいった事があった。途中で小さなワイン醸造所を発見!立ち寄ってワインを買ったが、ここのワインは量り売りだった。ラベルもなく普通のワインボトルに樽から直接うつすが、値段は一本分で300円ぐらいで安い。四本買いこんで三人で飲んだが、記憶がなくなるほど酔っ払った。このワイン、イタリア語ではヴィーノ・ロカーレといいローカルワインのこと。イタリアにはこのような小さな醸造所が沢山あるが、作る量が少ないので地縁程度で消費されているという。

サイゼリアは私の住む市川市の本八幡が発祥であるので40年も前からなじみがあるが、今後ともがぶ飲みできるワインの提供宜しくお願いします。(

千葉県勝田台、勝田陶人舎)

「梅は咲いたか桜はまだかいな、柳やなよなよ風しだい、山吹や浮気で、トテチリツン、色ばっかりしょがいな・・・」。寒い日が続くが部屋の二階から、道路を隔てた隣家の庭を見ると、梅の木に花がちらほらほころび始めている。梅の花を見ると浮かれてついこの唄を口ずさんでしまった。我が家では両親や妻の母親も小唄が好きで、宴があるとよく三味線を持ち出し、今のカラオケのように順番に小唄を歌っていた。むかし父が私に「お前も将来お座敷に行くこともあるだろうから、無粋にならぬように小唄を最低でも三曲は憶えろ」と言われて覚えたのが(虫の音、お伊勢参り、腹の立つとき)である。小唄を憶えて準備万端整っていたが、この歳になっても今だにお座敷への誘いがなく残念である。

私の父親は明治38年生まれで16歳の時の祖父をなくすと、直ぐに家業を引き継ぐことになった。当時我が家は日本橋三越の呉服誂え方の出入り業者として刺繍業を営んでいたため、職人さんやお弟子さんなど十数人をかかえていたという。そのため最初は職人さんも言うことを聞かず大変だったらしいが、商売が軌道に乗ると、金が自由に使えたのでお座敷遊び始める。そこで習い始めたのが日本舞踊と小唄だという。歌舞伎も好きで演目が変わるごとに三越から入場券が自動的で回ってくるので見に通っていた。だから芸事には精通している。戦後も姉達を連れ歌舞伎座には時々見に行っていたが、私が同行したのは数度きりである。

以前は私の仕事場があった浅草の観音裏にも料亭はそこそこあったが、最近ではマンションなどに建て替えられている。しかし浅草見番(芸者衆の取次ぎ場所)では、着物ショーなどを外国人観光客に見せるお座敷芸として、存続を模索しているようである。またデザイン事務所のあった浅草今戸から桜橋を渡るとすぐの界隈には向島の料亭街があり、向島見番の前を通ると三味線を稽古する音色が響いたが、近くにスカイツリーが出来た最近では様変わりし、どうなっているのかは分からない。街と一緒に伝統的な唄や踊りのお座敷文化まで消えていくのは、日本人として寂しい気がする。

写真は抹茶を飲むときに干菓子を乗せる梅の絵の小皿。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

「月も朧に白魚の篝もかすむ春の空、冷てえ風にほろ酔いの心持よくうかうかと、浮かれ烏のただ一羽、ねぐらへ帰る川端で、竿の雫か濡れ手で粟・・・。ほんに今夜は節分か・・・。こいつは春から縁起がいいわえ」これは皆さんも良くご存知の歌舞伎の演目「三人吉三」お嬢吉三の名セリフだが、節分が近づくとなんとなくウキウキこの口上が頭をよぎる。昔あるとき父親が「お前、濡れ手に粟の意味分かるか?」と聞いてきた。父の説明によると「濡れた手で粟」とは濡れた手で粟粒の中に手を入れると、粟が自然に手にいっぱいくっいてくる。労せずして手に入はいという意味だといった。江戸時代は粟や稗は常食していた。しかし最近では五穀米以外めったにこの粟には、お目にかかったことがない。

ところでこの粟であるが、昭和40年代位まで日本各地の山間部では食べられていたそうであるが、現在では粟を常食することはまれになったという。粟は作付けが容易で冷害にも強く気候変動の激しくなる将来には、また粟の常食などを検討すべきではないかと思うこの頃である。粟も粟餅で食べるとけっこう美味いそうだ。京都には澤屋という有名な粟餅屋があるといい、ここの粟餅は絶品で是非一度食べたほうがよいとの推奨の声が多いが、機会があったら寄ってみたい。コウリャンは戦後食糧難の時代に配給になり、母親がパンにしたが幼児だったので喰い逃した。

私の父は大の歌舞伎好きであった。子供のころ父と風呂に入り湯船に浸かって気持ちが和むと、登場するのがこのセリフだ。何回も聞いていると私もこの口上をそらんじてしまい、父の真似をして口をひん曲げ、一緒に朗じていた。子供がこのセリフを役者の真似をして語るのを想像して欲しい。かなりおかしいと思う「しがねえ恋の情けが仇・・・・・」ほかには切られ与三郎のこのセリフも面白かった。ところであの黄色い小さな粟粒は我々の世代ではなじみが薄いが、いつか濡れた手で大量の粟粒の中に手をいれてみたい。いや宝くじでも買って労せずして大金が手に入れば、老後の生活も金色に輝くのだが!

写真は50年程前の秋田のなまはげのお土産節分なので乗せてみた。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

クワイ

「クワイ、安いよ、安いよ、ねえー、クワイ買っておくれよ!」土手の上で元気よく通行人に声をかける。この通りは遊郭吉原に向かう道でいつも人通りが多い。ときどき浅草から吉原まで遠征し、農夫の目を盗んでは下の田んぼから勝手にクワイを掘り出し、並べて売って小遣い銭かせぎをするという。実はこの声の主は私の祖父である。祖父が子供だった明治初期、浅草寺裏手奥の吉原の回りはまだほとんどがクワイ畑などが広がる湿地だったとか。雷門の前に住んでいた祖父は幼児期からやんちゃで、いろいろなエピソードが語り継がれている。

7歳頃には頻繁に祖父の父親に「酒を買って来い」と使いに出されたという。当時酒は量り売りなので、三合徳利を持って酒屋に行くと顔見知りの店主に「おじさん、まけておくれよ!」と必ず頼むそうだ。そしてその帰り道に、そのまけてもらった分は自分で飲んでしまうという。当時の事で学校の規則を守らず小学校を退学になると9歳で家業に弟子入りする。そのご自分が後をとり成功すると日本酒の大樽を家に置き朝2合、昼3合、夜5合、一日に一升の酒を飲んでいたと言うから、私の酒好きなどまだ可愛いものだ。酒がないと手が震えて仕事が出来なかったそうで、完全なアル中である。

飯はほとんど喰わず、「酒は米で造るので食べなくても大丈夫だ」と言っていたいそうだが、深酒がたたり51才で亡くなった。平均寿命がどんどん長くなり人生百歳の声も聞こえる昨今では早死にである。その代わり昔の人は我々から比べるとみな早熟だと思う。祖父の二十歳、父の二十歳、私の二十歳、子供の二十歳。孫の二十歳、を世代ごとに比較をする、と同じ歳のイメージはどんどん幼くなっていくような気がする。人生太く短く、細く長く、でもその内容量が同じでは、長生きしてもつまらない。ゴム紐に目盛りをつけ引っ張るとどんどん伸びていく。しかし容量は変わらないただ長く伸びる人生では寂しい。内容や楽しみも倍にしたいものである。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

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